アランセーターの真実

『アランセーターの真実』 文・野沢弥一郎                                      記・2001年10月

(本文は、自著『アイルランド/アランセーターの伝説』の一部を要約したものです。)

「アランセーター」をご存じだろうか。

一般には単に「フィッシャーマンセーター」とも呼ばれ、わが国でも1970年代初頭に大流行した、縄編みの柄が浮き出すように入った白いセーターであり、その発祥は、アイルランド西岸のアラン諸島で女たちによって編まれたものである。そして、今でも島ではこのセーターが編み続けられている。

アランセーターの伝説

このセーターは、従来から以下のような物語が伝えられている。

アランセーターは6世紀の昔からアラン諸島で編み続けられており、その独特の編み柄には、漁に出る夫の無事と豊漁を願う女たちの祈りの意味が込められている。その組み合わせは、家々の編み手によってあたかも家紋のごとく異なり、それは母から娘へと伝承されている。

万一、不幸にも漁での溺死者が岸に打ち上げられたときには、着ているセーターの柄でその身元が判断できたといわれる。

荒海に漕ぎ出す男たち、それを優しく包む女たちの愛。このストーリーは、アランセーターが世界に普及するにつれ、皆に知られるようになり、いつしか伝説とまで言われるようになっている。

ある老人との出会い

私は、静岡市で洋服屋を営む者であるが、このセーターを四十年にわたって世界に紹介し続けたアイルランドの元弁護士パドレイグ・オシォコン氏 Padraig O’Shiochain と十年程前に出会って以来、アランセーターの魅力にぞっこんとなり、本業のかたわら、彼の日本でのエージェントを務めている。

そして、六年前に彼が九十歳の天寿を全うしたとき、どうしてもこのセーターの記録を残しておかねばならないと思い立ち、ずっと調査を進めてきたが、それがこの程ようやくまとまった。

アランセーターの発祥

アラン諸島は、アイルランドの中でも土着のケルトの風習が色濃く残る異郷の島として、J.M.シングの随筆「アラン島」やR.フラハティ監督の映画「アラン」によっても知られている。草木もろくにない岩だらけの貧しい小さな島、毎日の漁すら命懸けの過酷な生活。この島で、アランセーターは、いつ、どのようにして生まれたのであろうか。

幸いに、英、米、アイルランドのニット愛好家やファッション・ジャーナリストによって、この謎の解明はすでにほぼなされていた。それらの文献を当って分かった真実は伝説とはかなり異なるものであった。

伝説では6世紀とまでいわれていた発祥の時期は、実は20世紀初頭であった。アラン諸島の漁業基地に出入りしていたスコットランド人家族のガンジーセーターがベースとなり、そこにアメリカ帰りの天才的編み手の女性が持つ技巧が融合し、島独特の派手好みの美的感覚から、見事な装飾性あふれたセーターが出来ていったのだった。

普段編むのはガンジーセーターと同様に紺色だったが、教会の堅信礼(わが国の元服式にあたる)に際し、母親は十二歳になる息子の晴れ姿のため、とびっきり豪華な白いセーターを編んだのだった。

英国に渡る

1935年、女性地位の向上活動をしていたミュレイル・ゲインという女性が島にやってきて白いアランセーターを見つけ、首都ダブリンの自身の店に置く。翌年、その店を訪れたのが、H.E.キーヴァという服飾評論家で、彼は自らの推論でこれを英国に紹介する。

 「アラン諸島では世界のどこにも見られないセーターが編まれている。見事に装飾的な編み柄が施された白いセーターで、これは6世紀にこの島へ渡った聖人エンダによってもたらされたものである。」と。

そして、あろうことか、彼は、スコットランドでこのセーターのイミテーションを作らせ、英国内で販売する。恐らく、これには、彼が英国に亡命中のユダヤ人であったという、大戦時の特殊な国際事情も関係していたように思われる。

伝説はこうして流布を始めたのだった。

戦後の対米輸出

長年の英国支配から脱し1949年に念願の独立を果たしたアイルランドは、積極的な対米輸出政策をとった。アランセーターはその最重要品目であり、その役割を担ったのが、わが恩人P.オシォコンであった。

しかし、当時のアランセーターはまだ家族のためだけにいわば自家用として編まれていたものだったので、ウールはベタベタで臭いも強く、またサイズもまちまちと、とてもそのままでは売り物にはならなかった。

 彼は自ら島に長期滞在し、編み手の組織化や仕上がりレベルの標準化など、売れる商品としての生産態勢を整え、家内制手工業としての形態を作り上げた。

このセーターにいち早く注目したのが、1956年のクリスチャン・ディオールであった。雑誌「ヴォーグ」や「ハーパーズ・バザー」は、このパリの最新トレンドをアメリカに伝えていったのである。

そして、六〇年代前半、アランセーターはアメリカで大ヒットを迎える。当時の大統領は、かのJ.F.ケネディ。アイルランド移民の子孫である。移民として苦労を重ねてきたアイリッシュ・アメリカンたちがようやくにひとかどの地位を築き上げた時代であった。おらが故郷の、伝説を持つほどのセーターを歓迎しないなずはなかった。

 1961年、当時アイドル的存在とも言えたアイリッシュの四人組フォークグループ、クランシー・ブラザーズは、揃いの白いアランセーターを着て、エド・サリバン・ショーに出演。わずか16分の放映だったが、これが全米大流行のきっかけになったのだった。

この当時、あるアランの編み手は、年間に四十一枚ものセーターを編んだという記録がある。平均九日で一枚という驚異的スピードだ。それ程に需要があったのだ。

そして日本へ

1964年12月発行の雑誌「メンズクラブ」第四十号、巻頭グラビア。ダーツに興じる若者たち。見事に美しいアランセーターを着ている青年がいる。当時カーレーサーとして欧州を歴戦していた式場壮吉であった。彼は、このセーターをパリのディオールで手に入れたが、グラビアの撮影時に同席した、ヴァン・ヂャケットの石津祥介(創業者・謙介の子息)に懇願され譲ってしまう。その後、ヴァンはこれを「フィッシャーマンセーター」と銘打ち、わが国に大流行させたのである。

島の現状

六世紀という伝説は大袈裟にせよ、しかし、アランセーターは百年の間、今も編み続けられている。母から娘へ設計図もなく、それは伝説のとおりだ。百年間も発祥の地で変わらずにしかも商業的に編み続けられているセーターなど、世界でもアランをおいて他にない。これは、このセーターが人を魅了する美しいセーターであったという他ならぬ証しでもある。

しかし、その伝説も途絶えつつある。今日、ケルトのノスタルジーと荒涼とした風景美を求めてアラン諸島を訪れる観光客は、年間十万人を超える。このおかげで、島の人たちはもはやセーターを編まずとも「食っていける」ようになったのだ。

島の七十歳以上の女性は大概編むことができるが、それでも恒常的に常日頃から編んでいるという人数は恐らく四十人を割っている。最も若い女性でも四十歳ぐらいで、それより若い層には継承されていないのが現状だ。

現在、年間で編まれる枚数は三、四百枚程と推定される。島の外へ出るのが二、三百枚、その大半はわが国へ送られている。他は島の観光客へ直接売られる。きっとあと数年で、編み手も激減し、島へ行かないと手に入らない希少品になることだろう。アランセーターの灯はもうかなりか細いものになっていると言わざるを得ない。

かつてローマ法王への献上セーターをも編んだ、島一番のニッター、モーリン・ニ・ドゥンネルも六十五歳を機に、商売として編むのをやめてしまった。今は、家族たちのためだけに自らの楽しみとして編み棒を動かす毎日を過ごしている。私は彼女の穏やかで囁くような語りを思い出している。「このセーターは私が編んでいるのではありません。神が私に編ませてくれた、神様からの贈り物なのです。」

一枚のセーターに、こんな歴史と物語がある。アランセーターを手に入れること、それは単に高価な手編みセーターを買うというだけにとどまらず、この物語の参加者の一員になることを意味するのではないだろうか。

(野沢弥一郎 / ジャックノザワヤ・店主)

2022年追記
この文章は拙著『アイルランド/アランセーターの伝説』を出版した際、
某新聞の文化欄への投稿のために拙著の内容をかなり短く要約したものです。
当然ながら、拙著にはもっと詳しい話がいろいろと載っています。
また、2013年に「毛糸だま」に寄稿した一文は、画像を含めて、
上記の要約よりも詳しくまたわかりやすくまとまっていますので、これもぜひお読みください。
本を書いてから20年が過ぎました。ヒストリーの部分は何年経っても変わる事はありませんが、
この最近の20年に関していえば、アランセーターを巡る環境はずいぶんと変化しています。
しかし、本を書いたときには、もってもあと20年ぐらいかも、と悲観していた私ですが、
こうしてまだアランセーターのビジネスを続けられている、これは嬉しいです。