月刊【ツーリスト】への原稿


近畿日本ツーリストが優良顧客に発行していた「月刊・ツーリスト」という雑誌がありました。そこから、ロンドンについて何か書いてくれ、と原稿依頼があり、それがその五月号に掲載されました。

 

「ロンドン・私流ウォッチングの旅~路地や広場を歩けば出会える英国の素顔」

 

2階建てバス、ビッグベン、バッキンガム宮殿……お上りさん的イギリスの旅から始まって、紳士服店の経営者として度々訪れたロンドンを歩いて目にした“英国の素顔”……こんな旅もまた楽しさなのだ。

文・野沢弥市朗


 英国気質を謳ったメンズ・ショップのオーナーという仕事柄、私はお客様から英国の旅についてのアドバイスを求められることも少なくない。

元来、男というものは、ショッピングなるものが苦手、と言われていて、私自身も決して得意とは言えないが、しかしロンドンだけは例外だと思う。恐らくロンドンという街は、パリやミラノなどの他の欧州の大都市と比べてみても、男性が存分にショッピングを楽しむには最適の街ではないだろうか。数多の英国紳士を支えてきた古くからの専門店が男のモノごころを刺激して止まないのだ。

「背広」の語源と言われる「仕立屋横丁」のセヴィル・ロウから、二〇〇年続く小さなショッピング街・バーリントンアーケード(ボタンから銃や剣の店まである)を抜け、ピカデリー(馬具、傘、喫煙具など)を渡って、ジャーミン・ストリート&セント・ジェイムス・ストリート(シャツ、靴、帽子など)までの僅か一.五㎞のコース、これが私のお気に入り「英国紳士を知る、男の服飾早分かりコース」だ。一体このルートにいくつの男の店があるのか、数えたこともないが、丸一日をこのコースに費やしても足りないほどの充実感があると思う。大英博物館に一日を潰すよりもよっぽどロンドンが分かる、と言っても言い過ぎではない。いつ通っても変わらぬ光景だろうに、何度通っても新しい発見がある。これが歴史の重みだろうか。

なんて、今ではひとかどの英国通のような顔をしている私であるが、初めて憧れの訪英を果たしたときは、どんな観光客よりも舞い上がっていた。思い出すと恥ずかしく、しかし、懐かしい。

初めて降り立ったヒースロー空港から、朝もやの中の住宅街を縫うようにウインザーまで向かう路線バスの車窓に映るなんの変哲もない眺めさえ、最初は大はしゃぎしたものだった。お決まりのロンドン市内観光バスでも、二月の寒空にオープンエアーのダブルデッカーの二階席に陣取って、テムズ川・ロンドン橋の上で、おのぼりさんよろしくチーズでパチリ。それでも寒さを感じないほどに浮かれていた。

その後、ロンドンには何度か訪れて、そんなに舞い上がってしまうことも少なくなったが、それでも忘れられない出来事がいくつも思い浮かぶ。

ソーホー地区の東、グリーク・ストリートという小さな通りにある、これまた小さな酒屋「ミルロイ」。スコッチウィスキーのシングルモルトの品揃えではロンドン一と言われる店で、見たこともない幻のボトルがズラリと並んでいる。私はこの日朝一番の客になった。「この酒は何?」と訪ねると、太っちょのミルロイさん「この酒は……(延々と講釈)……、ちょっと飲んでみるか?」とテイスティング・グラスにたっぷりと注ぐ。幻のスコッチだ、願ってもない、とこっちも一滴残さず飲み干す。次のボトルを指さす。また、「これは……で、ちょっと飲んでみるか?」と再び惜しげもなく注ぐ。こっちから尋ねた酒だ、残すわけにはいかない。こうして、私は十杯近いスコッチのストレートをたて続けに一気飲みする羽目に陥った。もちろん、これだけ飲ませてもらって、タダでは帰れない。ご自慢のボトルを十二本も購入し、空輸を頼み(ケースが六本入りだから六本単位でしか送れないのだ!)、巨額の支払いを終えて店を出たのは良いが、目が回る、足はふらつく、まだ昼前だというのに、ヘベレケ状態。予定をすべてキャンセル、昼間からホテルのベッドで酔い冷まし。まったく、タダより高いものはない、を地で行くような体験だった。

アスコットの競馬もいい思い出だ。ギャンブルをやらない私の目的はファッションウォッチング。紳士のモーニング姿の実例をつぶさに観察したいがための、アスコット行きだった。ところが、競馬場はカメラ持ち込み禁止で、入り口で没収。しかも場内は正装エリアと平服エリアが柵で分けられている。私はと言えば、柵の縁から、正装の紳士淑女を双眼鏡で覗いては、必死でメモを取る有様。おまけに土砂降りの雨。観衆がトラックの馬たちに大騒ぎする中、私一人あさっての方角を向いて、雨合羽姿でメモを取っていたわけだからずいぶん変な奴と思われただろう。

「金曜日の朝のバーモンジーの蚤の市が面白いよ。ただし観光客が増える八時すぎからは値段が段々高くなるからね。行くんだったら夜明け前だぜ。」との情報に、懐中電灯持って朝の四時から行ったはいいが、慣れない物をゆっくり物色しすぎて、結局買ったのは九時を回ってた、なんて笑い話も思い出す。

 ところで、東京と日本が違う以上に、ロンドンと英国はまったく違うと言って良い。英国の旅をロンドンだけで終わらせてしまうのはいかんせんもったいないことだ。何としてもカントリーサイドへ出てみることをお薦めする。イチ押しは、三泊四日ロンドン発着の英国一周バスツアーで、私は皆に薦めている。四日も取れないという人も、せめて二日でもロンドンから離れて、郊外へ旅したい。英国人の暮らしぶりはカントリーサイド抜きには語れない、きっとそのことが実感できると思うからだ。
(一九九七年五月)