月刊【ツーリスト】 ボツになった原稿


前掲の原稿が実際に掲載されたのですが、これは一晩で急いで書いたものでした。と言うのも、実はその前に一度提出してボツになり、差し戻された原稿があったのです。私としては、かなりの調査時間を割いて書き上げた原稿だったので、自信はあったのですが、編集者に「あまりにマニアック」と言われてしまったのです。ついでですので、ここに載せることにしました。

 

幻の原稿【セヴィルロウ物語】

 

▼十九世紀後半の文明開化の頃、ある日本人と英国人の会話。

日「おぬしのその服は何と称するものか?」

英「オー、ユーにもこのスーツの素晴らしさが分かるのか!何と嬉しいことよ。こいつはナ、そんじょそこらのスーツとはわけが違う、わざわざセヴィルロウで誂えた超一流品だ。どうだ、スゴいだろう、セヴィルロウだぞ!」

日「承知した。セ・ビ・ロ、だな。」

 かくして「背広」は日本語になったと言われている。

▼ロンドンの銀座通りともいえるリージェント・ストリートとボンド・ストリートの間に通るわずか二百メートルばかりの小径、ここが「背広」の語源となった「セヴィル・ロウ」である。よくファッション雑誌などで、セヴィルロウ・ストリートと書いたものを見かけるが、「ロウ」とはストリートよりも小さくて真っ直ぐな道という意味なので、この言い方は間違い。もっとも、このセヴィル・ロウが初めて文献に現れる一七三三年三月十二日付デイリー・ポスト紙は「バーリントン家の敷地内に新たな屋敷街が完成。その名は、セヴィル・ストリート」と報じているから、いつの間にかストリートからロウに格下げになってしまったらしい。ちなみに「セヴィル」は当地の領主バーリントン伯爵三世の妻の名から名付けられた。

▼この小さな通りとその周辺には約六十軒のテイラーが名を連ねており、まさに「仕立屋横丁」と呼ぶに相応しいのだが、残念ながらメンズショップがズラリと並んだ華やかな光景はここでは見ることができない。最も南寄りの一番地にある「ギーブス&ホークス」は、いつも華やかなウィンドゥディスプレーで、店内には既製服やアクセサリー、カジュアルウェアも豊富に置いてあり、観光客でも比較的気楽に買い物が楽しめる店であるが、こういった「ショップ」となっているところはむしろ稀で、「ヘンリー・プール」も「ハンツマン」も「キルガー・フレンチ&スタンバリー」も、その多くはいわゆる「ショールーム」で、ウィンドゥには一、二体のボディと巻いた服地が少々のディスプレー、室内にはバンチと呼ばれる服地のサンプル帳と大きなソファ。つまり商談応接室で、客のいないときは電灯すら消えているところもある。とても「ジャスト・ルッキング」と冷やかせる雰囲気ではない。

▼中にはショールームも持たず、ビルの階上にオフィスと工房だけといった小規模の仕立屋も数多く存在している。彼等は年に数回欧米に出張して顧客からの注文を採って回っている。多くは、元来、王室や陸海軍の指定を受けた御用職人で、儀礼服や乗馬服などの製作に携わってきた。今もそういった注文は決して少なくない。顧客層は、各国の王室皇室、政財界人、軍人はもちろん、ハリウッドの俳優やロックスターなどもこの街のカスタマーである。

▼セヴィル・ロウの仕立屋の多くは「ビスポーク・テイラー」と呼ばれる。一般のオーダーメードは標準型紙を元にして顧客ごとに修正を加えるのが普通だが、ビスポーク・スーツは型紙そのものから顧客一人ずつに作られ、何ヶ月もかけて顧客と話し合いながら(be-spoken)一着を仕上げていく、完璧な「誂え服」なのだ。その価格は最低でも五百ポンド(約十万円)、ほとんどは千ポンド(約二十万円)以上はする。これを高いと見るか安いと考えるかは、その人の価値判断だ。

▼世界中の紳士達の身だしなみを支えてきたこの静かなセヴィル・ロウが、時ならぬ大音響に包まれたことがある。一九六八年六月二十二日、ザ・ビートルズの会社「アップル」は、セヴィル・ロウ三番地にあった旧アルバニークラブを買収し、オフィスを構えた。以降、一九七二年のアップル解散までの約四年間、この街はジョン、ポール、ジョージ&リンゴに一目会いたいと願う少年少女たちで溢れ、通りの様子は一変したという。映画「レット・イット・ビー」のラストで繰り広げられる、あの壮絶は屋上ライブの舞台はこの三番地のビルの上で、文字通り上を下への大騒ぎ振りがフィルムにも描かれている。その後、このビルはしばらく服地卸のウェン・シェルが入居していたが、一九九五年に隣のギーブス&ホークスが所有し、売り場として増床している。

▼いっとき時代から取り残されたかのように見られていたセヴィル・ロウが、今また熱い注目を浴びている。その旗手は、伝説に化石化した老舗ブランドではなく、ポール・スミスやジェレミー・ハケットが主張してきたような、化石を現代に蘇らせるコンセプトを踏襲した新しいメンズ・デザイナーたちである。一九九二年にセヴィル・ロウに店を構えたリチャード・ジェームスもその一人。彼の店にはビスポーク・スーツを注文に来る二十代の男性が後を絶たない。彼等は誂えの細身のスーツを着てナイトクラブへ出掛けるのだそうだ。

▼「背広」の言葉は確かに誤解から生じたかもしれない。しかし、偶然にしては出来過ぎと思わせるほど、我々を背広のルーツへ、英国紳士の神髄を知る旅へと誘ってくれた、ありがたき大誤解だったと、私は感謝している。
(一九九七年五月)