倶樂部余話【三十五】「いち抜けた」で「ブリティッシュ」(一九九一年十月十六日)


「イタリアンソフトからブリティッシュトラッドへ」が最近のファッション雑誌の見出しにしばしば踊っています。「いま英国がトレンディ」の扱いについてどう思います、とも問われることが増えてきました。

私は、たとえどんな薄っぺらな内容だろうと、扱われないよりは扱われる方がはるかにいいことだろうと思います。事実、「セヴィルロウ」という地名もかなり一般に知られるようになりましたし、当店扱いの各ブランドの周知も広がりました。基本的に当方にとって何も悪いことではありません。

「なんだ、もっと君らしい毒のある批判が聞けるかと期待していたのに。」と拍子抜けされたかもしれませんが、私がいちいち目くじらを立てないのは、うわべだけの表面的な変化しか捉えられない雑誌なんかよりも、うちのお客様の方がよっぽどこの流れの本質を見抜いているはず、という自信と信頼が根底にあるからなのです。

今でこそ「このブリティッシュへの流れをよくぞ先読みしたものですね。」と、何か当店を流行の最先端ショップのように誉めて(?)くれる方もいますが、思い起こせば五年前、ソフトスーツの台頭著しいときに「今はみんなイタリアなのに、なぜ今さら(!)ブリティッシュの店なんかを…」と社内外からかなりの批判を浴びたものです。もちろん私に仙人のような先読みの力があったわけではなく、むしろその逆で、目まぐるしく変化しすぎる流行ばかりについていきたくない、人の正常な歩みの早さでゆっくりと進んでいきたい、流行の振り子のできるだけ中心の方に位置していたい、いわばトレンドゲームから「いち抜けた」の心境からスタートしたのです。(もちろん服飾業のプロとして業界全体のファッションの流れは知識として把握していなければならないのは当然のことですが)

 今のブリティッシュへの流れも、ブームやトレンドという表面的な変化では決してありません。一つの証拠に、アメリカやイタリアがブームの時には必ずその国の経済も強かったものですが、今の英国経済はかなりの不景気です。

ことの本質は、業界の押し付けるトレンドの無理強いに気付き、追っかけることを発展的に積極的に放棄した人たちが多数を占めてきたということ、「いち抜けた」派が無視できないほどに増えてきただけのことだと考えたいと思います。つまりファッションの変化などではなく、ファッションへの関わり方が進化しただけで、まさにこれが「英国気質」への再評価につながっているのです。

「個性化」が横並びして「画一化」と同義語になってしまうこの国では、これから「にわかブリティッシュ」の店も客も増えることでしょう。といって、たかだか五年ぐらいでうちが元祖だと威張るつもりもありません。にわかの店か本物か、店の評価は店事態が決め込むものではなく、お客様が自然に決めてくれるものだと思っています。