倶樂部余話【353】シンパって死語なのかな(2018年3月1日)


はじめは女子カーリングぐらいしか興味のなかった平昌冬季五輪でしたが、思いのほか熱くなって各競技に見入ってしまいました。そこで浮かんできたのがシンパという一語でした。

異国間のライバルだとか、兄弟や姉妹、恩師と弟子の関係や、先達と後進、歳の近い先輩後輩、など、その間柄は様々ですが、両者は、時には反発し合い、また時には励まし合い、また慰め合いながら、苦しみや悩みを共通体験としつつ、そのうえで、相手の喜怒哀楽を自分のことのように分かち合える、その相手同士にしか理解できないだろう共鳴する感情。友情とか愛情というような簡単な言葉では言い表せない、この濃い感情をなんと呼ぼう、シンパシーsympathyと称していいのではないでしょうか。

このシンパシーを感じ合える同志(シンパサイザーsympathizer)を、日本流に略してかつてはシンパと言ったようです。私よりもふた世代ほど前、学生運動華やかかりし頃に生まれた、主に左翼系思想家たちに好まれた言葉じゃなかったかと記憶しています。ときには親派と漢字の当て字を付けられたりしてます。どうも今ではほとんど死語になっているようで、奴は彼のシンパだからな、というような表現は今ではあまり聞くことはありません。だけど、「彼にはなんとも言えない深いシンパシーを感じるんだよ」ということは時々あります。そうそうテレパシーとかエンパシーというのも同じ語源になりますね。

国家間の政治的思惑が強い五輪として始まったがゆえに、かえってことさらに個人間の関わりが強調されたのかもしれません。そしてメダルを取れなかった競技者(当然そちらのほうが大多数なのです)にも人に知られることのなかった様々なシンパシーな関係があったろうことに思い巡らせてあげたいと思うのです。そして自分のことを振り返ってみます。すると、自分にもシンパと呼びたい人が何人か浮かんできます。さてその彼らは私をシンパだと思っていてくれるのだろうか。自信ないなぁ。あなたはどうですか、シンパと呼べる人はいますか、そしてその人はあなたをシンパと思っていてくれていますか。

こんな思いを起こさせてくれた多くのアスリートに感謝。次は東京です。大丈夫なのかな、すごく心配ですけど。(弥)