倶樂部余話【376】ダブリンにて(2020年2月1日)


昨年の三月のこと。アイルランドでアランセーターについての新しい本が発売されたという話を聞き、早速アマゾンから電子ブックで購入しました。
かつてはマイナーな新刊の洋書を手に入れるのにはそれなりに苦労したものですが、時代は便利になったものです。
ざぁっと目を通してみると、驚きました。出てくる写真は17年前に書いた私の本とほとんど同じ、内容も拙著と大変よく似ているのです。それでいて日本についての記述の部分は的はずれな誤りも多く、そこに紹介されている邦書二冊はどちらも拙著を底本にしているもので、肝心の私の本はどこにも紹介されていません。

「まあ、仕方ないか。この二冊も巻末までちゃんと読めば私がしっかり協力していることはすぐに分かるんだけど、なにせ日本語だし、それに拙著が絶版になってもう随分久しいし、この著者が知り及ばなくても当然だろう。むしろ、今アイルランドで書かれた本が17年前に日本で出た本と偶然にも内容が酷似しているということは、私の本が世界的に見ても普遍性を持っていたことが証明されたようなものだから、これは誇りに思っていいんだよなぁ」などと思い直したのです。

しかしです、このまま拙著の存在を著者に見過ごされたままでいいはずはありません。Facebookによると、近々ゴルウェイの大きな書店で出版記念のサイン会と対談があるらしい、しかもその対談の相手は地元ショップのアン・オモーリャ、とある。
早速アンにメールを入れます。「来週の書店でのイベントのときに、あなたに献本した私の本を持っていって、その著者に見せてあげてほしい」と。

しばらくして、著者ヴァゥン・コリガンから直接メールが来ました。驚きと感謝と謝罪が入り混じった、でもちょっと軽めの文章です。今後はお互いに情報交換をしていきましょう、そして今度ダブリンでぜひお会いしましょう、と約束をしたのでした。

そして年が明けて訪れたダブリン。ミーティングの場所に先に待っていた彼女は、思っていたよりもずっと若い、30代かな。驚いた。そして彼女も驚いたと思う。地球の反対側で17年も前に、8年も掛かってアランセーターのことを調べ尽くした男が目の前にいることに。なんと言うのだろうか、ライター同士だけが共有できるシンパシー、というようなものが、お互いの脳を電波のごとくに走りました。

2019年の今になってまたアランセーターの本が出たのは、決して偶然ではないのでしょう。
毎年のダブリンで通訳とモデルを兼ねて私と半日間同行してくれるミワさんは、アイルランドのファッション事情にとても精通している在愛の日本女性ですが、
会うや開口一番「野沢さん、今アイルランドではアランセーターが流行ってるんです」と言います。「アイリッシュツイードも流行りです」と。アイリッシュネス重視の自国主義の現れか、または最もエコロジカルな素材としてウールが再評価されているからなのか、
ともかくこの20年間、本場のアイルランドでアランセーターが流行りになる、なんて聞いたことがありません。確かにそう言われれば展示会場もダブリンの街角も、若い女性のアラン模様の着用率がいつもより高いことがすぐに見て伺えます。
アラン本の著者ヴァゥンが軽い調子で「次はツイードの本を書くの」と言っていたのを、さもありなん、と思い起こしました。

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翌日のミーティングはアン・オモーリャとアランセーターの打ち合わせ。私はまず「昨日、著者ヴァゥンに会ってね…。ゴルウェイの書店ではいろいろとありがとう……」との冒頭の会話を用意していましたが、アンの口の方が早かった。しかも神妙な面持ち。
「あなたにまず伝えなければならないことがあるの。つい3週間前の1月4日に、イニシマン島のモーリン・ニ・ドゥンネルが亡くなったわ」。ああ、ついにこの日が…。イニシマンにモーリンを訪ねたのは27年前。以来、計4度の訪問。思い出が頭の中をぐるぐると駆け回る。涙が止まらなくなってる自分。

1934年生まれ。6歳から編み物を始める。9歳で母を失くし、10歳にして兄の堅信礼のための白いアランセーターを独力で編む。16歳で父が逝き、兄との貧しい生活。
22歳のとき、ダブリンからやってきたパドレイグ・オシォコンに見い出され、アランセーター生産の島のまとめ役を40年間にわたって務める。26歳で地元男性と結婚、3女に恵まれる。
自らも秀でたニッターとして名を馳せ、1981年にアイルランドを訪れたローマ教皇ヨハネ=パウロⅡ世に献上するアランセーターを編んだ。
国内外のメディアにも数え切れないほど取り上げられた、アイルランド一の伝説のニッター。享年85歳。

「アランセーターは私が編んでいるのではありません。神様が私に編ませてくださっているのです。アランセーターは神様の贈り物なのです」
私の本の結びにも記した、忘れられないモーリンの言葉。彼女のこの言葉がなかったら私は神を信じる者の枝にはもなってなかったことでしょう。そして勝手に思ってました、モーリン、あなたは私の第二の母でした。
これを読む方々にお願いします。どうかモーリンの冥福を祈ってください。
2013年1月。これが最後の面談となりました。

この弔意をどうやってご遺族に伝えることができるのか、ミワさんに調べてもらったら、国中の物故者情報をデータベース化したその名もrip.ieなるサイトがあることを知りました(RIPは、ご冥福をお祈りします、の意の慣用句です)。
ここからモーリンの葬儀情報を得ることができ、そのうえ、そのサイトからクレジットカードで献金を寄せたり、遺族にお悔やみのカードを送ることもできるのです。なんと便利で役立つサイトでしょう。
こんなサイトがどこの国にもあればいいのに、と思いますが、葬儀ビジネスが高額高利益の寡占事業化している日本ではおそらく無理なことでしょうね。
そして、今日、このサイトからメールが入り、無事にご遺族にメッセージをお届けしました、との報告がありました。

例年の海外出張報告よりもずいぶん長くなってしまいました。
ダブリン2泊の業務の後、帰りに妻とローマ観光1泊をして
今年もイスタンブール経由で無事に帰国しました。(弥)

倶樂部余話【375】あざやかな場面(2019年12月28日)


アニュアル・イベントと言いますか、年一回の恒例行事が私にも数多くありますが、その中で、ああなんて幸せなんだぁ、と、最高の幸福感に浸っているあざやかな場面が私には三つすぐに蘇ります。自分の姿を別の自分が見ているような不思議な光景が頭の中に浮かびます。

8月の下旬、山中湖での高校テニス部OB/OGの合宿。70代の大先輩から高校出たての若い後輩たちまでが、一緒になってボールを追いラケットを振る。43年前の初参加から毎年変わらぬ光景。テニスコートに立つ私の姿が見えます。ああ今年もまたここでみんなとテニスができる、幸せだなぁ。

12月の暮れ、私の誕生日に大船の居酒屋で催される忘年会。高校一年時のクラスメイト男子4名女子2名の6人がコアメンバー。41年前の出会い以来、家族ぐるみの付き合いになるので、宴には各々の家族や共通の友人などが加わりいつも大賑わいの宴会になリます。人間六十も過ぎればそれなりにいろいろあります、後悔もあれば苦労もある、そして同じ顔が集まり毎年おんなじ話に笑い転げている自分がいる、今年もみんなとこの場面にいて、一年一度酔っ払う。これ以上の幸せは他にない。

1月下旬。アイルランドの首都ダブリンで催される大展示会。その中を忙しそうにちょろちょろ歩き回っている一人の日本人が見えます。あの顔を初めて見たのは24年前だな、しかしまあなんと幸せそうな顔をしているんだ、とその場面を見ている天上の誰かの声が聞こえてきます。2日間で20社近くと商談をしますから、実際は幸福感に浸っているような余裕もないはずなのですが、その時々ふとした瞬間瞬間に、ああ今年もここに立っていられる、幸せじゃんね、と思うのです。時差ボケのせいなのかもしれませんが。

この三つ、今だから言える共通点があります。これらのためには店をも閉める、まあダブリンは海外出張ですから許されるとしても、前者ふたつも場合によっては店を閉めても出掛けます。私にとっては冠婚葬祭以上に大事なイベントなのですから。
人は亡くなるときにいくつかの場面が走馬灯のように頭の中を駆け巡ると、よく言われます。この三つの場面は間違いなくそうなることでしょう。

皆さんはどうですか、一年に一度、幸せだなぁ、と実感するあざやかな場面、いくつぐらい思い浮かびますか。そのために笑っちゃうような子供じみた無茶なわがままを通したりしてませんか。お会いしたときに聞かせてほしいです。

今年一年のご愛顧に感謝します。良いお年をお迎えください。(弥)

倶樂部余話【374】若者はおおむね正しい(2019年12月3日)


今年は人類が月面に初着陸して五十年だそうです。1969年。当時の私、小学六年生の十二歳。今思ってもパソコンもない時代にすごい事ができたものだと感動します。その年の一月、東京大学安田講堂を占拠していた大学生が機動隊に「落城」しました。テレビはその一部始終を中継し、機動隊に引きずり出される学生の姿を見ながら、私はこう思っていました。「大人の権力に向かって石を投げる姿、なんてかっこいいんだろう。自分も大学に入ったら、学生運動に加わりたい」。そう、全学連に憧れた少年だったのです。もちろん小学生ですから思想的な背景などまったく理解していなかったのは言うまでもありません。クラス一の悪ガキで校内の問題児だった私でしたが、ちょうど小学校卒業と同時に杉並から湘南に引っ越すという転機にあたり、自分の過去を知るものが誰もいない真新しい環境で、中学時代はひたすら生徒会活動に没頭、職員室に突っ掛かってばかりいました。かばんには毛沢東語録(読んだことはなかった)、下駄を履いて髪を伸ばして、深夜放送にフォークソング…、まさに反抗期の真っ只中、今思うと大人の手のひらの上で勝手に踊っていただけのかわいい行動ではありましたが、当時は精一杯に気張っていたのでした。

そして、いつも思っていたことがありました。どうして大人は判ってくれない。若者は思いつきで言っているように見えるかもしれないが、本当はとても考えている。毎日毎日大人の何倍も何倍も考えている。対して大人は考えているふりをして実はあんまり考えてなくて、ただ経験でモノを言っているに過ぎないことがあまりにも多すぎる。そうだ、私は誓おう、若者はいつも考えている、そしておおむね正しい、と思おう。自分が将来どれだけ大人になっても絶対にそう思い続けよう、若者は大人が思うよりもずっとずっと考えている、そして大概は正しい、と。

子育てのときには、この誓いを守ることが時に呪縛となるような思いに至ったこともありましたが、その誓いは今でも間違ってなかったと感じています。ただそれは私の中にずっと、大人になんかなりたくない、子供のままでいたい、という甘ったれた感情があったからではなかったか、と振り返るのです。反発できる対象としての大人が常にいたからです。

そのことに気づいたのは、両親を失ってからでした。人は親が生きているうちはいくつになっても子供のままなんです。親を失くして初めて気づく感情、あ、もう私は子供ではないんだ、と知るのです。それでも私はこの誓いを曲げません。若者はおおむね正しい。

香港の学生デモの騒動、大河ドラマ「いだてん」の64年東京五輪への道のり、ローマ教皇の来日。そんなこんなの映像を見ていてたら、昔の話を思い出していました。
幸多き年の暮れでありますように。メリー・クリスマス。(弥)

倶樂部余話【373】三通の招待状(2019年11月1日)


一週間で三回も首都圏を日帰り往復するのは多分初めてかもしれません。予期せぬ招待状が三つ届いたからでした。

日曜日。一つ目の招待状によって、私たち夫婦は新横浜にある巨大スタジアム内のラウンジ付VIP席でラグビーを観戦しました。日本対スコットランド。大一番の大勝利に興奮のるつぼでした。これ以上話しても羨ましがられるだけなので、これはこの辺で。そしてハイネケンをたっぷりと飲みました。

水曜日。二つ目の招待状は、当店がこの六月に移動ショップを行なった島田市金谷「And Wool」の村松氏から。新ブランドの発表会を某大手アパレル企業のサポートを受けて代官山でやります。当日はデザイナー自身が編み物のデモもやるのでいらしてください、との誘い。光あふれるショールームでファッションの先っぽにいる人ばかり、と、場違い感いっぱいの中、村松氏の演出は、静岡の料理、静岡の飲み物、静岡の草花、静岡の作り手、とこちらが恥ずかしくなるほどの静岡づくしのもてなし。
嬉しいじゃないですか。その本拠地、金谷の彼の店に、私は店ごと客ごとまるごと一日移してその魅力を堪能してもらうことができる。何という幸せ。奇しくも次の移動ショップの実施日は11月9日(土)と目前に迫っています。私にとってはこの展示会はそのプレイベントのようなもの。移動ショップに来てくれた人は必ず楽しめるだろう、との確信を持った水曜日の午後。そして風変わりな静岡茶を数杯いただきました。

金曜日。三通目は在日アイルランド大使から。国の通産大臣がファッション企業数社とともに来日するので歓迎レセプションに元麻布の大使公邸までいらしてください、と。更に、ファッション関係者を集めてのセミナーでアランセーターについて短い講演をお願いしたい、という内容。アランセーターの講演は過去に何度かやりましたが、意外にもファッション業界人向けには初めて。60人ほどの聴衆に20分程度の話でこれは無事に済みましたが、本当に私が言いたかったことはその後の司会者との質疑応答の中にありました。
「野沢さん、アランセーターの魅力を一言で言うと?」「静岡の小さな洋服店主の立場では決して出会うこともなかった多くの素晴らしい人達と、アランセーターをやったおかげで私は知り合うことが出来ました。アランセーターは私の人生を変えてしまったセーターです」 そしてギネスをがんがん飲みました。

これら三つはどれも一ヶ月前以内に急に入ってきたインビテーション。ただでさえ入荷ラッシュで休む間もない十月の中旬のこの時期に、一日置きに出掛けていては、当然業務は停滞気味になります。昨年はプライベートに忙しかった(倶樂部余話【361】参照)十月でしたが、今年もこの有様。どうも十月はバタバタと動くのが私に課せられた使命なのかもしれません。(弥)

倶樂部余話【372】百敗しても不敗の民(2019年10月1日)


アイルランドの最大の魅力の一つとして間違いなく挙げられるのが人柄の良さです。しかしいくらなんでもあまりにも人が良すぎる、何も主催国が相手だからって負けてやることはないでしょ、人の良さにもほどがありますよ。
駿府城公園のパブリックビューイングに集まった2万人の歓喜の渦の中、緑色に身をまとった私は、思いも寄らない結果を目の前にして、自分は一体どんな表情をしたらいいんだろう、とわからないままに茫然と周りのハイタッチに手を合わせるしかありませんでした。

アイルランドへ25回も往復している静岡県人としては、静岡とアイルランドを結ぶ架け橋になにか役に立ちたい、と思いながら、具体的なことはほとんど何もできず内心ちょっと残念な思いも抱いていたのですが、もうそんな私の出番など必要ないほどに静岡とアイルランドは大きくつながりを持ちました。アイルランドがどういう国なのか、人の良さはもちろんですが、例えばなぜ北と南の統一チームが実現できているのか、なんていう政治的な事柄も静岡、いやもちろん日本中にですが、かなり知ってもらえるようになったと思います。
そして、アイルランドの人たちにとっては、SHIZUOKAは忘れたくても忘れられない地名として脳裏に刻み込まれたことでしょう。今までは「東京と名古屋の中間で、富士山のふもとの海辺」といちいち説明しなけりゃいけなかったのが、これからは、お前「あのSHIZUOKA」に住んでるのか、あれはいいゲームだったな、とアイリッシュのみんなから称賛されることは間違いありません。

日本のアイルランド通の人たちがしばしば引用することでよく知られた文章があります。司馬遼太郎「街道をゆく〈31〉愛蘭土紀行 2」からの一節で「アイルランド人は、客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だと思っている。教科書がかれらにそう教えるのではなく、ごく自然に、しかも個々にそう思っている。たれが何といおうとも、自分あるいは自民族の敗北を認めることがない。ともかくも、この民族の過去はつねについていなくて、いつも負けつづけでありながら、その幻想の中で百戦百勝しているのである。」

はい、試合には勝てなかったけど、そのおかげで日本人の心に強い印象を残すという点では他の18チームのどこよりも負けてはいない、と思っていることでしょう。さあ、かくなる上は、日本もアイルランドも決勝まで進んでもう一度接戦を演じてもらうしかないですね。それでこそ百敗の民の面目躍如でありましょう。(弥)

倶樂部余話【371】何も書けなくて9月(2019年9月1日)


カレンダーでは一年後半のスタートは7月1日ですが、感覚的には9月1日を折り返し点と感じている人はわりと多いんじゃないでしょうか。昔から夏休みが終わって二学期の始まりですし、季節はちょうど夏と秋の変わり目です。また当社も長いこと8月決算でしたから、8月末の深夜に棚卸しを終えて寝不足で迎える翌朝は防災訓練の交通規制にはまって遅刻する、というのが毎年恒例になっていた9月1日は、また新しい半年が始まるんだ、と気分をリセットする日でありました。

ではとても清々しい晴れやかな心持ちで9月を過ごしているかというと、決してそうではないのです。何しろ私の店の場合、年間売上の半分以上が9月10月11月の3ヶ月で決まってしまいます。商品は海外からちゃんと届くだろうか、客は期待通りに来てくれるだろうか、お金は回るだろうか、もうその心配に追いまくられる毎日なわけです。

そのプレッシャーがどこに現れるかというと、ここに出ます。「『倶樂部余話』が書けない」。普段は仕事に関係あることもないこともわりと平気でつらつら書いてますけれど、9月の倶楽部余話は、読む人を必ず買う気にさせるような文章を書かないと、と、思ってしまうと、何を書こうかどう書こうか、何をどう書いてもきっと気が急いて売る気満々に伝わり、引かれてしまってたらどうしよう、と、考えれば考えるほど、何も書けなくなってしまいます。

しかも今年の9月は例年に増して、未知のことが多すぎます。ブレクジットはどうなるのか、例外の多い消費増税、キャッシュレス決済のポイント還元、海外送金も新たな方法を考えないといけないし、と、不安要素が増します。

でも去年の同時期、売り場もなくし在庫も極端に減らして、本当にこんなんで秋冬は大丈夫なのか、と思っていたことを考えると、うん去年よりはずっといい、なんとかやっていけそうだよ、という自信は付いてきました。

そんなこんなで迎えた32年目の9月が始まりました。800字を超えたので今話はここまで。(弥)

倶樂部余話【370】鵜呑みの旅も悪くない(2019年8月1日)


鵜呑み、というと、ヤツの話を鵜呑みにしてはダメだよ、というように、否定的な表現で使われることのほうが多いようですが、いや、今回の鵜呑みは実に良かったんです。

7月の初旬、初めて岐阜・長良川の鵜飼に行ってきました。ゆかた姿で屋形船に乗り込み、鮎料理を堪能しつつ酒盃を重ねながら間近で鑑賞する鵜飼。信長も秀吉も楽しんだのと同じ何百年も変わらぬ古代の漁法が受け継がれています。だからなんか戦国時代にタイムスリップしたチョット殿様気分です。鵜匠に操られる鵜の鵜呑み、ホントに鵜呑みにするんだぁ、と妙なことに感激でした。

そもそも時間貧乏な私は、旅をすると言っても、出張の用事にかこつけてその前後に慌ただしく街歩きをする、といった程度ことしか考えられなくて、このような大名旅行的な企画は思いつきません。今回は、大学時代のテニスサークル同期、男ばっかり18人の同窓会旅行。卒業して39年、そろそろ第一線をリタイアするものも現れてきて、物故者の出ないうちにぱあっと集まろうや、という企てでして、幹事のたてた計画をまさに鵜呑みにして加わったものなのでした。鵜呑みの旅も悪くないものですね。長良川鵜飼、これホントおすすめです(Jという老舗旅館に泊まることが決め手です)。
おまけとしてその前後に個人の単独行動をくっつけてしまうのが私の癖でして、前に犬山城、後ろに郡上八幡の街歩きを足して、これで全国で118ある「重要伝統的建造物群保存地区」(近頃は重伝建、という略称まであるらしい)をまたひとつ踏破、一泊二日の旅でした。

そうしたらそのうちの一人からまた新たな誘いが。俺の1000本目の記念ダイビングを8月に石垣島でやるので誰か付き合え、と。じゃその話、鵜呑みにするよ、ということでモルディブの新婚旅行以来34年ぶりに潜りに行きます。竹富島歩きをその前のおまけに付けて、重伝建の最西端(かつ最南端)もつぶしてきます。この鵜呑みの旅もきっと悪くないものとなることでしょう。(弥)

倶樂部余話【369】聖火ランナーの思い出(2019年7月1日)


私は12歳まで東京の杉並区に住んでいて、明治八年創立という歴史ある小学校で過ごした私の六年間は、1964年のオリンピックに始まり1969年の月面着陸で終わりました。

青梅街道の沿道に出て聖火ランナーに日の丸の小旗を振った小学1年生のときの体験は今でもはっきりと目の中に焼き付いています。開会式の前日、雨の降りそうな曇り空の下、白バイとパトカーに先導されて遠くから見えてくる聖火の白い煙…。何度もリハーサルまでやった旗振りで、実際には一瞬の出来事だったんでしょうが、記憶の中では右から左に走る抜ける聖火ランナーの姿がスローモーションのように思い浮かびます。

朝ドラの「ひよっこ」は、その1960年代の東京と北茨城の生活を対比するように描いていました。新幹線、高速道路、高層ビル、オリンピック、ビートルズ、公害、全学連…、目まぐるしく変わっていく東京。あの朝ドラを見ながら、ああ、あの時代に東京に住んでいたということは、とんでもなく貴重な経験だったんだなぁ、と、感慨にふけっていたものでした。

で、今度は大河ドラマです。「いだてん」ですね。こっちへの思いはちょっと複雑です。大河ドラマ、イコール、過去の歴史、なんですが、今回に至っては私の生きてきた時代が含まれるわけです。つまり、現代を生きているつもりの私の時代がついに過去の歴史の分野に足を突っ込んでしまった、ということなんですね。おそらく最終回近くのクライマックスの場面に聖火ランナーは登場することでしょう。きっと私はそのシーンに涙しながらも、もうお前は過去の人になったんだよ、と誰かに言われたような寂しい気持ちを覚えるんじゃないか、とびくびくしているのです。すでにシナリオを書き終えたという宮藤官九郎さん、どうかそういう寂しさを感じないような脚本であることを祈ってます。

新元号・令和の祝賀ムードをどうしても手放しで喜べないのは、昭和がより遠くへ行ってしまったと感じるからでしょう。自分が過去になっていくことへの抗(あらが)いなのかもしれません。そうか、きっと先人たちもみんなそんなことを感じた時期があったんだろうなぁ、そしてそれを人は老化というのだろうか、なんて思ってます。いかんいかん、まだまだ私は現在の人です、過去に足を突っ込んだりはしてませんよ。未来を見るのです。(弥)

倶樂部余話【368】過熱化する靴磨きについて(2019年6月1日)


近頃の靴磨きブームの端緒となった男がいるのですが、彼が路上で従来型の靴磨きをやっているときにこう思ったそうなんです。客と同じ高さの目線で靴を磨きたい、と。この話を聞いて、私は昔母に言われたことを思い出してしまいました。当時ジーンズショップに勤務する私を訪ねてきた母、何本も裾上げのピンを打つ私の姿を見て、なんか悲しくなってきた、と言い出したのです。客の足元に跪(ひざまず)いて下を向いて裾口を整えている姿が、ご主人様に傅(かしず)く家来か奴隷のような屈辱的な構図として母の目に映ったのでしょう。もちろんそのときの私には客に足蹴にされているような感覚は微塵もありません。なにしろ裾上げはしゃがまなければできないのですし、短時間で客も立ってます。その構図のまま会話を長く続けることも滅多にないのです。だから母の言葉は全くの的外れでしたが、ああ、自分の母親は息子の姿を見てそういうふうに思うものなんだと、妙に記憶に残ったのでした。

しかし靴磨きとなると、もう少しその屈辱的な印象は増すのかもしれません。客は長時間椅子に座ったまま、靴磨き屋はずっと傅いたまま、その構図で接客の会話もしなければなりません。しかも対象物は、ずっと外を歩いてきて何を踏んできたのかもわからない汚れた靴なのです。じゃあ、目線を同じ高さにしたらどう変わるのか。それはコロンブスの卵、だったのかもしれません。

かくして、その思いを昇華したカタチが、スーツを着てバーカウンターで一時間の差し向かい、一足磨いてドリンク付きで数千円、というスタイルです。靴磨きが水商売化したのです。悪い意味で言うのではありません、靴磨きが水商売並みの高付加価値を持つようになったのですから、これは画期的です。一時間で数千円、キャバクラへ行こうか、ショーパブにしようか、手品を見せるスナックか、それとも今夜は靴磨きバーへ、とそういう選択肢に加わったのです。予約も取りづらいほどの人気らしいし、プロのシューシャイナーになりたいという追随者が全国各地に雨後の筍ように増加中なのです。

一方で、靴作りに詳しい知人はこう言います。靴作りの職人は、裁断、縫製、釣り込み、底付け、仕上げ、などに分かれますが、おそらく技術の習得が一番簡単なのは仕上げ(靴磨き)でしょう。元手もそれほど掛かるとは思えません。なのに靴磨き職人が靴修理職人などよりも高い付加価値を取るっていうのは違和感があります、と。別の人からは、明らかに革のためには良くないだろうという磨き方を積極的に薦めるシューシャイナーがいるのはいかがなものだろうか、と苦言を呈しています。

確かに靴磨きが過熱気味であることは間違いないです。メディアへの露出もずいぶん増えました。 どのお酒で磨くとどう光るかの比較などはジョークとしか思えませんし、世界選手権の開催なんてアイドルの総選挙じゃあるまいし、と感じたりします。まあ、話題作りのひとつと、目くじらを立てることもないのでしょう。

個人的な意見をいうなら、私は、顔が映るほどに鏡のように仕上げた靴は好みません。なぜ男性はディナースーツ(タキシード)のときだけエナメルのオペラパンプスを履くのか、を考えてみればわかることです。ピッカピカに光る靴はよほどの場面でなければ過剰演出でしょう。日本庭園の掃除師は花びらや落ち葉を全部掃かずに目立たぬ所に必ず少しだけわざと残しておくものだそうです。靴も同じじゃないかな。もちろん、汚れているとか磨いてない、なんていうのは論外ですが、目立だぬところに使えば必ず付くぐらいの小さな傷があってもいい、そのくらいの、ちょっとスキのあるような風情が私は好きなんですね。

今年も今月から靴のイベントが始まります。今回、初めてプロの靴磨きを特典に付けてみたので、こんな話を余話として書いてみました。(弥)

倶樂部余話【367】移動ショップという考え方(2019年5月3日)


年二回東京ビックサイトで開かれる総合大展示会の一角に無名の新進クリエーターたちがごちゃごちゃと集まっている出展スペースがあります。狭い空間ですが、実は私が一番楽しみに時間を掛けてじっくりと見ているのがこのゾーンです。こういうところから小さな芽吹きを捉えることは私にとっての頭の体操心の訓練感性の研鑽でもあります。

今年の2月展のこと、目立たないところで、カシミアなどのレディスのハンドニット(ハンドルームを含む、以下同様)を展示している初出展のところがありました。ハンドニットのブースというと、私、手編みが好きなので私の編んだセーターを買ってください、といった趣味とビジネスを混同した独りよがりな夢見る夢子ちゃんみたいな女性が佇んでいるところが多いのですが、ここはそういう感じではなくて、気負いのないリラックスしたニットで、しかも説明する男性はとても初出展とは思えない落ち着きぶりで深い経験と秘めた自信を感じさせます。
ハンドニットに関しては、一応、私も世界最高レベルのハンドニット・アランセーターを手掛ける国内第一人者ですから、人一倍高い関心を持っています。どこで編ませているの?と尋ねる私。正直ここで私はアジアの諸国かもしれないと内心恐れていましたが、彼の答えは「静岡です」。えっ、静岡のどこ?「島田市。駅でいうと金谷か。静岡空港と大井川の間の茶畑の中の里山です」。知らなかった、自分の地元でこんな事やってる男がいるなんて。しかしまだ信じられないなぁ、一度この目で見ないことには。

4月のある日、その工房兼ショップ「AND WOOL」に彼、村松を訪ねました。調べて知ったのですが、彼は東京コレクションでショーまで手掛けたことのある優れたニットデザイナーだったのですね。でもいつからか、そんな華やかな場面よりも自分の生まれ育った場所を拠点にしてハンドニットの持つ魅力をこつこつと発信していきたい、という思いを持つようになってこの活動を始めたのだと言います。
地域のニッターを組織化して育成し産業化する、かつての家内制手工業が、ITと物流の進化で再び現実化してきたのです。こいつは面白い、同じ静岡でハンドニットをなりわいとするものとして是非応援したい。しかし、一番いい応援の仕方はどういうことなんだろう。ただ発注して仕入れて売る、ということではこの魅力は伝わらない。しかも商品はレディスが主だから当店の今の現状では在庫を持つこともできないし。

で思案の結果、ひとつの方法が生まれました。来月のある週末、ジャックノザワヤは店を金谷のこの場所に移動します。この二日間、お客様は静岡駅前ではなく、静岡空港の麓のショップにツアーに来てください。そしてその店と商品を見てもらいたいのです。お茶とお菓子ぐらいは用意しましょう。近くには眺めのいい和洋のレストランが数件ありますから、ドライブがてら三々五々ご参集いただければ楽しい一日が過ごせるでしょう。
店じゃない店だから、移動ショップという発想が浮かびました。成功させたいです。(弥)

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(お知らせ)

上記の趣旨にて、ジャックノザワヤは2日間だけ移動します。

日時: 6月22日(土) & 23日(日) 11:30-18:30
場所: AND WOOL ( ㈱ウールスタジオ)
〒427-0113 静岡県島田市湯日1124-1
tel. 0547-54-4492
https://www.andwool.com/
主な商品: 「& WOOL」…カシミアやウールのハンドニット。
「everlasting sprout」…手刺し調の草花柄を中心にした洋服と傘小物など。
いずれもレディス中心で、春夏物の現品と秋冬物の予約のどちらも承ります。

アクセス: カーナビは間違った場所を示すことが多いので、HP掲載の地図を参照してください。お車でない方は、金谷駅または静岡空港、から送迎いたします。
アポイントメント: 準備の都合上、参加の方は前々日までにジャックノザワヤまでにご連絡を入れていただくことをおすすめします。