【倶樂部余話】 No.203 吸って吐くのが深呼吸 (2005.12.2)


 吸って吐くのが深呼吸(アルゴリズム体操/NHK教育「ピタゴラスイッチ」)、という言葉が口をついたのは、ダビンチ展(六本木)と北斎展(上野)を立て続けに見たときでした。二人とも長寿で、老いてもなお、とてつもなく膨大な才能を吐き出し続けていました。明らかに吸ったものよりも吐いたものの方がはるかに多く、そこがまさに狂気に紙一重の天才とまで言われる所以なのでしょうが、果たして彼らが、当時とは比較にならないほどに溢れ満ちる情報量を吸うことができる現代においても、その才能をすべて吐き出せたかと思うと、疑問に感じてしまったのです。
 今の世の中、情報は欲しいだけ手に入ります。ひねもすネット検索に費やせば、吸ってばかりの一日も過ごせますから、現代人はどうしても過呼吸というか吸いすぎの状態に陥りがちです。吸った分だけ吐こうとするにはかなりの創造力が必要で、我々凡人にはもはやほとんど不可能とさえ思えます。何しろダビンチの時代と比べて、吸える量は数百倍かに増えているのに、吐き出せる寿命はほんの少し延びただけなのですから。
 無尽蔵な情報の洪水を吸うことに自らの意思で制約をかけ、そしてちゃんと意識をして吐くことを心掛けないと、だらだら吸うばかりの一生で終わりかねないぞ、と、秋の上野公園を歩きながら凡人は思ったのでした。(弥)

倶樂部裏話[10]周回遅れの街・静岡(2005.11.18)


 日専連・静岡(正式には、協同組合静岡専門店会と言います)の組合員である私は、現在、販売促進と街づくりのふたつの委員をやっています。販促の仕事は大体お察しが付くことと思いますが、街づくりの方は何をしているかと言うと、つまりは郊外に計画中の大型SC(ショッピングセンター)と中心市街地との対立を議論しているのです。

 私がこの静岡の地に移り住んだのが22年前。親の実家だとはいえ、今まで住んだこともない土地に骨を埋める覚悟で神奈川・湘南から来た私は、しばらくアンチカルチャーショックから抜け出せませんでした。なかんずく違和感があったのが、他県資本は一切認めないぞ、という静岡商人の姿勢でした。郊外の大手スーパーはおろか街中(まちなか)へのコンビニの進出まで拒み続けていたのですから。私は「栄枯盛衰は世の常。古い店にあぐらをかいて殿様商売なんて言われるぐらいなら、人気のある店をどんどん入れて、もっともっと楽しい街にすればいいのに。」と思っていました。当時の過激な反対運動は、どう見ても、商人のエゴイズムに思え、時代遅れな対応ではないかと感じていました。 もちろん、その後、大手スーパーもコンビニも出来ましたが、しかし結果として全国の地方都市に比べると静岡市の商業は市街地から分散せず郊外化はあまり進まなかったのです。

 さて、時の流れとは不思議なものでかつ皮肉なものでもあります。時代遅れはそのうちに周回遅れとなり、いつの間にか先頭を走っているという場合があるのです。

 近年の街づくりの概念として「コンパクト・シティ」というキーワードがあります。郊外へ郊外へと住宅も商業も図書館も病院も拡大していったのは人口の増え続けていた世の中だから必要だったこと。そのためには道路も整備し上下水道、ガス、電気も敷設しなければならず、その費用も膨大なものでした。今後は、人口も減るし、税収も減る、財政はますます厳しさを増します。それならばもうやみくもに都市機能を郊外へ拡大させないで、逆に中心部にコンパクトに集中させてその密度を高めて行くべきだろう。それこそが少子高齢化社会に対応するこれからの都市の目指す手法となろう、というのが「コンパクト・シティ」の考えです。日本で最も早くそれを実行に移しているのが青森市で、これ以上道路が増え続けると除雪の費用で財政がパンクする、という事情もあったようですが、市長以下のリーダーシップも見逃せません。

 この「コンパクト・シティ」という考え方で静岡の街を見てみると、どうでしょう。わずか約1km2の碁盤の目の街中に、ターミナル、公共施設(役所、病院、ホール、など)、公園、学校、複数の百貨店とそれらを繋ぐショッピングモール(=商店街)、飲食店エリア、ホテル、パーキング、そして周辺には住宅街、と、見事にうまく凝縮されています。かつて米国視察を何度もしている地元の大物社長が「静岡の街中は、自然に出来上がってきたにもかかわらず、アメリカで人工的に作って最も成功しているSCの大きさや構成ととても良く似ている」と言っていましたが、そのとおり、ここには、かなり理想に近いコンパクト・シティが形成されているではありませんか。ある人の調査によると、静岡市のこのコンパクト密度は全国県庁所在地の中でナンバーワンだという結果を出していますし、経済産業省が、地方の大都市で衰退せずに繁栄している中心繁華街、のお手本として挙げているのは、静岡市と鹿児島市のたったふたつだけです。

 事実、私は中心繁華街の構成員の一人ですが、ここで何も商店街活動の自慢話をするつもりは全くありません。確かによその商店街に比べたら格段に情報収集力はありますし、ものすごく勉強もしていますが、まだまだ批判も多いし課題も山積みです。ただ私が思うのは、全国でも奇跡的とも言えるほどにここまで自然形成されてきた密度の高いコンパクト・シティを何も今さら薄めようとすることはないんじゃないですか、ということです。

 郊外の開発がダメだと言ってるのではありません。むしろ郊外に楽しくて面白い店が増えてくるのはいいことだと思います。しかし、都市のヘソとして絶対に「街は要る」のです。ヘソが消えてしまうとどうなってしまうのか、浜松市を見れば一目瞭然です。

 20年前の私を知る人からは、「お前が街づくりをそうやって議論するなんて、野沢も変わったね。」と言われますが、そうじゃないんです。私が変わったんでも歳を取ってきたからでもなく、時代の流れが変わったのだと思います。たとえ周回遅れであっても現在の静岡市は全国から見ればかなり恵まれたいい街であることは確かです。このいい街をもっといい街にしていきたい、思いはただそれだけで、自分としてはその気持ちは20年前と変わりはないと思っているのです。(弥)
 

【倶樂部余話】 No.202 体温・三題 (2005.11.11)


 静岡市の一大イベント「大道芸」も終わり、十一月も半ば、ようやく寒くなってきました。今回は「体温」について三題。

●まずは、我が業界が目下躍起の「ウォームビズ」。こいつはちょっといただけないです。早い話が重ね着のススメでしょ。言われなくたって、みんなお洒落をしたくて寒くなるのを待ち焦がれているのですから、正直、何だか押しつけがましくて、余計なお世話、の感があります。確かにクールビズは、単なる暑がりをファッショナブルな人に持ち上げてくれました。が、逆にウォームビズは、装いを巧く演出している人を単なる寒がりに貶(おとし)めてしまう恐れを含んでいます。私は以前からベストを好んで着ますが、先日ある人から「おっ、早速ウォームビズですね!」と言われ、少々複雑な思いをいたしました。
 恐らくは、業界の早計な独り善がりに終わることとなるでしょう。安易に柳の下の…を狙ったりせず、なぜじっくりと我慢して次夏に満を持すことに心血を注ごうとしないのか。ウォームビズは来年のクールビズ商戦にまでかえって水を差してしまっているように思えてならないのですが、いかがでしょうか。

●店にも「体温」があるように感じます。これは熱の入り方といったもので、規模とも嗜好や波長などとも違うものです。大資本の店の中でも、主張がひしひしと伝わってくる高体温の店もありますが、例えばメーカー直営の採算度外視なアンテナショップなんかは、内装は豪華ですが、体温は概して低いように思えます。
 もちろん客にも体温の高い低いがありまして、低体温の店は低体温の客が得意なわけです。不幸なのは、高体温を志向する当店のような店に駅ビルのチェーン店のようなつもりで入店された低体温の方々でして、我々は彼らの体温が上がってくるまでじっと待つことにしていますが、店の高い体温にうだってしまう方も多いようで、そうなると、会話はおろか目を合わせてもくれないこともあります。
 運良く、店の体温と客の体温とがちょうど合ったときに、たとえ嗜好の違う店だとしても、その店は何だか居心地がいい店、と感じるのでしょうね。

●ダウン(羽毛)の暖かさがこれほどに心地良いのはなぜでしょうか。ダウン自体に発熱作用はないのですから、暖かさの源は自らの体温です。自分の体温に暖まった空気の層を外に逃がさずしっかりと保持してくれる媒体の役目を果たしているのがダウンなのです。不思議なのは、零下30℃も大丈夫のヨーツェンのダウンを摂氏10℃の静岡で着ていても決して暑すぎるとは感じないことです。そう、夏に羽毛布団を掛けても汗をかかないのと同じです。自然のなせる調節機能なんですね。(弥)

【倶樂部余話】 No.201 旅日記/角館と吹屋 (2005.10.7)


 旅が嫌い、という人は少ないと思います。私も結構旅好きの方に属すると思いますが、この一年は某組合の役職に就かされたおかげで、弘前と岡山にのんびりと出掛ける機会に恵まれ、その往復ついでにいくつかのミニ観光が実現できました。その中で特に印象深かった土地が、角館(秋田県)と吹屋(岡山県)でした。

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角館の武家屋敷通り。道路の高さや側溝まで江戸時代当時に復元されている。

 角館の武家屋敷地区の復元と保存は、官民一体で徹底されていて、今にもちょんまげ姿の侍が飛び出してきそうなほど見事でした。またそこに根付く文化もとても分かりやすく公開されていて、万人にお薦めできる「良い観光地」だと感じました。 

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角館にはなぜか床屋さんが多い。

(やたらに床屋さんとパーマ屋さんが多いのに驚き、いろんな人に聞き回りましたが、結局その理由は分からずじまいでした。どなたかご存じないでしょうか。)

 吹屋は、岡山駅から車で二時間の山の中にぽつんと残った江戸時代に栄えた鉱山町で、ベンガラ(鉱物から取れる赤い染料)で財を築いた豪商の館(映画「八つ墓村」ロケに使われたお屋敷)や馬が往来していた当時がそのままに残る街並みなど、まるで三百年前にタイムスリップしたミステリーゾーンのようなところでした。
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これが吹屋のメインストリート。石州瓦とベンガラ色の壁が美しい。
馬のひずめの音が聞こえてきそうだ。

(この一帯では、国道よりも県道の方が広く、さらに一番立派な道は農道(カーナビにも載ってない!)なのです。道路行政の矛盾の縮図です。)

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吹屋小学校。明治42年(1909年)建築。現役の小学校としては日本最古の木造校舎らしい。

   どちらも文化庁の「重要伝統的建築物群保存地区」に指定されているエリアです。私はこういう地区の指定があることを最近になって知ったのですが、古い街並みを残すために一九七六年にできた制度で、北は函館から南は竹富島(沖縄県)まで、現在全国に六十一地区あるそうです。
 雄大な大自然を眺めているよりもこぢんまりとした古い街並みを歩くのが好きな私にはとても興味のある地名ばかりが並んでいますが、交通の便の悪いところが多いため、私が訪れたことのあるところはその三分の一ぐらいしかありません。意外なことに近場の山梨県や長野県にもいくつも未踏地があり、もっと早く知っていれば、今頃は全部を踏破できていたかもしれないと、少年時代に「新日本紀行」や「遠くへ行きたい」をよく視ていた私は、少し悔しく思っています。
 
旅の楽しみは人それぞれでしょうが、敢えて私が挙げるならふたつ。まず下調べ。何しろこれが大好き。交通・味・宿…、想像だけでも旅気分は存分に昂揚します。インターネットの出現はこの喜びを数十倍に膨らませてくれました。そして、もうひとつ。不思議なもので、土地の人とたくさん話をしたところは好印象が残っているのに、運悪くろくに会話のなかったところは記憶が薄れてくるのです。そう、土地の人との会話の印象は、いい旅だったかどうかの判断に大きく影響してしまうものなのです。私が、日本語と英語の通じないところにはあまり行きたいと思わないのは、そのせいかもしれませんね。
 十一月の大道芸以外には観光資源の乏しい静岡市ですが、それでも県外からビジネスや観光でこの街を訪れる方々が当店にも少なからずお見えになります。私たちがお相手したそんな方々に「静岡っていい街だったな」という印象を残せていればいいのですが。(弥)

倶樂部余話【二〇〇】祝!二百話(二〇〇五年九月五日)


遂に二百話の達成です。この記念すべきときに何を書くべきか、一向に考えがまとまらず、ちっとも筆が進みません。
 開店一周年のお礼を兼ねた案内状に第一話を載せたのが88年9月ですから、足かけ丸十七年、三十一歳から四十八歳まで…。ワープロ原稿を官製ハガキにコピーするだけという簡単な体裁を採ったことも長続きの秘訣でした。今思うと、私はアナログな手法ながらすでにメルマガを十七年前から配信していた、ということになります。

久しぶりに古いスクラップ帳を広げ、再び第一話から読み返してみました。三十一歳からの私がいます。苦し紛れに絞り出した駄文もあれば、本当に自分が書いたものかと思うほど惚れ惚れするような名文も少しは見当たります。喜怒あり、泣き笑いあり、いろんなことを書きつづってきたものだと思います。振り返って見てみると、バブル崩壊後の価格破壊がブームになっている頃などは、相当にもがき苦しんでいる様子が分かります。とても懐かしく感じます。

元来は数百通だけのハガキ通信ですが、第百三十話からはホームページにも掲載をしていますので、今では一体自分の文章がどのくらいの数の人に読まれているのやら、想像もできません。しかし、時には「一話から通しで読んでみたい」といった奇特なお申し出も頂戴するので、二百話を機に、何らかの形で公開したいとは思っています。ホントは一番いいのは、誰かが本にして出版してくれることなのですけど…。

倶樂部余話【一九九】ドンザとアランセーター(二〇〇五年八月一日)


ドンザって知ってますか。かつて日本各地で漁師が着ていた刺し子の防寒着で、緻密な模様が入った柔道着のようなもの、とでも言えばいいでしょうか。生活に根ざした日本の伝統キルトのひとつです。

このドンザを日本や韓国の各地から収集して展示する、という我が国初の試みがこのたび福岡市博物館で開催されることになり、ひょんなことでこれに当店のアランセーターが関連展示されることになったのです。

ドンザもアランセーターも、もともとは日常の労働着だったものが次第に装飾性の高い晴れ着に昇華していった、という共通点があり、海に生きる者たちの過酷な生活から生まれる発想は洋の東西を問わず類似するものなのか、という担当学芸員の着想が元になって、実現したものです。

はるばる福岡から静岡まで訪ねてきてくれた彼はこう言いました。「言葉は悪いですが、アランセーターにしてもドンザにしても、一般の人からすれば、どちらも『しょーもない』モノですよね。そんなしょーもないモノを野沢さんは何年も探求して一冊の本に書き上げました。あの本に私はとても勇気づけられたのです。」その言葉に私はいたく感動し、とっておきの一枚を福岡へ貸し出しました。

アランセーターが商品ではなく展示品として博物館に並ぶのです。実に名誉なことだと思っています。この夏、福岡へ行かれる方には、ぜひともご覧いただきたい「ドンザ展」です。

(会期は200582日~925日。詳細は<http://museum.city.fukuoka.jp>まで)

倶樂部余話【一九八】クール・ビズ(二〇〇五年七月一〇日)


さてもさても喧(かまびす)しい限りの「クール・ビズ」ですが、何もこれはこの夏突然振ってわいたものではなくて、実は日本メンズファッション協会なる業界団体が5年ほど前から着々と仕掛けてきた戦略に、環境省がクール・ビズという公募による命名でお墨付きを与えたものだと言えます。

私の辛口の批評を期待している方もいることかと思いますが、残念ながら(?)、基本的にはこれはいいことだと歓迎しています。何しろこれほどに男の服装に関心が集まることはそう滅多にないことなのですから、それだけでも確実に私たちの業界にとってはプラス効果でしょう。

話題にされれば興味も湧きます。あとは、とにかく「習うより慣れろ」で、次第に何とかサマになってくるものです。浮き彫りのように眼前に晒(さら)されるシャツ、パンツ、ベルト、靴、ソックス、それぞれの重要性も分かってくることでしょうし、家に寂しく置き去りにされてしまった上着やタイにしても、これらがどれほど格好の隠れ蓑の役割を果たしていたのか、ということをかえって再認識するに違いありません。

気掛かりなのは、この導入が官主導で、しかも目的が小電力、ということゆえに、十月になったとたんに、昨日までの上着やタイのないスタイルが何かの魔法であったかのように、あっけなく元通りに戻ってしまうのではないかということ。せっかく服装の多様化という門を開けたのですから、秋も冬もそのままノータイでも構わないよ、という土壌が定着してくれると、男の装いはますます楽しくなるんだがなぁ、と私は密かに願っているのです。  

倶樂部余話【一九七】石津謙介さんご逝去に際して(二〇〇五年五月二九日)


アイビールックの仕掛け人と呼ばれた、ヴァン・ヂャケット(VAN JACKET INC.)の創始者・石津謙介氏が524日に93歳の天寿を全うされました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

思い起こせば、70年代前半、中学・高校と、着ているものは全部VANでした。当時の私は特にファッションに興味のあるような「ませガキ」であったわけではなく、単にVANなら父に頼むと店から買い与えてくれたので、自分の小遣いを減らさずに済むという理由からでしたが、結果的に私は十代をVANの純粋培養で育ったわけです。当社の黎明期を知る静岡の五十代男性にとっては、いまだに「呉服町の野澤屋」=VANショップ、の印象が残っていることでしょう。何しろ、父が当社を設立した頃には、VANからの出資を仰いでいたほどの強い結びつきがあったのですから。

78年の倒産はまさに青天の霹靂(へきれき)、当時売上の八割をVAN一社に頼っていた当社も存亡の危機でしたが、氏とのお付き合いはその後も続き、87年の「セヴィルロウ倶樂部」開店に際しても、ご丁寧な長文の祝辞を頂戴いたしました。ずっと初夏にお届けしていた新茶への達筆なる返礼も、近年は代筆となっていたので、長患いが続いているのだろうな、と思っておりました。明治44年生まれとは思えないほど、いつも柔軟な思想を持ち、ダンディという言葉のふさわしい方でした。

 メンズファッションの分野に限らず、衣食住遊のライフスタイル全般にわたり、石津御大(おんたい)の薫陶、影響を受けた戦後世代は数限りなくいることでしょう。みんな「VANが先生だった」(ポパイ786月号の名タイトル!)のです。近々催されると聞いている「お別れの会」には、そんな各界の生徒たちが一堂に会することになるはずです。不謹慎だと言われることを承知で言うならば、私にとってはこれほど楽しみな気持ちで待つお別れの会はかつてありません。御大が命と引き換えに集めてくれた素晴らしいメンバーたちの一大パーティとなることと思います。私自身は、偲ぶというよりも「改めて感謝したい」という気持ちで末席に臨めることを願っています。
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こちらに内容を掲載しています

倶樂部裏話[9]ゴールデンウィークなんて大嫌い!(2005.5.11)


 最長で10連休と、長かったゴールデンウィーク(以下GW)がようやく終わりました。
 実は、私、このGWが嫌いです。
 年間の三大長期連休として、他にお盆休みと正月休みがありますが、これらは古来から日本人の習慣として定着しているもの、休みを取るしかるべき必要のあるものです。(もっとも正月休みの方は近頃では元旦営業などするところも増えていて、私はみんなもっと正月らしい過ごし方をした方がいいんじゃないかとも感じていますが。) それらに対して、GWというのは、ほんとに休まなければいけない必然性があるんだろうか、と疑問に思ってしまう連休なのです。
 もともとGWという呼び方は映画興行の業界用語で、未だにNHKはGWと言わずに「大型連休」(以前は「飛び石連休」)と称しているらしいのですが、さて、このGWは一体どのように形成されていったのでしょうか。
 もともと1927年(昭和2年)からあったのが天皇誕生日(天長節、現・みどりの日)です。そこに1948年、憲法記念日とこどもの日が加わります。憲法の公布は前年の11月3日(明治節=明治天皇誕生日、現・文化の日)ですから当初日本政府はこの日を憲法記念日にするつもりでしたが、それでは軍国主義の復活につながりかねないとの米国の猛反対にあい、わざわざ半年後の施行日を記念日としたのですね。また、同じ年には端午の節句が子どもの日という祝日になり、前年に復活したメーデー(5月1日、労働者団結の日)、期間中の日曜日とからめて、飛び石連休となっていったのです。しかし、この頃にはまだ何日も続けて連休を取って海外旅行へ行ったりする人はほとんどいなかったように記憶してます。
 その後、1973年(昭和48年)に振替休日(祝日と日曜のダブリ解消)の制度ができ、また1980年代後半から週休二日制が定着、そして1985年(昭和60年)には5月4日が国民の休日という何の意義も持たない休日になるにいたり、いよいよここにGWの完成を見ることになります。
 この過程には、明らかに政府の「休みを増やそう」という姿勢が見て取れます。でも、私は、もうすでにその姿勢が時代遅れではないかと思うのです。
 世界を相手に仕事をしている人は、この時期日本の経済だけが停滞してしまうことに憤っています。リストラのしわ寄せを受けてただでさえ仕事が増え週5日でギリギリいっぱいの業務をこなしている人は、祝日で勤務日が減ることを喜べません。月末月初がべったりと休みになることはお金を回転させる必要からは迷惑な話です。生活のために平日スーパーのパートに出ている主婦は、この時期夫や子どもを家に残して出掛けなければなりません。4月からの新入生や新入社員が五月病になるのも、未だ掴みかねている生活のリズムが再びGWで狂わされることが一因でしょう。我が静岡県のようなお茶処では、八十八夜に当たることから、昔から休むどころではありません。私たちはと言えば、オーダーの仕上がりは遅れる、在庫の取り寄せは出来なくなる、と、お客さまに迷惑を掛けることばかりで、メリットを感じることは少ないのです。
 零細小売店のぼやきと思われるでしょうか。しかし、サービス業や小売業など第三次産業に従事する人口は増加していますし、インターネットの普及などで曜日や時間にとらわれずに仕事をする人も増えています。毎年の「GWはどう過ごしますか?」のアンケート調査に堂々の一位は「特に何も予定はない」で、その割合は年々増えています。また、特別料金が当たり前だった海外旅行やリゾート地の宿泊料金も以前ほど割高には設定できなくなっていると聞いています。成田空港のラッシュも高速道路の渋滞も昔に比べたらそれほどのニュースにならなくなりました。つまり、もう日本人はわざわざGWに無理に出掛けなくてもよくなったのですね。なのに「みんな一斉に休みましょう」はもう無意味でしょ、と感じるのです。
 にもかかわらず、まだ政府はハッピーマンデー(2000年より実施)やサマータイム導入検討など、余暇を増やすことに躍起です。それが国民生活を豊かにすることだと信じて疑わないようです。迷惑する人もいるということは眼中にないのでしょう。
 ただ、GWがなくなると困る人ももちろんいるでしょう。博多どんたく、弘前の桜祭り、浜松まつり、なんかは動員客が減ってしまうでしょうし。そこで、大胆な提言。今の祝祭日をなくして、4月の最終月曜日と5月の第一金曜日を休日にするのです。3日休んで3日働いてまた3日休む、というようになるわけです。これなら忙しい月末月初は仕事が出来ますし、長期連休にしたい人はあいだの3日間に有休を取れば9連休が実現します。どうでしょうかね。
 差し当たって、既に祝日を無視した独自の勤務スケジュール(いわゆる「トヨタカレンダー」)を規定しているトヨタ自動車あたりが、GWにも勤務するようなカレンダーを実施してくれたりすると、世の中に風穴が開くんじゃないか、と期待しているのですが。
 ということで、今回の暴論、GWなんか大嫌い!、でした。(弥)

倶樂部余話【一九六】ディスプレーは動かさないで下さい(二〇〇五年五月五日)


「ジョルジオ・アルマーニ展」(六本木ヒルズ52階・森美術館にて65日まで開催中)を見てきました。これは2000年にニューヨークで初開催されて以来世界中を巡回している展覧会で、私も一昨年ロンドンで見てくるつもりが時間の都合で見損ねてしまったものです。

正直、当店にとってアルマーニさんはほとんど無縁の存在ですし、恥ずかしながら私自身も、ソフトスーツの旗手ぐらいの認識しか持ち合わせていなかったのですが、あのメンズの女性的なソフトスーツは、レディスの男性的な装いと対(つい)に考えることで「ジェンダーの中和」という意義をなすものだったということを初めて知り、恥じ入りました。彼の何十年間かの創造力の凝縮とも言えるこれだけの数の洋服を、解説付きで、しかもショップのように販売員にうるさく付きまとわれたりすることもなく、至近で360°ゆっくりと鑑賞ができて、お代が1,000円ですから、なんだかとても得した気分でした。

感動したのはそのディスプレーの完成度です。約300体の男女の服がボディに着せ付けられて整然と並べられていますが、腕や膝の曲がり具合からスカートの揺らぎ感、帽子の高さや角度にいたるまで、それぞれの服に合わせて一体ずつボディが異なり、その服を一番美しい状態で見せることに徹底がされていて、あたかも生身の人間が着ているかのごとく実に自然に着せられているのです。つい触れたくもなってしまいますが、もし手を伸ばそうものなら、きっとすぐさま近くの監視員が制止に飛んできたことでしょう。

もちろん、ボディに着せてここまで「自然に」見せるためには、相当の針金細工やピン打ち、膨らましの張りぼてやアンコ入れなど、かなりの技術が施されているはずで、ショップのように脱がして販売するという前提では決してできない、展覧会でこそのうらやましい限りの仕業です。

そう、実は、あたかも人間が着ているかのように、あるいは、すうっと簡単にそこに置いてあるかのように、無意識にさりげなく自然に見えるディスプレーであればあるほど、本当はかなりの意識のもと、注意深いピン打ちやワイヤー使い、そのほかの技巧によって、微妙なバランスを保ちながら成り立っている、ガラス細工のようなものなのです。

アルマーニ展と比べるのも大変おこがましいことですが、当店のショーイングのそばに置いてある「ディスプレーは動かさないで下さい」との小さな注意書きもそんな思いからのお願いです。素材を確かめるために手を触れていただくのは全く構わないのですが、構図を考えてさりげなく置いてあるように見せているモノをひょいと持ち上げられたり、ドレープがよく分かるように見えない部分にピンを打ってあるスカートを無造作につまみ上げられたり、きれいに膨らみを付けているジャケットの襟をまるでタオルで手を拭くように指先で握られたり捻られたり、引っ張られないように裏側に隠してある提げタグをわざわざ表にほじくり出して引き上げられたり…、当店のボディたちは常にこのようなひゃっとするような危険にさらされながら皆さんの前に立っているのです。私たちは美術館の係員のように寸前で制止するということはなかなかできませんので、お客様の善意に期待するほかはないのです。どうかご理解を。