『アランセーターの伝説~21世紀に入って』 文・野沢弥一郎 記・2026年1月
(自著『アイルランド/アランセーターの伝説』(2002年刊)の要約をベースに、その後25年間の動きを書き加えました。日本ケルト協会「cara」第33号に寄せた拙稿を加筆訂正いたしました)
ケルトの国アイルランドは、イギリスの西に位置する、北海道ぐらいの大きさの島です。
アランセーターが生まれたのは、そのアイルランド西岸ゴルウェイ湾の沖合に浮かぶ三つの小さな島々で、総称してアラン諸島と呼びます。西から、イニシモア、イニシマン、イニシイア。イニシはゲール語(ケルト語)で島を意味し、イニシモアは「大きい島」、イニシマンは「真ん中の島」、イニシイアは「東の島」といういたってシンプルな名付けがされています。
面積は三つ合わせても伊豆諸島の三宅島ぐらい、人口は三島で約千三百人。アイルランドの中でも土着のケルトの風習が色濃く残る異郷の地。大西洋の風が打ちつけ、草木もろくに生えない岩だらけの小さな島。大した作物も取れず、小舟で漁に出るのも命懸けの過酷な生活。こんなところになぜ人が住み続けているのだろう、とさえ思えるような厳しい環境の島です。

というと、
まるで一切の来訪者を拒むような絶海の孤島の様な印象を受けることと思います。やらせの強いテレビの旅番組ならそういう演出もするでしょう。ところが現在のアラン諸島は、アイルランドを代表する一大観光地なのです。地図を拡げていただくとお分かりのように、本土からそれほど離れているわけでもなく、天気さえ良ければ首都ダブリンからの弾丸日帰りツアーも組めます。適度な不便さは「手頃な秘境」として人気が高く、夏のイニシモアは景勝ダン・アンガスの断崖絶壁を訪れる観光客でごった返しています。イニシマンやイニシイアにもサマースクールの学生たちが集まってきて、夏場の観光はアラン諸島での最大の産業となっています。まあそれも夏の間だけで、冬になれば昔ながらの静かで何もない島に戻ってしまうのですけれど。
アランセーター前夜
アラン諸島が世界に広く知られるようになったきっかけは1907年にシングJohn Millington Syngeの書いた長編紀行随筆「アラン島(原題Aran Islands)」です。
4年間もイニシマンに滞在して島の風土や風習を温かい目線で描きました。そして、島民の力強さ、粘り強さに感嘆し、厳しい環境に立ち向かい質素に暮らす彼らを「もっとも自然のままで文明によって毒されていない人間である」と称賛します。彼らは、ヨーロッパのフリンジ(外辺部)で孤立したまま、孤独感と絶望感を当然のように受容しながら生きてきた、アランの人々こそ、ヨーロッパの文化や文明に染まらずに、古代ケルト社会の習慣そのままに自然のままの生活を生き抜いている人々である、と、シングは指摘したのです。
当時の英国はちょうど「ケルト・リバイバル」の時代で、いまだに古代ケルト社会の生活を引き継ぎミステリアスな島があるとは、と驚きの声が上がりました。こうして、アラン諸島は、ヨーロッパの中で最もヨーロッパ文明、いわば最もケルト的な場所、ケルト文化のエデンの園として一躍その知名度を上げたのでした。
なお、この「アラン島」の中に、黒っぽいフィッシャーマンガンジーの記述はありますが、アランセーターは登場しません。シングの時代にはまだアランセーターは生まれてなかったと考えられます。
次いで、アラン諸島を有名にしたのが1934年公開の映画「アラン」(原題はMan of Aran =アランの男)」(ロバート・フラハティ監督)です。シングの記述が映像化されたのです。
岩を砕き海藻を撒いて畑を作り、囲いの石垣を積む。カラハと呼ばれる小さな手漕ぎ船で荒海へ出ての命懸けの漁。サメ狩りの大格闘は圧巻です。
この映画は当時ドキュメンタリー映画の金字塔、と高く評価されましたが、実のところ、配役も演出も施された、30年前のシングの描いた世界の再現フィルムでありました。その証拠に、ここにもまだアランセーターは登場しないのです。現在もイニシモアのビジターセンターではこの「アラン」が夏の間繰り返し上映されています。そして、島の人達は今でもこの映画を単に「ザ・フィルム」と誇らしげに呼んでいるのです。
このように、アラン諸島は、その独特な生活習慣が知られるにつれ、他のどのアイルランドの場所よりも名の知れた地名になっていったのです。つまり、特別なブランド力を持つ島、だったのです。
アランセーターの登場
アランセーターというと、よく語られるストーリーがあります。
「六世紀の昔からアラン諸島で編み続けられているアランセーター。白いウールで編まれたその独特の編み柄には、漁に出る夫の無事と豊漁を願う女たちの祈りの意味が込められている。その組み合わせは、家々の編み手によってあたかも家紋のごとく異なり、それは母から娘へと伝承されている。万一、不幸にも漁での溺死者が岸に打ち上げられたときには、着ているセーターの柄でその身元を判断したといわれる」
荒海に漕ぎ出す男たち、それを優しく包む女たちの愛。このストーリーは、アランセーターが世界に普及するにつれ、皆に知られるようになり、いつしか伝説とまで言われるようになっています。
私は、アランセーターを40年にわたって世界に紹介し続けたアイルランドの元弁護士である老人パドレイグ・オシォコン氏と1987年に出会って以来、アランセーターの魅力にぞっこんとなり、これを日本で販売する仕事を続ける傍らで、この伝説を解き明かす本まで書いてしまったのです。(「アイルランド/アランセーターの伝説」繊研新聞社2002年)
今から130年ほど前、時は20世紀を迎えたばかりの頃の話です。シングのイニシマン(一番小さな島)での長期滞在が終わる時期と重なります。一番大きな島イニシモアには殖産興業のための漁業基地が造られ、そこにはスコットランドからやって来た漁師たちの家族が多く出入りしていました。当時の海の男のセーターといえばガンジーセーターです。
紺色の編み地で肩や胸に裏編みの縄目模様が入ったセーターで、その名の通り英仏海峡のガンジー島で19世紀に発祥したものですが、徐々に英国の漁師たちの間で広まり、英国やアイルランド沿岸部の各地に普及していました。他の港町と同様にアラン諸島にもそのガンジーセーターが伝えられたのでした。もともと手先が大変起用だった島の女性たちでしたから、このセーター編みはすぐに島中に広まっていったのです。
そこへ一人の女性がこの島に帰ってきます。マーガレット・ディレイン。
彼女の存在がアランセーターの最初の芽を出させます。イニシモア出身の彼女は一度アメリカのボストンに女中奉公に出され、3年ほどして再び戻ってきた女性でした。彼女は類いまれなる想像力と技術を持った手編みの天才だったのです。ボストンで数々のハンドニットに触れ、いつしかセーターの柄を見ただけで、まるで筆で描くように、編み針でそれを再現できたのです。彼女が先生役となり、島の女たちの間では競うように様々な柄が編み出されました。また、もともとこの島には独特の派手好みなところがあったことも手伝って、出来上がるセーターは徐々に編み柄のはっきりとした豪華なものになっていったのでした。こうしてアランセーターの原型が現れました。1920年前後のことです。
アランセーターはなぜ白い
しかしそれでも漁師たちが着ていたのは白ではなく紺色のセーターでした。
そりゃそうです、白ではすぐに汚れてしまいとても漁になど着ていくことはできません。でも現在ではアランセーターといえば白です。白は一体どこからやってきたのでしょうか。実は白いアランセーターは本来は少年の晴れ着だったのです。
アラン諸島には「男の子は悪魔にさらわれる」という古い言い伝えがあり、男児も女児と同じワンピースのような赤い服が着せられました。そして12歳になってようやく男の格好ができる、その時の儀式が教会の堅信礼(コンファメーション)で、いわば日本の元服式に当たるようなものだったのでしょう。ちょうど島の女たちが編み物に夢中になっていたこのころのこと、この堅信礼にあたり、母親はわが息子のために精一杯豪華な白いセーターを編んでやったのでした。
貧しい島でなんと贅沢な、とお思いでしょうか。そうではないのです、成長の早い男子ですから、その白いセーターはやがては解かれて紺色に染められ、再び大人のためのフィッシャーマンセーターに編み直されていったのです。
手編みセーターはリサイクルウェアであったわけです。
1920年代後半に、アイルランド文部省は民族研究委員会を組織し、その調査団がイニシモアで3枚のアランセーターを収集しています。大人の男性の紺色のプルオーバー、女性用の茜色のカーディガン、そして子供用の白いセーター。この3枚のセーターは2001年に開館したアイルランド国立博物館カントリーライフ別館の入口付近に、さながら映画「アラン」の一シーンを切り取ったかのように、マネキン人形に着せられ大きなガラスケースに堂々と飾られています。

子供用の白いセーターを大人サイズに編む、このまさにコロンブスの卵的なアイデアを与えたのがミュレイル・ゲインという女性です。彼女はアイルランドの各地に伝わる女性のクラフトワークを支援し続けた女性活動家で、それらのクラフトワークの数々はダブリンで彼女が1930年に開店したカントリーショップに集められて販売されました。1931年イニシモアを訪れた彼女は島の女たちにこう頼みます。子供用の白いセーターを大人のサイズで編んでもらえないかしら。そしてそのセーターはカントリーショップの店頭に並ぶことになります。 ゲイン女史こそアランセーターの持つ芸術的価値を初めて認識した人物で、アランセーター普及の最初の立役者と言えます。


かくして、アランセーターは白という色を得ました。歴史に「もしも」はないとは言いますが、もしもアランセーターが白くなかったらこんなに世界に普及しなかったでしょう。それほどに白という色は強烈なインパクトがあったのです。
終戦直後の1946年、ゲインの声掛かりで「アランセーター・コンペティション(競技会)」が開催されます。アランの3つの島に呼び掛けられエントリーは50枚を超えました。賞金の掛かったコンテストですから、編み手たちは持てるスキルを惜しみなく注ぎ込み、それはそれは素晴らしいセーターが集まりました。第一位は当然ながらマーガレット・ディレイン。その時の優秀作の11枚は国立博物館カントリーライフ館に保管され、2008年にはこれらを一同に展示する初のアランセーター展覧会が開催されました。商業化していく以前の、アランセーターが最も技巧に優れていた時代の勢いが感じられます。2022年になって、ダブリンのクレオでは、これらの博物館保存のセーターのレプリカ制作の許しをえて、そこから私のところにも年に一枚ずつぐらい入手できるようになりました。
奇跡を生んだ文化の伝道師

次の立役者はパドレイグ・オシォコンです。彼がいなければアランセーターが世界に普及することはなかったでしょう。1951年に設立されたばかりのアイルランド政府輸出庁(現アイルランド政府商務庁Enterprise Ireland)の支援を受けた彼はアラン諸島へ乗り込み、アランセーターの産業化に取り組みます。何度も失敗を繰り返しながらも、編み手を組織化し、デザインやサイズを(適度に)標準化させ、糸や道具を一括調達し、アランセーターを売れる商品として作り上げていきました。オシォコン氏の功績は、このアランセーターの産業化を他ならぬ発祥の地アラン諸島でやってのけたことにあります。かつて世界中のあちこちに様々な手編みのセーターが生まれましたが、100年以上経っても発祥の地でハンドで編み続けられているセーターなどアランセーターをおいて他にはありません。これは奇跡と言ってもいいほどです。
彼はまた精力的に世界にアランセーターを紹介しました。まず1956年にはクリスチャン・ディオールがそのコレクションにアランセーターを取り上げ、クラフトではなくファッションアイテムとしての評価を高めていきます。そして60年代、いよいよアメリカへ。1961年、JFKことケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任します。アイルランド移民の子孫がアメリカの頂点に立ったことで米国全土にアイリッシュの風が流れ出します。ケネディと時を同じくして抜群の人気を博していくのが、アイルランド出身の4人兄弟が結成したフォーク・グループ、クランシーブラザース(クランシーズ)でした。彼らの揃いのトレードマークが白いアランセーターだったのです。当時の人気番組「エド・サリバン・ショー」へはわずか16分の出演でしたが、揃いのアランセーターのインパクトは大きく、その後一気に米国全土へ広まっていったのです。
日本でアランセーターが大ヒットするのがアメリカから少し遅れて1969年から71年にかけてです。当時はフィッシャーマンセーターと呼んでいて、英国か北欧のセーターだと思われていました。発祥はともかくとにかくアメリカで流行っていれば当時の日本では売れたのです。アイルランドの伝統的セーターだということが認知されたのはオシォコン氏が70年代初めに来日して以降のことです。以来、彼の来日は1995年に90歳でなくなるまでに50回を超え、多いときは年間1000枚を超えるアランセーターがアラン諸島から我が国に運ばれたのです。
自説は伝説に昇華する
私がパドレイグ・オシォコンと出会ったのは1987年のこと。その後彼のエージェントを務めるほどの関係に発展するわけですが、それほどまでに私をのめり込ませたのは、セーターの素晴らしさもさることながら、アランセーターをケルト文化の象徴として普及するという彼の伝道師のような姿勢にほだされたからです。
もともと法廷弁護士だった彼は戦後その職を辞し、ケルト文化、特にゲール語の研究に没頭し、ダブリンで初のゲール語の語学学校を設立したりもしました。アラン諸島にもしょっちゅう滞在し、言語収集や史跡巡りに勤しみました。大きなカメラをぶら下げ、時には16mmフィルムの撮影機を担いで島中を歩き回っていたと島の誰に聞いても皆そう言います(このときの映像は後にDVD化され私が販売しています) その研究の成果を1962年に「アラン~伝説の島々 ARAN /Islands of Legend」として一冊の本にまとめて上げています。その中では当然アランセーターにも記述が及んでいて、世界でも類を見ない編む彫刻であり、その編み柄にはそれぞれの意味があり、複雑な組み合わせは自由自在に変えられて、その技巧は母から娘へ見様見真似で伝えられる、と、書かれています。極めつけは1983年に発刊した壮大な叙情大作「アイルランド/失われた時への旅立ちIRELAND-A journey into lost time」です。私が初対面のときに見せられたのがこの本です。これは彼が抱いていた壮大な仮説に基づいて書かれています。アトランティス大陸は実在していた。イニシモアの断崖ダンアンガスは海中に没した大陸との境目である、と。書き出しは、アイルランド中西部にある6000年前の古代遺跡ニューグレンジ(世界遺産です)に刻まれたダイヤモンド模様とアランセーターの模様に類似性を見出したことから始まっています。そして英国やアイルランドの巨石遺跡を巡り、仮説の検証を進めます。
ついにクライマックスの最終章(第33章)、ここはアランセーターの説明でかなりのページ数が占められています。シングが言っていたようなアラン諸島の人々の独自の美的感性、そこからアランセーターが生まれ、柄に込められた祈りの意味、母から娘への伝達、そして溺死者のことも。彼はこれを書き上げるのに12年かかったと言っていましたから、それはちょうど世界中にアランセーターを紹介して回っていた時期と重なります。世界の何百人のバイヤーやジャーナリストに同じ話を繰り返し繰り返し伝えたに違いありません。そして、それはいつしか「伝説」とまで呼ばれるほどに昇華していったのでしょう。
ここで、いつも言われる、例の「溺死者の身元確認」の話について触れておきましょう。実はこれには元ネタがあるのです。随筆「アラン島」でこの島を世界に知らしめたシングの一幕ものの短編戯曲「海に騎(の)りゆく者たち」(1904年)がそれです。ここで遭難者の遺留品として届いた手編みのソックスを手にした家族が、自分の編んだものと判断する印象的なクライマックスのシーンがあります。海に生きる人々の過酷さと力強さを見事に表現したこのこのエンディングには心を打たれます。おそらくシングは最初ソックスではなくセーターを念頭に置いていたのでしょう。しかし溺死者のセーターというものを30分の芝居の小道具として用意するのは大変です。やむなくソックスに置き換えたのではないか、と、私は考えています。
ある島の編み手は私にいとも簡単に答えてくれました。「自分の編んだセーターはすぐに分かるわよ。絶対間違えっこないわ。日本に送ったものだろうが、溺れた人が着ていようが…」考えてみれば当たり前のことです。しかしこれらの伝説は実に良くできたセールストークだったわけです。
1985年パリのデザイナー、ジャンポール・ゴルチェはセーター、スラックス、帽子、すべて白のアランニットというコレクションを発表しました。こんな注釈が付けられています。「溺れ死んでもすぐに身元の分かるスタイル」。
伝説のニッター
モーリンに初めて会ったのが1993年、以来4回島を訪れて会いました。長くパドレイグ・オシォコンの命を受けてイニシマン島のまとめ役を勤めていた島一番のニッター、モーリン・ニ・ドゥンネル。かつてローマ法王への献上セーターをも編んだ伝説のニッターも80歳近くになり、仕事として編むことはやめていましたが、それでも時間さえあれば編み棒を動かして小さなものを編む毎日でした。その手先の動きは昔とまったく変わらず目にも留まらぬスピード。ゆっくりと笑顔で話をしているのに、指先だけが別の生き物のように勝手に動いているという印象です。「何も急いで編んでいるわけではないのです。長いこと編んでいますが、このスピードが私の心を一番穏やかにするのです」。モーリンは昔とまったく変わらぬ言葉を私に与えてくれました。「このセーターは私が編んでいるのではありません。神が私に編ませてくれた、神様からの贈り物なのです」。
2001年に私はモーリンに特別な頼みをしました。あなたの持ちうるステッチ(柄)のすべてを前後左右を使って編み入れた、私だけの一枚を編んでもらえないだろうか。3ヶ月の後届いたのは前身頃と後ろ身頃で柄違い、それも左右非対称、右袖と左袖も柄違い、実に30種類の柄を使い、ひとつとして同じ柄がない、という21世紀の最高傑作、世界でたった一枚のアランセーターです。
2020年1月にモーリンは85歳で天に召されました。心の父パドレイグが亡くなったとき私は彼の功績を記録に残さねば、と、本を著すことを決め、8年掛けて実現しました。心の母モーリンが亡くなったとき、史上最高の編み手としての彼女のことをどのように後世に伝えるべきか、考えました。ゴッホやモネの名画をみんなが美術館で鑑賞できるように、モーリンのセーターを多くの人に楽しんでらうことができたら、と、私が持つ特別なアランセーターのレプリカをマシンニットで再現できないか、と、思い至りました。ハンドニットでさえ再現不可能なこのセーターをましてマシンニットで複製ができるだろうか、と、半信半疑でしたが、山形の米富繊維が、失敗と試行錯誤を重ねながら、素晴らしいセーターを完成させました。
従来マシンでは再現不可能と言われていたいくつかの柄も見事に仕上がっています。2021年より販売されています。天国のモーリンも喜んでくれることでしょう。
21世紀に入って
パドレイグ・オシォコンの手掛けたアランセーターは、編み手によって一枚一枚柄もサイズも異なっていました。これが発祥の地アラン諸島で編ませている何よりの特徴であったのですが、このことがアメリカでも日本でもチェーンストア化した小売店舗で画一的な商品を大量に仕入れて販売するシステムに相容れませんでした。このインディビデュアルなアランセーターを売ることのできる店が90年代になってどんどんとなくなってきたのです。パドレイグは、編み手の雇用を維持するために、常に注文以上の数のセーターを編ませ、ストックとしてダブリン郊外の倉庫に備蓄していました。パドレイグが亡くなったときにこの在庫が500枚近くになっていて、もうこれ以上やってもビジネスとして成り立たないという結論に至りました。この500枚は私が引き取り日本に送らせて何年か掛けて少しずつ大切に販売しました。
このストックも底が尽いて、このときは私自身もアランセーターの販売を諦めかけたことがありましたが、ダブリンのクレオやゴルウェイのオモーリャといった名店と特別な関係を築き、優れたハンドニットの販売が続けられています。

21世紀入って、アイルランドは大きく変化しました。飛躍的な経済成長を遂げ、かつての西欧の最貧国がいまやEUの優等生といわれるまでになりました。自分の国に自信と誇りを持つようになると自国の文化の見直しが興ります。それがファッションに現れると、どうでしょう、アイルランドの若者たちの間でアランセーターを自信を持って着始めるようになります。それに呼応して、アイルランドに幾つもあるマシンニットのメーカーは、Aranの文字をブランド名に入れて、新しいデザイナーを雇い入れ、アランセーターをモチーフにしたコンテンポラリーな商品を新提案するようになりました。2010年にダブリンに行ったときはちょっと驚きました。アランモチーフのセーターを着ている若者の多いこと。また展示会でもそれらを作るメーカーのスタンドの盛況ぶり。アランセーターがファッションとして流行るとは、これはパドレイグが亡くなった頃には想像もできないことでした。ハンドニットを得意とするデザイナーズブランドも増えました。タータンがスコットランドを象徴するが如く、アランモチーフはアイルランドをシンボライズするものとして受け入れられ、こうして次世代への継承が続いているのです。
日本でもひとつ大きな動きがありました。気仙沼ニッティングです。2011年、あの震災から少し経った頃、ほぼ日を主宰する糸井重里の事務所から私に一本の電話が入りました。糸井がアランセーターに興味を持っていてアラン諸島まで行くというので、どこで誰を訪ねたらいいか、などいろいろ教えてくれませんか、という依頼でした。もちろん全面協力しました。この旅はNHKの紀行番組にもなり番組内では糸井の単独行のように編集されていましたが、実はこのときに糸井に同行した、3人の女性がいまして、その後、マネージャー、デザイナー、ニッター、として、会社立ち上げのキーパーソンになります。2013年に気仙沼ニッティングがスタートします。最高のスタッフ、最高の素材、最高のマーケティング、を集積して、その後の成功は皆様ご存知の通り。バドレイグやモーリンが抱いていたアランセーターの持つスピリットを一番受け継いているのは実は日本の会社なのかも知れない、と思うと、自惚れかも知れませんが、私はとっても嬉しいのです。
本物のアランセーターとは
本物のアランセーターとはなんですか、とは、ときどき尋ねられる質問です。しかしこの質問はもはや意味の薄いものになりつつあります。あえてその質問に厳密に答えるとするなら、クレオのキティ・ジョイスが言っていたように、「アランセーター・コンテスト」に寄せられたような1950年代までに島で編まれていた技巧に優れたセーター」であると言う他ありません。それ以降産業化商品化する過程で芸術性が薄まっていったことは致し方ないことです。どんなクラフトにもそれは否めません。しかしそれはアランセーターの勝ちを損ねるものではなく、むしろ白という色を得たことを含め、産業化商品化することに成功したからこそ、アランセーターは21世紀の現代にまで生き残ってきたのだといえます。
アランセーター、それは荒海に漁に出る男たちのために一針一針心を込めて女が編んだフィッシャーマンセーター。よくいわれるコピーです。しかし、見てきたとおり、実は白いアランセーターはフィッシャーマンセーターではなかったのです。私は今までに何十人もの編み手にあってきて、何のために編むのですか、と聞いてきました。はっきりとお金のため、といった人もいました。でも多くの編み手に共通するのはモーリンと同じで、「編んでいると心が落ち着くから」「誰のためでもなく、自分の安心のため」。現代のハンドニッティングにとってこの動機は何よりも大切です。気仙沼ニッティングがアランセーターのスピリットを継承している、と私が指摘したのも、この手編みのもつ心の癒やしの効能が感じられたからでしょう。アランセーターの持つ由緒や歴史をリスペクトしながら、自分の心の平安のために編むハンドニット。そう、これからあなたの編む、そして着る、アランセーターこそが、あなただけの本物のアランセーターになるのです。

