倶樂部余話【403】福澤諭吉のシウーズ(2022年5月1日)


 今年の当店の一大事業、NZ100+JN50(倶樂部余話【399】参照) 足すと150です。当社が150年を経過したわけではないのですが、私が150年と聞いて真っ先に思い出すのは、父と共通する母校・慶應義塾です。旧聞にはなりますが、亡父は、2008年11月に催された創立150年記念式典に臨席の機会を頂戴し、一生のうちでこれ以上名誉なことにない、というぐらいに喜んでいたのを思い出します。

 この慶應義塾が150周年記念の一つとして行った事業が、数多くの貴重な蔵書をデジタル化して公開したことがあります(慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション)。
その中には世界で48部しか残ってない世界初の印刷聖書「グーテンベルク42行聖書」や希少な浮世絵コレクションなども含まれますが、その中核をなすのが、福澤諭吉著作の初期版本55タイトル、全119冊全文のデジタル化公開です。よく知られている「學問のすゝめ」や「文明論之概略」はもちろんですが、福澤の著作には「西洋事情」のように欧米のことを紹介したものも多く、そのうちのひとつが「西洋衣食住」という本です。まさに155年前の1967年(慶應三年)に出されたこの一冊が他の著作と趣を大きく異にするのは、いわゆるイラストブックになっている点で、福澤の視点が衣食住の詳細に及んでいることがよくわかります。
 ご記憶の方もいらっしゃるでしょうが、この「西洋衣食住」については私、12年前に一度当話で触れたことがあります。「背広の語源はロンドンのセヴィルロウだという説は間違いで、背広の命名者は福澤諭吉らしい」ということの重要な資料として取り上げています。(倶樂部余話【263】)

 実はこのとき服以外にとても気になっていた箇所がありまして、それが靴のところでした。沓(くつ)シウーズ=常の沓(靴)は日本にて雪駄(せった)の代わりなり。という箇所に描かれているイラストは我々が一般的に考える短靴(シューズ)ではなくて、サイドゴアショートブーツなんです。ちなみに、長靴はブーツといい雨天や乗馬のときに履くもの、上靴はスリップルスと言って室内で上草履のように使う、と、記されています。
この当時、まともな靴職人など居るはずもなく、初めの頃の靴は左右対称だったらしく、紳士靴といえばこのようなシウーズつまりサイドゴアブーツを指すという時代は明治20年頃まで続いたと言われています。サイドゴアブーツは我が国の紳士靴の原点であると同時にまことに理にかなったデザインの頂点に位置する靴だと私は思うのです。ショートブーツ(ハイカット)が短靴(ローカット)よりも機能性として優れていることはスニーカーのことを考えても自明です。反面、ブーツの欠点として着脱が面倒な点やしゃがんだときの足首の動きにくさが挙げられます。ですが、サイドゴアブーツはゴア(ゴム)を用いることでこの欠点を解消しますから、まさにキングオブシューズ、とだと言えるのではないでしょうか。欧米で様々な靴を見てきた福澤が数多ある靴のデザインの中からただ一足の靴のイラストを載せるときになぜこのサイドゴアブーツを選んだのか、その理由はわかりませんが、その福澤の選択眼はさすがであったと思わざるを得ません。

 で、話は始めに戻ります。NZ100+JN50プロジェクトの一つとしてどんな靴を特集しようかと考えたときにすぐに頭に浮かんだのがこのシウーズであったという話の経緯でありました。靴を作ろう!!今年の目玉は150年前に福澤諭吉が残したシウーズであります。(弥)

倶樂部余話【402】平和ボケなのか。(2022年4月1日)


 フライトレーダーというアプリをご存知でしょうか。私は、お客さんから、これ楽しいし便利ですよ、って教えてもらったのですが、世界地図上に今実際に飛んでいる航空機が表示され、飛行機をクリックするとその機の発着地や時間、飛行ルートなどの詳細がわかるし、空港をクリックするとその空港に発着する便を詳しく教えてくれる。航空会社別のルートマップなども表示できるので、私はもっぱらこの検索機能を利用して、例えばアイルランドに行くのにどの曜日ならどこへ立ち寄れるか、どこのエアの接続がいいか、など、旅程のプランをあれこれ考えていると、つい時間の経つのを忘れて夢中になってしまいます。

 無数の飛行機が飛び交うこのアプリの地図上に、ぽっかりと穴の空いたような空白のエリア、そこがウクライナです。そこでは飛行機ではなくミサイルが飛び交っているのでしょう。そこに国境を接するポーランドを飛ぶ一機を何気なくクリックしてみたら、驚きました、US Air Forceの輸送機機と表示されました。明け方ドイツの小さな空港を飛び立ち、ワルシャワあたりで南下、ウクライナの国境沿いを何周も何周も同じようなルートで旋回すると夜また同じ場所に帰っていきます。パイロットの眼下には戦火に燃えるウクライナの街並みが遠くに見えているはずです。その近くには同じように旋回を繰り返す妙な機があって、こちらはNATO軍機と表示されています。ルクセンブルグから飛んで来てぐるぐる回っています。気になってこの何日かこのエリアをウォッチしてますが、アメリカ、NATO,イギリス、フィンランド、などの軍用機が文字通り入れ代わり立ち代わり、ウクライナ国境の手前で偵察飛行を繰り返してことを知りました。万が一にも偶発的な事態が起きたらどうなるんだろう、という一触即発の状態を想像すると背筋が寒くなります。そしてこれらの軍用機を画面上でウォッチしている人は結構いるようで、先の米軍機をサイト上で追跡している人の数は五千人近くいます。

 今回のウクライナ危機に際して、私が一番驚いたのが、3月初めの義勇兵募集の記事でした。
☆在日ウクライナ大使館がツイッターで外国人による義勇兵を募集。→へぇ、外国の大使館って日本国内でそんな募集ができるんだ、しかもツイッターで、とまず最初のびっくり。
☆約70人が志願、大半が元自衛官の男性→70人も!しかも最前線の恐ろしさを知っている元自衛官とは、またびっくり。(後の週刊誌報道によれば、ただハジキをぶっ放したいだけ、みたいな反社会的勢力に属する輩も相当数いたと聞きます)。
☆しかし、日本では刑法上、義勇兵の募集に応じると、私戦予備陰謀罪に当たる恐れがある、と政府が表明。→そんな法律があって、志願しただけで罪になるとは、とまたまたびっくり。
☆政府は大使館にツイッター投稿の削除を要請、大使館はこれに応じる。→政府は在外公館にそういう要請ができるんだ、と軽くびっくり。
☆政府与党は、義勇兵の参加は「絶対に」やめてほしい、と強調。→その発言は、ウクライナからの支援要請に対して、日本のその記者会見は消極的すぎないか、あまりにも弱腰、と国際的に避難されないか、と、最後にまたびっくり。

 首都圏のロシア料理店に、モスクワへ帰れ、と電話をしたり、プーチン死ね、と張り紙をするような嫌がらせがあるそうです。何を思い違いしているのか、ロシア政府は加害者だとしても、ロシア文化は被害者です、平和ボケも甚だしい。そう、自分も含めて、やっぱり日本人は知らない間に相当に平和ボケしてるんです。私は自分たちが「戦争を知らない子供たち」と呼ばれることには矜持を持っています。戦争を経験せずに済んでいることは幸福であったと素直にそう思います。平和ボケも仕方ないです、平和だったんだから。だけど、平和ボケしてしまっていることをもっともっと自覚しておかないといけないと思うのです。戦禍に苦しみながら平和を希求している人たちの気持ちにどうしたら寄り添えるのか。大したことはできないでしょう。私には黄色いセーターを青いシャツの上から着ることぐらいしか当座思いつきませんが、それでも何もしないよりはずっといい、と思うんですね。これもまた平和ボケと言われるかもしませんが。(弥)

倶樂部余話【401】東急ハンズと葛利毛織と百周年とダブルクロスと。(2022年3月1日)


 東急ハンズの一号店は1976年(昭和51年)に藤沢にできました。私の家のとても近くで、当時大学に入りたてで車を買ったばかりの私は「日本でも、いや世界にもこんな楽しい店はないだろう」と、地元にできたこの店に足繁く通いました。半日居ても飽きない店でした。実験店舗という位置付けで東京でもまだほとんど知られていないこの店がその2年後、渋谷店で開花します。20歳の私はもう大興奮で、一日居ても飽き足らないほどでした。
 でも興奮してたのはそこまでで、池袋店には「渋谷ほどじゃないな」と感じ、名古屋店(初のFC店)では「これがハンズなの?」と憤り、百貨店の中に入ったときは「デパートじゃないから良かったのに」と落胆、最悪は地元にできたちっちゃな静岡店で「これじゃハンズ(両手10本の指)じゃなくて左の小指の先程度、しかないじゃないか」と憤慨したものでした。なので、東急ハンズの蹉跌を聞いたときも、一瞬驚きましたが、それほどの感慨もありませんでした。多店舗化すればするほどハンズはハンズらしくなくなってきて、どれだけ店が増えても「渋谷店さえあればいい」という皮肉な感想を抱くことになっていたのです。そうなんです、売上を大きく伸ばそうとした事自体が、破綻への道のりの始まりだったんじゃないか、と思えるのです。

 そんな話を先日、葛利毛織に行ったときに葛谷社長と話したんです。百年企業の先輩である葛利毛織に当社の百周年を記念する生地を織ってもらいたい、と、一宮まで相談に伺いました。旧式のションヘル織機8台が稼働するノコギリ屋根のファクトリーで、初めて会ったときに私は聞いたものでした。どうして最新の織機に買い換えないで、ションヘルを使い続けたんですか、と。設備投資するお金がなかったんだよ、と社長は答えました。照れ隠しだったかもしれませんが、半分は本当だったと思います。そして多分ある時期から、売上を大きく伸ばすということを諦めたのでしょう。売上を伸ばさずに会社を成長させる、という決断は実はなかなかできないものです。少なくとも東急ハンズにはできなかった決断だったでしょう。葛谷社長に戦略家・野心家という一面はひとかけらも感じません、人のいいおじいさんそのもの。苦しい時期もあったはずですし悔しい思いもたくさんしてきたことでしょう。ションヘルは、新幹線の時代にSL走らせているようなものですから、手間暇はかかるし高コストにもなりますが、問屋を通さない直販体制を築いて、大量廉価販売から逃れてきました。いつしか、たとえ同じ糸を使っても葛利でなけりゃできない生地の風合いがある、という評価を受けます。そして1912年(大正元年)の創業から110年、ションヘルが音を立てているノコギリ屋根の木造ファクトリーと母屋の敷地一帯は国の登録有形文化財の指定を受け(2020年)、同じ年に葛谷社長は旭日単光章の褒章を授かりました。そして更に進化することも忘れません。後継者の長男は、スーツ生地の多様性に着目し、ロリータファッションの製作者とコラボして、尾州ロリィタを展開、ちょっとした業界の話題になりました。

そんな百年の歴史を紐解きながら楽しく進んだ商談では、葛利毛織ならでは、の自慢の生地をたくさん見せてもらいました。葛利とは過去3回(フィナンシャルストライプ、棋士の背広、万能紺無地ジャケット)の別注実績がありますが、4度目の今回は選考基準が少し違います。葛利と野澤屋の百周年にふさわしい歴史を感じられるスーツ生地であり、なおかつ、それこそロリータじゃないけれど現代のファッションにもちゃんと通用する織布、そして葛利でなければ織れない生地でなければなりません。
 決定した生地は、通称ダブルクロス。これ、説明が難しいのですが、建物に例えて言うと、一見平屋建てのように見えるけど実は地下室もある、みたいな織物でして、昔からよく知られるダブルクロスは、ドスキンとか縞コール、つまりモーニングの生地ですね。明治から大正にかけてはモーニングの需要が多く、丈夫で長持ちでしかも着心地がいい、という英国式のダブルクロスが重宝され、葛利毛織も創業当時はダブルクロスばかり織っていたというのです。しかしダフルクロスは大変手間がかかる、6000本で済むはずの経糸(たていと)を地下室の分を加えて9000本、しかも6000本は上に3000本は下にして仕込まねばなりません。旧式のションヘルでなきゃできない生地としていつしか葛利の得意技になっていました。ただ昨今流行りのイタリア物のようにふわふわトロトロした生地ではないため、自信はあるのにアピールしづらいという面を持っていました。もうこれしかないでしょ、と3時間の熱い商談に結論が出ました。アーカイブの中からロリータに通用するぐらいの現代性をも兼ね備えた色柄とウェイトをチョイス、最低単位である一反の発注をいたしました。9月の発売開始ですが、先日見本反が届き、これでサンプル製作に入ることになりました。スーツ生地ですが、単品トラウザーズやオーバーシャツ、さらにレディスのロングビッグシャツにも提案の展開を広げます。
NZ100+JN50プロジェクト、進行してます。ご期待ください。(弥)

倶樂部余話【400】14ジェネレーションズ・フロム・カワナカジマ(1561)(2022年2月1日)



 112年前、21歳の野澤彌輔は静岡呉服町のとある洋品店に小僧として奉公に入りました。生家は現在の山梨県笛吹市一宮町の末木という集落、中農の貧家で9人兄弟の5男でした。なんでも当家の初代は信州・野沢温泉の出でしたが、川中島の戦いで武田側に付いたことから甲府に移り野沢の名字を冠した、という話を親戚の誰かから聞いたことがあります。私の世代で14代を数えるらしく、割り算してみるとだいたい計算が合いますから、川中島説はまんざら間違いでもないようです。

 調べてみると、野沢という名字には大きく2系統あって、一つは栃木県宇都宮市野沢町を発祥とする北関東周辺の系統、もう一つが長野県佐久市野沢に由来する甲信越に広がる系統です。当家は当然に後者に属するわけです。また新潟福島の県境近くにはJR磐越西線の野沢という駅(福島県西会津町)があります。私はこの駅の入場券を大量に購入し自分の結婚披露宴の演出に使いました。37年前の思い出です。静岡県で野沢という名字が最も多いのは浜松市ですが、おそらく信州と遠州を結ぶ天竜川での交易がその理由ではないかと思います。静岡市など県中部には祖父のように山梨県から移り住んだ人は多いのですが、当家の他に同姓の家はあまり聞きません。

 英国やアイルランドで発行される海外向けの観光雑誌をめくると「先祖詣でツアー」の広告がよく載っています。アメリカやカナダ、オーストラリアなど移民の子孫が多いところにはそういうジャンルが存在するんです。私も実際にエジンバラの観光ショーで突然号泣し始めた米国人婦人に遭遇し感動を覚えたことがあります。このことは倶樂部余話第90話(1996年) に書きましたので、読んでいただけたらと思います。
 私、今までファミリーヒストリー的なことにあんまり興味を持たなかったので、先祖ゆかりの地を訪れたことはないのですが、百周年のこの機会に、笛吹市から川中島経由で野沢温泉までの先祖詣でツアーをやらないといけないですね。Go toトラベルが再開したら考えてみましょう。(弥)

倶樂部余話【399】NZ100+JN50、始動です。(2022年1月1日)


 年が明けました。おめでとうございます。2022年、一つの節目と思い励みにしてきたこの年をようやく迎えることになりました。

 1922年(大正11年)11月20日、静岡・呉服町通りの横道、玄南通りにわずか2坪の小さな洋品店、野澤屋を開店した祖父・野澤彌輔。1972年(昭和47年)12月1日、野澤屋を兄弟3人で分社、メンズ部門を継承しジャック野澤屋を設立した父、野澤武良男。野澤屋100年とジャック野澤屋50年、略してNZ100+JN50と称することにします、今年は一年掛けて100年&50年の特別年といたします。

 ただ、大変お恥ずかしい百周年でして、普通よくある百周年は、こんなに立派に大きな会社になりました、と新聞広告なんか出してとても誇らしげなんですが、こっちは最初が裏通りの2坪の店なら今もビルの5階の2坪のシェアオフィス、百年経ってもこの有様です、と自嘲せざるを得ないほどの情けなさで、栄枯盛衰の百年、栄や盛はほんの僅かで枯と衰ばかりの百年です。50年前に父たち兄弟で3つに分割したと言いましたけれど、父は三男でしたので、昔の言い方をすれば分家筋ということになります。生業である衣料品小売業を未だに営んでいるのが当社だけになっているので、分家筋だけど百周年を謳いますよ、と、念の為本家にお伺いを立てたところ、こんなんで百周年なんて恥ずかしすぎてあんまり知られたたくないのが本音なんだよ、と言われたほどであります。

 でも、百年は百年、当たり前ですがそれには百年かかるんです。どんなに優れた企業でも五年で百周年はできないんだから、どんな百年でも単純に百年続けられたことを祝ったっていいじゃないですか。とりわけこの十年ほどは生業を保てるかどうかの瀬戸際の連続で、そのたびに、なんとか百周年までは、と、大きな目標点にしてきたので、今日元日を迎えて、ようやく、という思いひとしおなんです。曲がりなりにも百年企業の末席を汚して仲間入りです。

 呉服町のど真ん中、県下一の専門店と持ち上げられた繁栄の昭和30年代、慢心から一転経営難に陥り分割を余儀なくされたS40年代、VANを掴んで笑いのとまらなかったS50年代、三代目が食いつぶすの格言通りに縮小の連続が私の30年。そのへんのこと、今年は機会のあるときにもう少し詳しくお話することがあるでしょう。

 ともかく、NZ100+JN50、今日が初日です。(弥)

倶樂部余話【398】ドキュメンタリーのことなど(2021年12月1日)


 前話での予言どおり、先週の3日間はビートルズGet Back に浸かり切りました。
50年前のものとは思えないクリアな映像と音楽、延べ8時間弱、初めて知ることに驚きと感動の連続で、生きててよかった、と、大げさではなく、ほんとにそう思いました。

 その興奮冷めやらぬ日の朝、新聞広告で雑誌ブルータスがまさにこのget backを表紙にしてドキュメンタリーの特集を組んだと知り、早速購入。そうか、自分はドキュメンタリーとかノンフィクションとか、そういうものが好きなんだと改めて実感した次第です。

 そのブルータスでも少し触れられていますが、ドキュメンタリーの始祖と呼ばれるのが、アメリカのロバート・フラハティ監督(1884-1951)。その代表作こそ映画「アラン(原題はMan of Aran)」(1934)で、2年間で6万メートルのフィルム、と時間と費用をふんだんにかけて撮られたこの作品は、アラン諸島の人々の厳しい環境での日常を淡々と映し出し、異例の大ヒットを博します。アイルランドの西の端にアラン島というものすごい秘境がある、と、知られることになったのはこの映画のおかげです。今でも島のビジターセンターではこの映画は常に上映されていて、島の人達はこの映画を誇らしげに「ザ・フィルム」と呼んでいます。アランセーターが欧米に普及するのにこの映画の知名度が役立つたことは言うまでもありません。あの神秘の島から来たセーター、そう思われたのです。このフィルムとアランセーターの関係については自分の本にもかなり詳しく書きました。

 最新の話題作ビートルズと最古の名作アラン、またしてもこの2つがドキュメンタリーという言葉で繋がりました。そして日本で長年にわたりドキュメンタリー映画祭を開催しているのが山形なんです。はい、山形ともまた繋がりました。

 その山形で作ったモーリン・愛のアランセーター、発売以来好調な滑り出しのようで一安心してます。そのセーターに付属される小冊子のために書き下ろした私の原稿「モーリンに捧ぐ」がwebでも読めるようになりましたので、ここにリンクを張っておきます。読んでください。

 アラン、ガンジー、シェトランド、フェアアイル(フェア島=シェトランド諸島の島のひとつ)、どれもセーターで知られる島の名前ですが、ここへ来て、なんだかシェトランドとフェアアイルが、やきもちを焼いているような気がしてきました。ガンジーやアランばかりを取り上げて俺たちのことを忘れてないかい、と。そんなことないよ、納品が遅いからだけなんだよ。

 ということで、遅れていたセーターが到着です。フェアアイルは、異なるパターン(柄の組み合わせ)が無限に続くインフィニティと名付けた、よそのどこも(多分)目をつけていない当店独自の発注品、シェトランドは、従来からの純正シェトランド種の産毛を使いますが、厚さも色も今までとは異なる新ネタを仕込みました。どちらもほかでは入手困難な自信作。忘れてなんかいないからね。(弥)

倶樂部余話【397】ビートルズとアランセーター(2021年11月4日)



中学の頃、つまり1970-73年頃の話。生徒会活動に明け暮れていた私の週末は、天気が良ければ鎌倉の史跡をしらみつぶしに回り、雨が降ると映画館に入り浸る、というのが常でした。
江ノ電の古い駅舎の近くの映画館「フジサワ中央」はいつも洋画の3本立てで、その組み合わせは、例えば「ある愛の詩」に「栄光のル・マン」とか、「小さな恋のメロディ」に「トラトラトラ」とか脈絡がなく、そして3本目に幾度となくかかっていたのが「Let It Be」と「Elvis on stage」でした。だからこの2つの音楽映画は何度も観ることになったわけです。入れ替えなしの館ですから一日に二度観ることもできました。

当時の私は吉田拓郎に憧れてギターを始め同級生と一緒にフォークソングを歌っていたところで、洋楽のことはエルトン・ジョンとジョン・レノンの区別もつかないほどにまるで無知でした。なので私にとって最初のビートルズは、アルバムLPではなくてこの映画「Let It Be」であったのです。多くのビートルマニアが自分にとっての最初のビートルズを記憶しているでしょうが、私のようなケースは稀なんじゃないかと思います。このフィルム、解散寸前のメンバーの不仲な様子が伺える暗い記録としてビデオ化もされず映画としての評価はよろしくないのですが、私にとっては、メンバーが子供みたいにはしゃいだり、つまらないことで喧嘩になったり、全然合わないミスばかりのリハーサルを何度も繰り返したり、と、「なんだ、ビートルズも俺達とそんなに変わんないじゃん」とものすごく身近に感じられたのでした。いやはや今思うとなんとも不遜な感想ではありますが。

つまり私は幸運にもビートルズ現役時代の最後の最後のけつッペタにかろうじて間に合ったわけでして、そこから遡るように聴き込むようになります。挙げ句、中3の文化祭のステージ、生徒会長として開会宣言をした直後にエレキを持って♪Don’t Let Me Down♪を絶叫する私がいたのでした。

そんな私にとって特別なこの映画ですが、当時残された膨大な撮影フィルムが新たに編集されて、この度6時間にも及ぶ全く新しいプログラムが「Get Back」としてまもなく世界同時公開されることになりました。今月下旬の3日間にかけて2時間ずつ配信されるらしいのですが、もう楽しみで楽しみで多分その3日間は仕事にならないんじゃないか、と今から申し上げておきます。

で、今月の楽しみといえば、はい、前回当話でお知らせした、モーリンのアランセーターの復刻品がいよいよ11/15に発売です。それに関連して先日あるメンズファッション雑誌から一日かけての取材を受けました。業界紙も購読をやめてファッション雑誌もほとんど買わない、向かいの本屋さんが閉店してからは立ち読みすらめったにしない、という私が、そんな何ページも雑誌に載っていいのか、と思いますが、2011年と2012年に続けて大きく誌面に登場して以来、約10年ぶりの雑誌掲載です。毎回おんなじアランセーターの話ですが、10年経つと読者が一巡してとても新鮮に映るようです。どういう感じで出るのかはまだわかりませんが、11/15に書店でお確かめください。(弥)

写真は、先日の取材の風景と、過去(2011年と2012年)の特集記事。過去の記事の反響はとても大きいものでした。

倶樂部余話【396】A SWEATER IS LOVE (セーターは愛)(2021年10月15日)


(この話は倶樂部余話第391話(2021年5月1日)から続きます)

 2020年1月4日、モーリンは85歳で天に召されました。

 私がアランセーターのすべてをまとめた本を書くぞ、という気持ちを強く持ったのは、心の父とも呼べるバドレイグ・オシォコンの逝去がきっかけでした。パドレイグの功績を日本語で残しておくこと、それが私に託された彼の遺言のように思えたのです。彼の死後7年掛かってようやくその遺言は果たすことができました。さて、心の母、モーリンが亡くなったとき、私に課せられた使命はなんだろうか、と考えました。もちろんモーリンの人となりを伝えていくこともそうでしょう、しかしモーリンはニッターです。ならば彼女の編んだアランセーターそのものを広く世の中に伝えていくことはできないだろうか。モーリンという素晴らしいニッターがいたという記憶を多くの人に残しておけるような。でも一体どうしたらそれができるのだろう。

 そんなときに一人の男が静岡の私の店に訪ねてきます。アランセーターの話を聞かせて欲しい、と。米富繊維の大江健さんです。彼とは一度だけ数年前に東京の大きな合同展で会ったことがあり、そのときも山形で意欲的なニットの提案に取り組もうとしている様子を高く評価したことは覚えていましたが、それきりでその後に交友があったわけではありません。ですが、彼の方はその後も私の「アランセーターの伝説」を熟読し、いたく感動してくれたようでした。
何度かの面談や電話でのやり取りの後、彼が言います。「新しい考えで取り組んでいるブランドTHISISASWEATERの次の作品にアランセーターを考えてみたいんです。協力してくれませんか」。同時に具体的にいくつかの提案も出してきました。どれもいいアイデアでした。が、それを聞いた私の頭の中にむくむくと一つのアイデアが湧き上がってきたのです。
 「モーリンに編んでもらった特別の一枚。私が毎年クリスマスに着るこのセーターをかつては自分の死装束にしようかと考えていました。でもそれではゴッホのひまわりを私の棺に入れて一緒に燃やしてくれ、といったどっかの製紙会社の成金社長と同じ愚行になってしまいます。これは独り占めするものではない。今ゴッホの名画を美術館で多くの人々が鑑賞できるように、この特別な一枚も多くの人に愛ででもらうことができたらいい。たった今私にはそんな夢が浮かびました。このモーリンのセーターをマシンニットで複製できたら素晴らしいじゃないですか」。

 やってみます、と引き受けた大江さんでしたが、正直言うと、このときまだ私は半信半疑でした。世界一の編み手による最高レベルのハンドニットがマシンニットにそうやすやすと再現できるはずがない、諦めてくるかもしれないなぁ、と。実際最初に出来上がったサンプルを見せてもらったときには、やっぱり無理なのかなぁ、と落胆もしました。さらに数ヶ月、幾度となく繰り返された試行錯誤の後、新しいサンプルが出来上がったというので、山形まで出掛けました。

 いや、驚きました、詳しいことは企業秘密に属することでしょうから話せませんが、従来マシンニットでは再現不可能と言われていたいくつかの柄も見事に仕上がっているではないですか。工場の皆さんからもここに至るまでの苦労話をたくさん聞かせてもらいました。マシンニットもすごい、米富繊維さん、ありがとう。夢のような話をお願いしてよかった。セーター、っていいよね。ゴッホやモネの複製画を部屋に飾るように、モーリンの特別な一枚をひとりでも多くの人にシェアしてもらえたら幸せです。天国のモーリンもきっと喜んでくれることでしょう。

 モーリンの愛のセーター、いよいよ発売です。(弥)




 この商品についての詳細については下記リンクをご覧ください。

THIS IS A SWEATER.アランセーター_compressed

ご購入ご希望の方はこちらまでご連絡ください。

 

倶樂部余話【396】の序(2021年10月1日)


 今話は5月に書いた余話第391話「アランセーター、ライフワークの終活」の文末「そんな矢先、一人の男が静岡の私のオフィスにやってきます」からのその先を書くつもりで、原稿もほぼできています。この話の続きとして一つの商品開発に至ることになるのですが、発売前でまだその話ができない状況にあります。
情報公開解禁と発売開始があと2週間後の10月15日の予定となっていますので、そのときになりましたら、原稿をここにアップいたします。
もうお伝えしたくてたまらない気持ちでうずうずとしているのですが、どうかもうしばらくお待ち下さい。(弥)

倶樂部余話【395】五輪、難民、欧州、日本(2021年9月1日)


 30年以上も毎月こう書いていると、私にとっては日記みたいなところもあって、五輪についてもう一度触れておこうと思います。

今度の五輪で一番印象に残ったのは男子マラソンのゴールシーンでした。「ゴールが見える最後の直線に、2位を争う3人が接戦でなだれ込んでくる。チェロノ(ケニア)、ナゲーエ(オランダ)、アブディ(ベルギー)の順。ナゲーエがスパートで2番手に浮上、そのまま前だけ見てゴールに突進するのかと思うと、違った。必死で走りながらも後ろを振り向き、右手でアブディに「来い! 来い!」というしぐさを見せる。吸い込まれるようにアブディは3位に上がり、チェロノを抜いた2人がそれぞれ銀メダル、銅メダルに輝いた。」(朝日新聞)。

 二人は同じソマリアの難民で、来日直前までフランスで一緒に練習してきた先輩後輩同士でした。心の手つなぎゴールともいえるシーンでしたが、私が強く感じたのは、オランダとかベルギーとかフランスとか、欧州の国々がアフリカや中東の難民を受け入れて自国民として五輪のメダリストという栄誉を取らせる、その懐の深さでした。欧州に流れ込んだ難民の数は凄まじいものになっています。様々な軋轢が当然あるのでしょうが、なんだかんだ言って受け入れているのはやっぱり尊敬に値するなぁと思うのですね。そうそう、ポーランドもベラルーシの女性選手の亡命を受け入れました。それから、ミャンマーの代表選手が自国の軍政を支持しないという抗議の意志から不参加を決意したのも命がけの勇気ある行動だったに違いありません。

 片や我が国。名古屋の入管はスリランカ女性を虐待死させ、国後島から決死の覚悟で泳いできた亡命希望のロシア人を本国に突き返してしまうそうです。難民とか亡命とかに対してあまりに酷い消極性です。
 五輪の閉会を待ってたかのように、タリバンがアフガンを制圧し大変なことになってます。日本の大使館職員は自分たちだけ英国機で真っ先に逃げ出しておいて、間抜けなほど遅れてやってきた自衛隊の救援機はたった15人を救っただけと報じられています。難民という言葉を真ん中において欧州と日本を対峙させたときなぜこうも違うのか、ものすごく恥ずかしい気持ちになるのは私だけでしょうか。

 なんてことで、8月が終わりいよいよ9月、秋冬モノのスタートで、いつもながら9月1日は一年の始まり元日のような気分です。まさかまだコロナがこれほど続くとは思いもよらないことになってますが、そのハンディは私だけではない、条件はみんな一緒ですから愚痴はこぼせません。この12月には個人的ながらWhen I’m sixty-fourを高らかに歌う日がやってきて、さらに来年11月野澤屋創業100周年と12月ジャック野澤屋の50周年。自分の頑張りのひとつの指標としてきた創業記念がだんだんと迫ってきます。開店35回目の9月、また長い一年が始まります。どうぞよろしくお付き合いください。(弥)