倶樂部余話【445】体験の2days (2025年11月4日)


 たまにはブログ風に週末の体験を。

 11月始めのとある土曜日、出身小学校の創立150周年式典に東京都杉並区まで出かけました。この学校については半年前に倶樂部余話【439】でも触れているのでここで多くを語る必要はないのですが、55年振りのホームカミングディはとても感慨深いものでした。  
 今まで数多くのアニバーサリーイベントを経験していますが、150年というイベント、明治という時代を身近に感じさせてくれる機会にはなかなか出会えるものではありません。亡き父は慶應4年創立の大学の150周年式典に出席できたことを何よりの栄誉と自慢していましたが、そもそも大学と小学校では卒業生の数が全く違います。大学の卒業生は何百万人いるか知りませんが、、対して我が小学校の卒業生はわずか18,000人足らずだというのです。この数の少なさには驚きました。確かに一学年せいぜい多くて150人くらいですから、いくら150年掛けてもそのくらいの数にしかならないんですね。
 おまけに、明治始めの新学制発足時に寺子屋等を母体にして創立された公立小学校は全国で数多くあったはずなのですが、その中で、今も統廃合なく存続し、なおかつ少子化の時代にあって児童数が増え続けている、なんていう小学校は実に珍しいのではないでしょうか。例えば父の母校静岡市立城内小学校は明治3年に藩校付属校として設立されましたが平成19年に併合のため廃校となり残念ながら137年でその歴史を終えています。
 満席の公会堂で卒業生として参加しているのはわずか14人。公募したらきりがないからなのでしょうか、多くは卒業後も母校に何らかの貢献をした方々のようです。卒業と同時に引っ越してそれっきり、自ら学校に問い合わせ押しかけ参加するような輩は私ぐらいなものなんでしょう、それだからからか、校長にはいたく歓迎されました。現役の6年生に導かれて55年振りに唄う懐かしい校歌、涙が溢れて声になりませんでした。いい思い出になりました。

 この日はもう一つ行きたいところがありました。東京ミッドタウンで初日を迎えた「2025年度グッドデザイン賞受賞展」。米富繊維のTHIS IS A SWEATERの企画が今年度のグッドデザイン100に選ばれたのです。(詳しくはこちら ) 会場には私が大いに協力したモーリンのセーターのレプリカ(詳しくはこちら )が私の描いた小冊子(中身はこちら )とともに展示されていて、まるで自分が受賞したのと同じような気分に浸ってました。
 六本木まで歩いたら、やにわに鶏そばが食べたくなって香妃園に。これも43年ぶり、夜遊びしてた頃の思い出の味です。ご機嫌で帰宅。

 翌日の日曜日は静岡市ツインメッセに朝から一日いました。1000人規模の恋活(婚活とは言わないらしい)イベントにトークブースのひとつとして参加しました。主催者のオフィスが当社と同じ場所の斜め向かいというご縁からの誘いでしたが、実はこのお話を頂いたのが糸偏雑筆 を書こうかなというきっかけにもなったので、そういうキホンのキを話せる機会としてのテストケースでした。結果としては満足とは言えませんでしたが、いい勉強になりました。好きの反対は嫌いじゃなくて無関心、とは近頃よく言われますが、この無関心な人たちをどう導いてあげるのか、こりゃ大変だなぁ、と実感しました。5-6人に30分ぐらいの糸偏雑筆な話をしただけでしたが、アウェイ感たっぷりで疲れました。でも面白かったです。

 ということで毎月1日発行が原則の倶樂部余話が3日も遅れたのも珍しいことであります。あしからず。(弥)


倶樂部余話【444】パンツの話 (2025年10月1日)


 トラウザーズではなくて下着のパンツの話。家族以外は知らない私の秘密をお話しします。
 私、人とはちょっと違うパンツを英国から買っています。って、何も性癖じみた話じゃないですよ。写真のようなもので、英国のチェーンストアMarks&Spencer(M&S)のブリーフ5枚組、スリランカ製、綿90%ポリウレタン10%。その時々で異なる色柄のアソート5枚セットで、写真のものはポンドではなくて32ユーロの値札が付いているので恐らくダブリンかゴールウェイのM&Sでかなり前にまとめ買いしたものでしょう、一枚千円ぐらいの大衆品です。
 もう20年以上も前になるでしょうか、この手のものがどこを探しても見つからなくて諦めていた頃、ダブリンのM&Sでこの品を発見、以来愛用を続け、海外出張の際にまとめ買いしたり、足りなくなるとわざわざ英国から通販で取り寄せたり、一体何十枚履き続けているのか私にも見当がつきません。男性しかわからないでしょうが、これじゃないと「収まりが悪い」んです。
 いよいよ最後の一組に手を付けたところで、そろそろ次の購入を検討しないといけないな、と、もう一度ネット検索をしてみました。そもそも国内はトランクス全盛の時代でブリーフはかなり少数派、スポーツ用の超ビキニだったり、股上が深くても爺さんみたいな白無地しかなかったり、とか、で、やっぱり食指の動くものがまったくありません。
なんでここでこんな告白をしたのか。え、ちょっと遊んでみたくなりました。多分多くの方はこう思っているでしょう。そりゃ、野沢さん、ないものねだりだよ、そんな化石のような変人は他にいないよ、と。でももしかしたら、いやぁ自分も同じ思いをしてたんだ、貴重な情報をありがとう、という人がいるかもしれない、一人でも二人でも、いるかもしれないでしょ。あんまり知られてないけどいいものを自分の視点で紹介すること、これが私の仕事の本質だとすれば、それこそ私の本望ではないか、なんて考えたんですね。
 倶樂部余話はネットのお陰でハガキ時代に比べて読者数が格段に増えました。なかには私の存じ上げない方もいて、そういう方々からご意見やご感想をいただく機会も多くなりました。だからちょっと告白して遊んでみようと思った次第です。(弥)

倶樂部余話【443】シンクロする朝ドラ (2025年9月1日)


 朝ドラファンとしては至福の時期を過ごしています。3つの朝ドラがシンクロしているのです。
 今年の「あんぱん」、9年前(2016年制作)の「とと姉ちゃん」再放送、そして38年前(1987年制作)の「チョッちゃん」再放送。これを夫婦二人で毎日のように3つ続けて観ています。

 この3つ、共通点があります。実話が元、女性主人公が地方から東京に移住、戦争を挟んで人生が大きく変化。何しろ3人の歳が近いんです。
 黒柳朝(チョッちゃんのモデル)…1910(明治43年)—2006(平成18年)享年96歳。黒柳徹子の母。
 小松のぶ(あんぱんのモデル) …1918(大正7年)—1993(平成5年)享年75歳。やなせたかしの妻。
 大橋しず子(とと姉ちゃんのモデル) …1920(大正9年)—2013(平成25年)享年93歳。暮しの手帖創刊者。
 10歳しか離れてないんですね。だから銀座あたりできっとすれ違っているはずだし、もしかしたらお互いに知り合いだったかもしれません。業界も近いですし、実際に永六輔はこの3人全てと交友がありました。

 NHKがこの3つを同時期に組んだのは偶然ではないように思います。前作があまりの酷評だったこともあり、起死回生、今作を援護射撃するように、戦後80年の記念の年に終戦直後の東京を描いた似たような作品を並べて朝ドラの多重構造化を狙ったんじゃないでしょうか。え、もしや、残り1ヶ月、この3人が出会うような伏線回収的ストーリーが組まれているのでは、自分自身の幼少期まで登場させる脚本家中園ミホのことですから、そんなサプライズがあってもおかしくない。まさか、ありえないかな。

 今年は昭和100年にして戦後80年。1957年昭和32年生れの私ですが、こないだちょっとショックなことがありまして、30前の人から「野沢さん、昭和32年生まれっていうのは戦争中ですか」と聞かれました。若い人にとっては、もう昭和は20年代も30年代も一括りで昭和なんですね。自分自身は戦争を知らない子供たちだと胸を張ってばかりいましたが、考えてみるとGHQの占領が終わって独立国としての主権を獲得してからたった7年後に生まれているのですから、まだまだ戦後処理の真っ只中にいたんですね。荻窪駅のガード下で傷痍軍人がハーモニカを吹いている姿など普通に覚えてますから、今の若い人から見れば戦中派に間違えられても仕方ないことなのかもしれません。

 男の私はつい理屈っぽくこう社会的意義みたいな観点で語ってしまいますが、愚妻は方言比較みたいな捉え方をしているようで、特に幼い頃に夕張で育った彼女にとって、チョッちゃんでの北海道弁はやたらに懐かしいらしく「なんも、なんもだ」ってマイブーム化しています。(弥) (文中敬称略)

倶樂部余話【442】トランプ関税 (2025年8月1日)


 当店は7月決算ですので、今日8月1日は会社の元日のようなものですが、世界中の多くの人にとってはトランプ関税が一体どうなるのか、米国の動きを固唾をのんで見守っているという一日になっているんじゃないでしょうか。米国と取引のない私なんかは気楽なもので、米国内の港や空港内の貨物の税関はパニックになってないのか、通関が渋滞して長い行列ができるんじゃないか、なんてつまらぬ心配をしていますが、輸出業者にしてみれば、わがまま爺さんのご機嫌伺いに一喜一憂せざるを得ないわけで、まあ気の毒だなぁ、とは思います。

 何十年か前に、初めて直輸入をしようとしたときに、先輩の同業者から「関税はしっかり知っておいたほうがいいよ」とアドバイスされ、関税定率法とか通関士の入門書なんかを読んでわりと勉強したものですが、その厳格に決めらるはずの関税というものが、大統領の気まぐれでいとも簡単に100%とか200%みたいな常軌を逸した税率まで飛び出してころころと変わってしまっていいものなのか、私にはわけがわかりません。

 とは言っても、実のところ輸出業者は言う程そんなに困ってないんじゃないのかなぁ、とも思うのです。なにせこの10年でドルは5割以上高くなってる(最低値101円から最高値161円)ので、同じ売上を維持できればそれで5割の増収ですから、ここで15%ぐらい関税が高くなってもへっちゃらなんじゃないでしょうか。それに関税を支払うのは米国の方なので、輸出業者の財布は傷まないんです。

 対して財布が傷むのは私ども輸入業者の方です。当社の輸入相手は欧州なので、ユーロを例にしますと、この10年で為替は5割以上(最低値113円から最高値173円)上がりしかも欧州の物価自体が26%上がってますので、ざくっというと、10年前には1万円で買えたものが今は2万円出さないと買えないんです。支払う関税はEPA(貿易協定)のおかげでかなり安くなっていて助かってはいますが、それでもこの10年デフレ下の日本で仕入れ値が倍になっても売値を倍にはできないわけで、弱体化した国力がその原因であるにも関わらず、この減益を補填してくれるものはなにもないのですから、愚痴のひとつも言いたくなるってもんです。

 まあ、仕方ないか。本来なら年度初めの日には一年の抱負を語るものなんでしょうが、なんだか愚痴っぽくなりました。今日の国際ニュースがどうなることかわかりませんが、なんとかやっていきましょう。ということで、野澤屋103年目ジャック野澤屋53年目の元日の余話でありました。(弥)

倶樂部余話【441】2032年へ向けて (2025年7月1日)


 私は今年68歳になりますが、50代の頃から自分は短命でその寿命は70だと決めていました。
さすがにもう少し生きられそうかな、と感じていた矢先、倶樂部余話【405】で触れた私そっくりの叔父が昨年78歳で昇天したことから、いよいよ私も78までか、と思い始めて、じゃ引退して余生を楽しむという期間も少しだけ欲しいし、ということで、75歳でリタイア、という目標を定めました。あと7年です。まだまだ7年もあるじゃないかと思われるかもしれませんが、前の店舗から今の場所に移動してもう7年経つのですから、7年なんてあっという間です。ここで折り返しの7年、2032年に向けてじわじわと店の終活に入ることにします。
 そう決めるとやりたいことがむくむくと湧いてきました。不思議なもんですね。
 まず、クロージングアイテムの再強化。カッコよく言うとセヴィルロウ倶樂部の復権、
わかりやすく言うと、最後のスーツは当店で、という7年掛けのロングキャンペーンを張ります。幸い、当店には国内業界一人勝ち状態のAという素晴らしいファクトリーが強い味方にいます。ここが近頃最強のスタンダードモデルを発表しましたのでこれをアピールします。
 次。7年の間品揃えから欠落したままでずっと気がかりだったのがネクタイです。再開するならこの男と組みたい、というKという人物、当店がかつて何百本も売ってきたあのDのタイに国内で最も近いモノづくりをしている男と取引を再開します。たださすがに常時展開は難しいので、10月初めにまず短期のPopUpイベントとしてお披露目のスタートをします。ネクタイが欲しい人はそこまで我慢しててください。そして10月に必ず来て(見て)ください。品物には自信があります。
 それから。正しい洋服の知識を得る場所がなくなってきた、と感じてます。雑誌がその役目を果たせなくなっていて、ネットで断片的な知識を聞きかじることしかできません。
なのでもう一度、最低のことだけは店が残しておかねばなりません。今までにも倶樂部余話の中で折りに触れいろいろ書いてきましたが、改めてまとめていこうかな、と思います。ついてはメルマガを月二回にして、倶樂部余話を朝刊コラムとすれば、夕刊コラムのような糸偏雑筆(いとへんざっぴつ)(仮題)の連載を始めてみます。7年も書くだけの服屋の知識を自分が持ち合わせているか不安ですが、将来孫に読ませてもわかってもらえるような糸偏業界40余年の戯言を書いてみようと思っています。
 そして。7年後に私はリタイアしますが、後継者は考えていないので店も閉めることになります。が、この店を引き継ぎたいという人物が出てこないとも限りません。経営状態は借金のことを除けばなんとかギリギリの黒字ですし、店の運営を別会社に移すとか、誂えると揃えるを分離するとか方法は色々あります。ダブルワークでも可能かもしれません。興味のある方は一度ご相談ください。秘密は厳守します。
 今回は、今こんなことを考えています、というお話をいたしました。一つの目標が生まれて、なんだか清々しい気分です。今年の夏も暑いみたいです、しっかり乗り切りましょう。(弥)

倶樂部余話【440】カルピスは苦い記憶 (2025年6月1日)


 久しぶりに真剣に相撲を見ました。日本にもすごい若者がいるもんだ。新横綱大の里、どうか師匠の分までふたり分の活躍をしてもらいたいものです。(師匠・稀勢の里の悲運については倶樂部余話【363】に書きました)

 中学生の頃、だから今から50年ほど前ですが、50年経ったらなくなっているもの、として、私は4つのものを予想しました。デパート、演歌、歌舞伎、大相撲。
 デパートは、合併とリストラを繰り返してかろうじて大都市の店舗だけが生き延びてますが、百貨店会社自身がすでにデパートメントストアという従来の店舗形態に固執していないので、私の予想は概ね当たっていたと言っていいでしょう。演歌も世代転換が進まずに今後も衰退していくでしょうね。余計なことですが、どうしてNHKは紅白で演歌になるとけん玉とか巨大な衣装装置とか集団舞踏とか余興ばっかりで肝心の歌を聞かせることに集中させないんでしょうか。さて、歌舞伎は元々が大衆演芸だったこともあり、時代を取り込む柔軟な姿勢を見せて思いの外健闘、歌舞伎座も蘇って、私の予測は外れたと言えます。そして相撲。裸でちょんまげ、なんて誰が好んでするものか、蒙古族の出稼ぎ場になっていくのが関の山、と思ってましたが、なかなかどうして、生き残っています。ただ競技として女性を取り込めないのが致命的なのと、プロスポーツとしてみると優秀な選手が他の競技に流れしまい、相撲界にはいい人材が残りにくいのではないかと思います。大の里も父親が相撲の指導者だったことが幸いしましたが、そうでなかったら、松井秀喜に憧れて今頃大谷翔平と肩を並べる大リーガーになっていたかもしれません。

 こういう当たる当たらないという予想は、服飾のバイヤーという職業を長年しているとクセのようになってしまっていて、大きな展示会を回っても、常に売れるか売れないか、を頭においている自分に気が付きます。もちろん、最初から売れないと思って新製品を出す人などいないのですが、バイヤーとしては、ただよく売れるものを探せばいいのではなくて、まだそれほど知られてないけれど売り方次第では面白いアピールができるかな、という極めてニッチな商品を探し当てないといけません。百に一つ、千に一つ、ぐらいのつもりで探しますから、99%は捨てているわけです。

 売れる売れないの判断では今でも痛恨の極みとも言うべき記憶があります。当時34歳、1991年(平成3年)に発売された缶入り飲料カルピスウォーター。私は呆れてこう言い放ちました。炭酸水ならともかく(その18年前にすでにカルピスソーダは誕生していた)、ただ水で希釈しただけのものにソーダと同じ金額を払う者なんかいるはずがない、自分で薄めりゃ濃さも自由に好きなだけ飲めるじゃないか、一体何を考えてるんだ、作り置きで飲みきりの缶入り(ペットポトルなどまだなかった)のカルピス水なんて売れるはずがない、と言下に斬り捨てたのです。しかし結果は空前の大ヒット、30年以上続いているロングセラー飲料になっています。思えば売れると信じて仕入れたものが全く売れなかったことは幾度か経験がありますが、あのときほど自分の予想能力に自信をなくしたことはありません。
 高校の夏合宿、灼熱のテニスコートに女子が差し入れてくれたヤカン入りの冷えたカルピス、あれはまさに甘い初恋の味でしたが、今でもコンビニであの青い水玉の付いた白いボトルを見るたび、私には苦い記憶ばかりが蘇ってくるのです。(弥)

倶樂部余話【439】あきらけく、桃一ばんざい (2025年5月1日)


 誰も自分の過去を知らない離れた土地に引っ越して人生をリセットする、そういう機会を私は二回得ています。二度目の方は25歳で東京から静岡に引っ越してきたときで、リセットというと聞こえはいいですが、血気盛んな頃の不埒な悪行三昧の恥ずかしい過去を静岡の人に知られたくなかったのでした。
 自分にとってなにより大きかったのは最初のリセットでして、それは小学校卒業と中学入学との境目、東京杉並区から湘南藤沢への引っ越しでした。今から55年前、大阪万博の年のことです。生まれ変わった少年野沢は創立間もない藤沢の新しい中学で生徒会活動に没頭、楽しく過ごすことになります。

 小学校当時の私は、職員室を騒がせる問題児、まあとにかく悪い子でして、母親は何度も学校に呼ばれました。今になって思うと担任だった若くてきれいな女センセイを困らせたかっただけの他愛ないワルガキの仕業なわけですが、10歳ぐらいの私にはなぜ悪さをするのか自分でも自分のことが理解できず、抜け出したくても抜け出せない、自己嫌悪のカタマリになってました。それでも学校は大好きで毎日楽しく通いましたし、仲のいい友達もたくさんいました。しかし引っ越して以来、今では連絡の取れる級友は一人もいなくなってしまったのです。

 この小学校、親がわざわざ越境までさせて私たち兄妹を入れたほどのとても古い伝統校で、入学したときにはまだ長い廊下の木造の校舎がありそこで授業を受けました。わけも分からず丸暗記した文語調の校歌の出だしは、明治八年春開校という13文字を29文字に引き伸ばしたものだったと、その意味を知ったのはかなり大人になってからです。明(あき)らけく治まる御代(みよ)の八年(やとせ)春、開けし学びの我が舎(やど)は、、、。もちろん今でも歌えます。東京都杉並区立桃井第一小学校、通称、桃一。

 明治8年(1875年)というのは寺子屋から小学校へ国の学制が大きく切り替わった年で、桃一は杉並区で二番目に古い小学校で4月28日に開校しました。一番目はその三日前に開校していて、たった3日の違いで二番目に甘んじたことがよほど悔しかったんでしょう、ことさらに明治八年を強調した校歌にはその悔しい思いが込められているように感じます。

 つまり今年創立150周年を迎える小学校は日本中のあちこちにあるらしいのですが、私にとっては55年前にそこから離れてしまった思い出の場所です。150年を迎える今年の開校記念日は何年か前からずっと気になっている節目の日になっていて、もしかしたら同じように思っている卒業生もいるんじゃないか、いや学校はホームカミングディなどと称して校門を開けて待ってるんじゃないか、などと思い巡らせまして、私とうとう桃一に問い合わせをしてみました。

 副校長に名前を告げるとすぐに調べてくれて95期に私の名前があり卒業後すぐに藤沢市に転居していることなどの記録があると話してくれました。「創立記念日は例年と同じく休校日なのでどなたも入れません。来ていただいても誰もいません」しかし55年前の卒業生、しかも静岡からわざわざ問い合わせが来たことに母校はいたく喜んでくれまして「秋に大きな式典をやりますのでぜひ出席してください」と招かれました。ああ、電話してよかった。

 ですので私だけの節目の日だった一昨日は何事もなく過ぎ去り、ひとり静かにワインを傾けました。桃一150周年おめでとう。(弥)

2022年8月撮

倶樂部余話【438】思い出のパイナップル (2025年4月1日)


 少し世代の離れた人と打ち解けるのに私がよく使う方法が「これ覚えてますか?何歳でした?何してた?」といういくつかの時代のお祭り騒ぎです。
*皇太子ご成婚(ミッチーブーム)。1959年(昭和34年)私まだ1歳半。さすがに記憶はありませんが、クラスに美智子さんという女子が少なくとも必ず一人はいました。
*東京オリンピック。1964年(昭和39年)私、小1。青梅街道で聖火ランナーに日の丸を振りました。
*大阪万博。1970年(昭和45年)中1。
*札幌オリンピック。1972年(昭和47年)中3。高校受験ともろかぶり。

  中でも自分がまさに真っ只中にいたと思えるのが大阪万博♪1970年のこんにちは♪です。世界中の国名と首都を諳んじるような地理大好き少年12歳の私にとって、それは世界最高のお祭り、地球儀の上を歩いているような興奮でした。大阪・香里園に母の実家があるという好条件で、夏休みに長期滞在、分厚い公式ガイドブックと祖母のおむすびをリュックに詰めて、日がな通い詰め、77カ国、まさに世界の国からこんにちは、110を超えるパビリオンを完全踏破しました。一番の思い出は月の石?太陽の塔? いえ、パイナップルです。縦割りして割り箸を刺した生のパイナップル、最高のごちそうでした。
 中学生という年頃も良かったんだと思います。乾いたスポンジみたいにどんなものも吸い取れる巨大な吸収力が自分にありました。「人類の進歩と調和」というそのテーマは当時の実行委員だった小松左京が作った言葉だそうですが、日本中の誰もが知ってる素晴らしいスローガンでした。この国に生まれ育って、私は良かった、と、心からそう思えたのでした。
 はてさて、いよいよ二度目の大阪万博です。テーマをご存知ですか。「いのち輝く未来社会のデザイン」。申し訳ないけど、全然ピンとこないんです。そもそも万博ってデザイン展だったのかな。まあ、始まる前から悲観的になるのはやめましょう。年寄りの悪いところです。俺は一回目を知ってるから、って比較するのは良くないですね。二回目は二回目としてのいいところを見いだせるようにしましょう。
  さあこの万博は将来私の中でどういうお祭りとして残るのでしょう。分かっていることが一つだけあります。ああ、あの万博の初日、私は福岡でアランセーターの講演をしたんだっけ。(弥)

倶樂部余話【437】あちこち壊れました (2025年3月1日)


 このところ身近の小さいものが立て続けに壊れました。

 まずニコラス・モスのスモールボウルが割れました。それもミカンと茶葉と波と富士山の当店別注ジャパンエディション。瞬間接着剤でつなぎましたが、もう食物には使えません。残念。余った接着剤でほころび始めてきたヨーツェン(ダウン)のダブルジッパーの蝶棒(入れ始めの端)を固めました。これは成功。

 次にノートPCの電源コードがダメになりました。充電ができないんじゃPCが使えませんから一大事です。近隣の家電店やPC店を駆け足で回りましたが在庫はなく取り寄せもできません。仕方なくネットで買うことに。でも届くのは3日後。その間どうしようもないのか、仕事にならないよ、と落胆していると、ある店員さんが「タコ足じゃなくて壁のコンセントから直接つなぐと使えるかもしれませんよ」とのアドバイス。半信半疑で試したら、おっ、使える! これ、携帯の充電器などにも言えることらしいので、覚えておくと良いですね。

 一安心して、入荷したばかりのマウンパを着て自撮りしようと三脚をセットしたら、カメラがふらついて固定できない。ネジの締め過ぎで雲台にヒビが入ってたのは知ってたけどこれが完全に割れてしまっています。これは瞬間接着剤でも無理、諦めて買い替えよ、ヨドバシで買って翌日到着。

 郵便物の重さを測るのに秤に電池をセットしたらその電池がどうにも外せない。手元にあったボールペンの先を突いたら、アレレ壊れちゃった。お気に入りのジェットストリーム、これじゃないと嫌なので、急いで文具店へ。やっぱり横着しちゃ駄目だな。

 日本語の品質表示ラベルを新たにセーターに付ける必要があり、糸のホチキスみたいなハンドミシンを久しぶりに出してみたら、アレこれもうダメじゃん、ということでこいつは潔く買い替え。手動式は使えないとわかって電池式にして、知らない店からネットで購入。不安だったけど無事到着。

 家に帰ると、キッチンの蛍光灯、2列の一つが急に点かなくなった、と愚妻。グローと蛍光管を新品に付け直してもやっぱりダメです。しばらく1灯で我慢してもらうしかない。逆に漏電が怖いので、1灯状態から紐のスイッチを切り替えないように忠告します。

 さてさて、こうも続くと、次は一体何が壊れるのか、とびくびくしてます。今のうちは少額の小さなものなので事なきを得てますが、家の中を見回すといつ壊れても不思議でないものがごろごろしてます。エアコン、換気扇、洗濯機、冷蔵庫、などなど。40年前のものもあるんです。
 食物連鎖のように、小さいものから大きなものに続くよ、なんて脅かす人もいて、心配になってきました。全部買い替えた後に最後は地震で家が壊れるんじゃないか、なんて最悪のシナリオまで頭に浮かびます。その前に人間が壊れたりしちゃわないか、お祓いとかお清めとか、そんな馬鹿げたことまで考えている昨今であります。(弥)

倶樂部余話【436】色は色々 (2025年2月1日)


 色がどういう色に見えているのかはひとりひとり違います、だから色を伝えることはとても難しくて、色名を付けるのも腕の見せ所というところがあります。色はイメージで伝える。これです。

 あるトラウザーズ(スラックス)に利休鼠(りきゅうねずみ)という色名を付けました。そもそもこの色は光源や媒体や人の視覚によって様々な色に変化して映ることこそが魅力となる色だと思ったので、誰もが(日本語のわかる人に限られますが)同じようなイメージを浮かべられるような色名を探りました。多分皆さんネットで利休鼠を検索しますよね、いろんな画像が出てきて、ああこんな感じなのね、という共通のイメージが掴めるはずです。それでいいんです。

 できたばかりのフェアアイルセーターの色柄サンプルを見て、私が思わず発した「素晴らしい、まるでモネの絵画のようだね」との感嘆の声に相手の社長がニコッと微笑んだので、まんざら自分の思い違いじゃないんだな、と解釈して、この色柄(パターンとカラーリング)に勝手にモネ・ホワイトと名付け、さらに2つの色柄を選んでそれぞれにターナーとルノワールの名を冠しました。これはかなり共感を呼んだようで、気を良くして次冬用に新たな追加色を探して、これにゴッホ・イエローと名付けました。だって、ゴッホといえばイエローでしょ。

 モネ・ホワイトなんていうのは私の造語ですが、ゴッホ・イエローという言葉は美術界にはれっきとして存在する言葉らしくて、それくらいゴッホのイエローは特徴的な色なんでしょう。気になって調べてみると、実はゴッホはある種の色弱のひとつで、彼に見える黄色は我々の見る黄色とは少し違う色に見えていたらしい、というのです。ハンディキャプとパーソナリティは、後ろ向きか前向きかの違いでしかないんだ、と思います。

 そんな矢先、色のことでとっても悩まれて何度もメールでやり取りした末にアランセーターをご購入いただいたお客様から商品到着のメールが入りました。曰く「私は色弱なので平易な言葉で色の感じを伝えていただいてとても良く理解できました」と感謝されました。色はイメージで伝える。画像だけでは伝わらない、できるだけ言葉にして、ということの大切さを痛感しました。

 ちょうどBSテレビでは視覚障害と葛藤する写真家のドラマが進行中です。そのタイトルがTRUE COLORS。んー、どういう意味なのかな。正しい色なんてない、色は色々、人それぞれに見えてる色は違うのだから、あるのはただ真実の色(true color)だけ、ということなんじゃないか、と思うのだけど。

 ということで、今回は色についての話をしてみました。ではまた。(弥)