首都圏などのJRや私鉄の鉄道各社はこの春からバリアフリー料金として運賃に10円を加算して、ホームドアやエレベーター設置などの設備投資の財源にするのだそうです。この料金は認可制の鉄道運賃とは違って各社の申請だけで設定できる料金なので、簡単に値上げができるので、ていのいい口実なのではないか、との批判があるようです。そもそもホームに人が落ちるのは圧倒的に酔っ払いで、体調不良と歩きスマホがそれに続く原因、ということは、ホームドアがバリアフリー対策、ということ自体、なんかおかしいなぁ、と感じます。そう思うのには、私には、バリアフリー、と聞くと、必ず思い出す小さな経験があるからでしょう。
2002年、ということは今から21年も前、バリアフリーという言葉がまだまだ目新しかった頃のこと、デンマーク・コペンハーゲン空港での長い乗り継ぎ時間の合間に、できたばかりのオーレスン橋で国境の海峡を渡って対岸のスウェーデン・マルメの街歩きをしようと計画しました。
空港から列車で30分ほどで到着したマルメ駅はヨの字をした頭端式の駅舎で、自動改札機がズラリ並んでいました。そこで見た光景が忘れられません。すべての改札機が車椅子の通れる広い幅なんです。日本みたいに、車椅子マークの付いた改札機が端っこに一つだけあるんじゃなくて、全部がおんなじ幅広。普通に歩く人もベビーカーの人もキャリーケースを引っ張る人も車椅子の人も、みんな同じ改札機。差別や障壁など何もない、そうかこれがバリアフリーってことなんだ、と、目からウロコでした。
そのことに感動した私はそれからの2時間ほどの街歩きの間、バリアフリーということを意識し続けました。バスや列車の扉も車内の通路もどれも充分な広さがある。当然ながら車椅子マークみたいなものはどこにも見当たりません。トイレもそう。どの個室もすべて車椅子で入れるだけの広いものばかりなんです。ただ便座の位置がとても高くて足が付かないので、踏ん張れずに閉口しましたし、男子小用器も位置が高くて背伸びしても届かず、子供用を使うという屈辱的思いをしました。あ、これは余談ですが、もうその当時から、ハエの標的がプリントされていて、これはグッドアイデアだと感心しました。
つまり、バリアフリーっていうのは、特に何かを作ったりやったりするんじゃなくて、
どんな人も難なく使えるように最初からそれをスタンダードとして設計しておく、特別に後からお金を使って付け足せばいいってもんじゃない、という思想がスウェーデンという国には昔から根付いているんだろうな、と、気付いたのです。(後から、そういう設計のことをユニバーサルデザインと呼ぶということを知りました)
バリアフリーを充実させるにはもっともっとお金がかかるんです、だからそのために都市部の利用者に限ってお金を集めるために運賃とは別の値上げをするんです、という理屈、なんだか屁理屈にしか聞こえないんだけど、と、思ってしまうのは、こんな経験を持つ私だからなんでしょうか。(弥)
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倶樂部余話【412】映画「イニシェリン島の精霊 (原題 The Banshees of InishErin)」を観て(2023年1月27日)
映画「イニシェリン島の精霊」を観て
H様
この度は試写会にお招きいただき、ありがとうございました。滅多にできない体験をいたしました。以下、感想を書き連ねますが、評論家のようにうまくまとめることはできませんので、もし、媒体に使ったりすることがあるならばどう抜き出してもどうアレンジしていただいても構いません。お任せいたします。
架空の島という設定ですが、本土での内戦の砲弾の音や煙が間近に見えることやリズドゥーンバーナ(クレア県)の音楽学生がセシューンにやってきたりすることから、モデルとなった島はおそらくイニシイアに違いありません。もしくはパブが一件しかないならイニシマンかもしれませんが。ちなみに、これはアイルランドに詳しい者なら誰でも知っていることですが、イニシ(ゲール語でInis,英語ではInish)は島を意味しますので、InisOirは東の島、InisMorは大きな島、InisMeianは真ん中の島、を意味します。この3つの島をアラン諸島Oileain Arannといいます。INISHERINはInisErinですからエリン島ということになりますが、それでは響きが悪いのでユニゾンさせてイニシェリン島と邦訳したのでしょう。今さら言っても遅いことですが、しかし実際の聞こえ方はhはほとんど聞こえずイニシエリンですので、ユニゾンはしないで、ェは小文字でなくイニシエリン島のほうが良かったんじゃないでしょうか。インシュリンと勘違いされることもなく、またイニシエは日本語にも近いです。ついでに言うと、私が指摘いたしましたあのチラシのスペルミス(INSHIERIN)もこの言葉の成り立ちを知っていればすぐに発見できたことのように思います。まあ、今さら言っても仕方ないことですけれど。邦題を付けるのは大変ですね。
私に一番期待されているコメントは衣装についてのことでしょうから、まずそこから述べたいと思います。しかし、事前にいただいた資料からも、コスチュームを担当したエメ・ニーヴァルドゥニグEimer Ni Mhaoldomhnaighという女性(なんてアイリッシュなお名前でしょう)は高名なベテラン衣装デザイナーであるらしいし、また1923年当時のアランの島民の服装については当然に徹底的な時代考証をしているはずです。もちろん架空の島での物語ですから、何も当時の服装を忠実に再現する必要はないのです。この当時の実際の島民の服装は一言でいうともっとみすぼらしいものです。

1930年にイニシモアの映画撮影現場を訪れたある女優の証言によると「島の男たちは、皆同じようないでたちでした。手編みのジャージーセーターの上に、衿のない白いボウニィーン・ジャケットを着、足元に生皮のパンプーティ(サンダル)、腰にはカラフルなクリス・ベルトという風に。年配の男たちはフェルト製のつば広の帽子をかぶってました」。対して、今回のこの映画での衣装はもっとかっこよくなってますよね。そしてそれぞれの人間の立場や性格をうまく分けているなぁ、とも感じました。特にコルムの服装は象徴的です。バックルのあるベルトやジャケットやロングコート、これは現代の我々から見ると当たり前の服装ですが、明らかに他の島人の服装とは異なっていて、彼がもともとの島民でなく本土から移り住んできた男だということがすぐにわかります。ドハティという姓なのでドニゴールあたりの人かもしれません。
パードリイグの衣装で最も印象的なのは茜色のポロセーターでしょうか。

当時の島民のセーターは、男は紺色、女は茜色、というのがお決まりでしたので、この茜色のセーターはバードリイグのちょっと中性的な(女々しい?)性格を暗示させていたのかもしれません。またこのポロセーターのダイヤモンド模様は1937年に国立博物館で公開された女の子が着ていたアラン諸島のセーターがモチーフになっているものと思われます。他にも妹シボーンのちぐはぐな色合わせの安っぽい普段着など、島人にはちょっと派手めの色彩感覚があったことを象徴しているようでした。赤いコートにはタラブローチを付けてました。黄色いコートに付けていたブローチはクラダリングのモチーフでした。当時ではベタな流行遅れのものでしょうが、彼女の精一杯のおしゃれだったように感じます。

ひとつ面白かったのは、バンシーを象徴する老婆の魔女のような格好。これはペチコートを逆さまにしてかぶるアラン諸島独特のスタイルを取り入れています。そして紐の部分には、アラン独特のベルトであるカラフルなクリスが縁取るように縫い付けられていました。
私の専門はアランセーターですが、このフィルムにみなさんがよく知る白いアランセーターは現れてきません。先述した1930年の女優の証言はこう続きます。 「この当時は、アランの子供たちは、毎週日曜日のミサにセーターを着て臨んでいました。家族によってそれぞれ独自の柄が編み込まれたそのセーターは、すべて一点の曇りもない輝くほどに真っ白なセーターでした」と。つまりアラン諸島では白いアランセーターは子供が着るものでした。では大人の男は何を着ていたかというと紺色のセーターです。それもこの当時は今のアランセーターほど豪華な編み柄が入ったものではなく、ガンジーセーターに少しずつ柄の装飾が足されていった程度のものでした。柄が豪華になって大人の白いアランセーターが現れるのは1940年代に入ってからのことです。1920年代はいわばシンプルなガンジーセーターが豪華なアランセーターに昇華していく過渡期に当たる時期であったのです。その意味ではボードリイグがジャケットの下に着ていた紺色のセーターはそのガンジーではなかったかと推察できます。

もう一つ一瞬だけ映ったシーンを私は見逃しませんでした。港での場面、小さなフッカー(貨物船)に乗って荷受けをする若者が着ていたのが、上半分だけに編み柄の入ったちょっと明るい紺色のセーターでした。このセーターは、1918年に編まれたと言われるイニシマンに残された資料のセーターに大変良く似ています。このセーターを登場させた時代考証は完璧だと、感服いたしました。
さて、このフィルムのキャストに思いがけず知り合いがいたので触れさせてください。女性シンガーの役で透き通った美しい歌声を聞かせてくれたラーサリーナ・ニホニーラ(Lasairfhíona Ní Chonaola)です。ラーサリーナはイニシイア出身のシンガーで、イニシマン出身の父ダラとイニシイアの母パセラの娘。ダラはイニシイアの詩人・歴史研究家であり、資料室を併設した小さなクラフトショップも経営しています。20年以上前から良く知るファミリーで、私が販売しているアラン諸島のDVDにも登場し、素晴らしいシャーン・ノス(無伴奏の独唱)を聞かせてくれています。https://www.savilerowclub.com/clipboard/arandvd
こんなところでラーサリーナに会えるなんて思ってもみませんでした。
もう一つだけ、どうしても気になったことがあったので書かせてください。パブ内のシーンで何度も映っていたIrish Whiskyというパブミラーです。これ、2つの意味でおかしいんです。まずそのスペルです。アイルランドではウィスキーはWhiskey とeが入ります。だからScotch WhiskyはあってもIrish Whisky はありえない、これはIrish Whiskeyでないとおかしいんです。さらにパブミラーというのは普通はお酒の銘柄が入るものです。PADDYとかKILBEGGANとか。そういえばこのパブにはギネスの文字も見当たりません。ビール瓶にわずかにそのマークが見え隠れするだけです。お酒のブランドロゴがまったく見当たらないパブなんてありえません。つまり、このドラマがフィクションだということを暗喩したかったのではないでしょうか。それに気づいてほしくてわざとIrish Whiskyなんていうおかしなパブミラーを飾ったんじゃないか、そんな深読みをしてしまいました。
ストーリーについては、別の方からもいろいろと出てくるでしょうから、触れずに過ごします。気になったのは配給元の分類でこのドラマがコメディに所属していることです。コメディなんでしょうか。不条理劇のようにも思えます。では、一言でなんと言えばいいのか、考えてみました。アイルランドの男たちが送る大人のブラック・ファンタジー。
アイルランドを愛する人たちにぜひ観ていただきたい一作です。
(野沢弥一郎 (ジャックノザワヤ店主・「アイルランド/アランセーターの伝説」著者)
(追記)
上記は12月の試写会の直後に書いた評を一部だけ修正したものです。すぐにでも時点のブログなどに載せたいと思いましたが、公式リーフレットや公式サイトにこの評の一部が私の名前入りで掲載されることが検討されたため、拙評の公開も映画封切りまで控えてほしいとの要請がありました。本日、めでたく初日を迎え、私も書いたことに間違いがないかどうか確認の意味もあり、先程初回の上映を見てまいりました。ということでようやくにしてこの評をお読みいただくことができます。アカデミー賞大本命と言われている本作、ぜひ多くの方に鑑賞していただきたいです。(2023.01.27.記す)
倶樂部余話【411】マザーグースのおはなし(2023年1月1日)
謹賀新年。本年もよろしくお付き合いください。
四百話も続けていると、この話は前に書いたことあったかなぁ、と心配になることがあります。暮れに娘婿とテレビショッピングを何気なく見ていたときにもそう思って、
過去の話を検索してみたら、意外にもこの話はしてなかったんです。グースとダックの違い。はい、ダウンの話です。
ダウン(羽毛)にはグースとダックがあります。
グースgoose(複数形はgeese)はガチョウで雁(ガン)の仲間、主にユーラシア大陸の寒冷地に生息し、肉も食用に供されますが、よく知られるのは肝臓つまりフォアグラです。ダウンボールは大きく、特に成鳥のマザーグースになるとそのダウンボールは25mmを超えるものもあります。
対して、ダックduckはアヒルで鴨(カモ)の仲間、アジアの温帯域で飼育されます。卵はピータンですけれど、アヒルの肉なんて北京ダックぐらいしか食べたことない?、いえいえアヒルの肉は鴨肉と表示されるんです。鴨南蛮そばの鴨ですね。ダックはグースよりも体が小さいので、ダウンボールもグースより小さく、その分空気を含む能力も小さくなります。そもそも寒冷地に住むグースと温帯域に育つダック、どっちが寒さに強いかは自明です。決定的なのは、グースはほとんど無臭なのに対し、ダックは匂いがあり、濡れると特に強く出ます。当然、両者には大きな価格差があります。
ほとんどの羽毛製品にはダウン(羽毛)とフェザー(羽根)の混率表示はありますが、そもそものダウンがグースかダックかの明記はまずありません。グースダウンを明記することはあっても、うちはダックダウンです、なんていう不利を自分から告白するところはありませんから、つまり、うちはグースです、と言わない限りは、そのダウンはダックだと思っててほぼ間違いないわけです。テレビショッピングの画面の中では、かさ高の比較実験やフィルパワーの測定なんかを真剣にやってますが、そもそもそのダウンがグースなのかダックなのかははっきりしません。非難を恐れずに言わせてもらうなら、サッカーのプロリーグで優勝したって言うから、すごいねぇって思ったら、実はJ3だった、みたいなことでしょう。あるカナダの有名なダウンウェアはブランド名ではグースを名乗るのに中身はダックなんです。違法ではないですが尊敬できる企業態度だとは思えません。娘婿はそのことを聞いて大いに驚いてます。それを見ていて、これは一度ここ倶樂部余話で取り上げておかないといけないなぁ、と思った次第。
グースかダックかの他にも、その先にまだもっと評価の基準があります。先述のマザーグースかそうじゃないのか、これはダウンボールの大きさつまり保温性に影響します。最も重要視するのは洗浄です。洗剤やアレルギー物質が少しでも残っていたらアウトです。もうここで詳しくは言いませんが、当社が扱うフィンランドのヨーツェンが自らを世界最高品質のダウン、と自負するのには、そのすべての基準で頂点のレベルにある、ということを意味します。そしてヨーツェンほどリピータ比率の高いブランドは他にないのがその自負が嘘ではないことを物語っています。
最後に、ダウンウェアは羽根をむしり取るので動物虐待に当たるのではないか、という疑念があることに触れておきます。マザーグースの場合、その生涯で数回にわたり胸のダウンを手作業で慎重に紡がれます。毛皮のように素材のために屠殺するのではなくて、ウールのように何度も採集できるのがダウンですし、また食肉としての活用もありますから、虐待には当たらないと考えます。(弥)
倶樂部余話【410】試写会に招かれて(2022年12月1日)
さる11月20日に野澤屋は100歳の誕生日を迎え、先日第3世代の代表4人で集まり内々の祝杯を挙げました。これで約一年間続いたNZ100+JN50事業も一区切りです。皆様からは一年間にわたり数々の祝意のお言葉をいただきました。ありがとうございました。
閑話休題。過日雑誌に載った私のロングインビュー記事を目にした映画関係者から試写会のお招きをいただきました。映画には門外漢ですが、ちょうど出張の日に時間が空いていたので、いい経験だと思って伺いました。邦題「イニシェリン島の精霊」(原題The BANSHEES of INISHERIN)、1923年アイルランド西岸の小島イニシエリンを舞台にしたフィクションの物語です。
イニシエリンは架空の名前ですが、そのモデルは明らかにアラン諸島(のイニシイアもしくはイニシマン)。実際のロケもアラン諸島(イニシモア)で行われてます。そして私はその1920年代あたりのアラン諸島の服装や風習風俗にはちょっと人よりも詳しいんです。なぜならその頃というのはちょうどアランセーターの黎明期に当たるので、アラン諸島を取材した写真集や紀行文、博物館所蔵の画像、など、執筆のために25年ほど前に集めた資料が手元にたくさんあるんです。
私が招かれた理由も、また期待されているコメントも、きっとそのあたりのことなんだろう、ということは察しがつきますので、鑑賞後にそのへんの感想をだらだらと長文で書いて送ったんです、肝心のストーリーのことにはほとんど触れずに、勝手お構いなしに自分の気がついたところばかりを書き連ねまして、こんなマニアックな話、それほどに興味を持たれることもないだろうけど、せっかく招待してくれたんだし、でも内心、時間を掛けて書いた長文、これは12月の倶樂部余話にまるごと使えるなぁ、なんて甘い気持ちを持ちながら。
そうなんです、いきなり前置きなしで、その感想文を今月ここにベタッと載せるつもりでしたが、配給元から待ったがかかっちゃったんです。意外にも私の文章のウケが良くて、公式パンフレットや公式ホームページの宣伝材料として使うことになるかもしれず、とりあえず、封切日まではブログなどでの公開を控えてください、という連絡が入ったんです。
ということで今回の話はここまで。続きは映画封切後に。アイルランドに興味のある方には面白い話だと思います。ぜひご覧ください。(弥)
「イニシェリン島の精霊」は、2023年1月27日より全国公開。
静岡市でも静岡シネ・ギャラリーで同日より上映予定です。
(間違い探しです。このポスターには一つ間違いがあります。答えは次回当話にて)



倶樂部余話【409】野澤屋100周年ジャック野澤屋50周年を迎えてのメッセージ(2022年11月1日)
年頭の当話(倶樂部余話【399】と【400】を参照)から触れていますように、この11月20日で野澤屋創業100周年、12月1日でジャック野澤屋50周年、を迎えます。ですので今回は感謝のメッセージを述べて拙話とします。
まず、月並みな表現になりますが、野澤屋グループを100年にわたって支えてくださったお客様に深く感謝いたします。ひとりひとりのお客様ひとつひとつのお買い物の積み重ねによって100年を築くことができました。祖父、子、孫、の三世代すべての代表者に代わって厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
感謝したい最大の相手はもちろんお客様ですが、そればかりではありません。店作りに尽力いただいた建築や内装業者、包装資材、広告代理店、などの裏方にあたる人々、そして幾度となく窮した資金繰りをその都度救ってくれた金融機関も欠くことのできないパートナーでありました。感謝いたします。
さらに、特に次に挙げるふたつには格別の感謝の思いがあります。まず、仕入先です。実は創業時の祖父は同業者からの圧力にあい思うような仕入れができず窮した経験を持っています。たまたま創業直後に関東大震災が発生し身を挺して東京の仕入先の復旧に駆けつけたことから、信頼を得て窮地を脱したそうです。また何度かの経営危機も仕入先の破綻が遠因でした。私たちは基本的にものは作れませんから、仕入れをしないと商品が揃いません。おそらく100年間の仕入れ業者はグループ全体で国内外の数百社に及ぶでしょう。私たちのために商品を供給してくれた多くの仕入先には感謝に耐えません。
最後の感謝の相手、それは当社で働いてくれた従業員の皆さんです。大正11年から100年ですからその数が何百人になるのやら、全く想像もつきません。すでに鬼籍に入った方も多いことでしょう。私が知りうる人は百数十人にすぎませんが、長く勤めてくれた人もいればあっという間にいなくなってしまった人もしました。見事にキャリアアップに成功した人もいれば失意の中で退職せざるを得なかった人もいます。野澤屋で働いてなんの得にもならなかった、と後悔している人も多いのかなぁ。今でも私を恨んでる人だってきっといるだろうなぁ。100年経ってもこんなちっぽけな会社に過ぎなくて、ホントは「野澤屋に勤めてました」と堂々と胸を張って自慢してもらいたいのだけれど、多分そういう人種のほうが少数派なんだろう。だから感謝というよりもごめんなさい、の謝りたい気持ちのほうがとても強いのですが、ともかくともかく、あなたが野澤屋に勤めてくれてあなたの力を糧にしてこうして100年を紡いでこられたのです。感謝します。どうもありがとうございました。
この手のメッセージの結びは、これまた月並みですが、明日からは101年目51年目に向けてまた一歩ずつ前を向いて進んでいきます、という希望を述べるのが常です。しかし、先日の雑誌のロングインタビューでも本音を語ったように、後継者もいませんし、どんどん加齢を重ねてますので、まあ110年がせいぜい、120年はとてもとても、というところで、墜落しないで穏やかに着陸できれば御の字、実のところ一つの節目としてきた100周年を迎えてひとつ肩の荷が下りた、というのが本心であります。でも、淡々と、明日からも明るく働きます。よろしくお願い申し上げます。
こんな駄文をもちまして、NZ100+JN50記念のメッセージといたします。(弥)
倶樂部余話【408】令和4年台風15号(アジア名「TALAS」)(2022年10月1日)
今回は予定を変えて書きます。この度の台風被災について、触れないわけにはいかないからです。
静岡県に大きな被害をもたらしたあの台風から一週間。未だに被害状況の全容が掴めていないほどの大規模災害となってしまいました。具体的な被災事実については報道で繰り返し伝えられていますのでここでは詳しく述べませんが、48年前の「七夕豪雨」以来、というフレーズは頻繁に出てきます。1974年当時は私はまだ高校生で藤沢に住んでいたので、この静岡の七夕豪雨の様子を実際には知りません。なので、これほどの台風被害に遭遇したのはこれが生まれて初めてということになります。死者が一人も出なかったことが不思議なほどです。
原因は一つの台風なのに、河川等の氾濫、斜面の崩落、家屋の損傷、交通・通信の遮断、停電、断水、と、広い県内のあちこち、西から東、街なかから森林部まで、いたるところで違う形での被害が発生していることに驚きます。思えば、雨が降り風が吹き川が溢れ山が崩れ、そうして肥沃な土地が生まれ、そこに人は生活してきた。その地球の営みの繰り返しの中で、人は自然へ手を加えて便利な暮らしを進化させてきた、自然の力のほうが人の力よりも強い、ということを時々思い直さないといけないなぁと感じます。
月並みな言い方しかできませんが、被災された方々には心からお見舞い申し上げます。
また、一日も早い復旧をお祈りいたします。
私のところにも、県外はじめ海外からも「静岡、大丈夫?」とのお見舞いのメールや電話をたくさん頂戴しました。幸い自分のところについては、家屋も家族も無事で、深夜2時から12時間の停電で携帯もWiFiも通じず不安な時間を過ごしたことと、妻がたまたま新幹線で17時間の足止めを食らったことぐらいでして、他所様に比べれば極めて微細な被害で済みましたので、ご報告かたがた厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
ただ、情けないことに、私が何処かへボランティアで手伝いに行くわけでもなく、多額の義援金を拠出することもできません。そんな私のできることは、日常の生活を取り戻している身の上を幸いと感じて、日々与えられた職業を精一杯全うすることしかありません。仕事ができるという喜びを噛み締めて働きます。それが何よりの社会奉仕だと思うからです。ですので10月も通常通りの営業を続けます。
ところで、ホントは今回何を書きたかったの、って、ことですよね。はい、ちょっとだけ言いますと「国葬と朝ドラ」について「それ、どういうことなの」という言いようのない怒りをここでぶつけようか、と思ったんですが、ま、その話はそのうちいずれまた。(弥)
倶樂部余話【407】webShopは在庫一覧表でいいのだろうか(2022年9 月1日)
HPを見直しませんか、とか、ショッピングサイトを作りませんか、という誘いは電話やメールでしょっちゅうやってきます。
大概は無視してますが、先日某大手ショッピングモールから勧誘の電話がありました。「社長さんいますか」じゃなくて、会社名も私の名前もちゃんと言えたし、こういうモールって出店するとどうなるのかなぁ、ってちょっと興味もあったので、話だけでも、と聞いてみました。聞いてみてびっくり、結構固定経費がかかるものなんですね、相当の売上と利益がないとこりゃペイできないわ、と、実感。こんな虫けらみたいな店なのに声をかけてくれてありがとう、と、丁重に交渉をお断りしました。
もう一件、今度はwebShopを改善しませんか、という電話。ここも会社名と私の名前と当社のwebShopの下調べもできていて、加えて、営業のアプローチが極めてユニークだったので (これはその会社の独特の戦略だと思うのでここで教えちゃまずいでしょう)、ついその術中にはまって、契約してみてもいいかな、という気になってきたのです。何しろ今のwebShopには月々3,190円の固定経費しかかけていないので、効果が上がるなら多少お金が掛かってもいいとは思っていたんです。
でその具体的な作戦を聞くと、いわく、レビューのコメント欄をつけましょう、ポイント制度を設けましょう、検索の上位に上がる仕掛けを施しましょう、などなど、いくつかの提案をしてきます。つまり、みんなが買ってる人気の商品だから、あなたもぜひ買ったほうがいいですよ、という背中押しなんですね。ここで、私、なんだか目が覚めてしまったのです。待てよ、うちのwebShopはそうじゃないんじゃないか、いろんな検索ワードやうちのHPからたどり着いて、やった、ようやく欲しい物が見つかった、誰も知らない宝島を私は発見したぞ、と(ちょっと大げさかな)いう喜びを与えるのこそがうちのwebShopのあり方なんじゃないのか。
だんだん目が覚めてきたのです。原点に帰って考えてみます。webShopからの売上が上がることは必要なことなんだろうか。そうじゃなかったはずです。4年前に今の場所に移転して、広いスペースに商品を常時展示するということができなくなって、今どういう品物があるんだろう、欲しい色やサイズはあるだろうか、いくらなんだろう、というようなことがすぐに分かるような「在庫一覧表」、言い方を変えると、入荷ごとに紹介していくクリップボードの商品を、アイテム別、ブランド別に並べ替えて、現状在庫を反映させたサイト、これがうちのwebShopじゃないか。
ご存知のように、当店は、これください、はいどうぞ、みたいな簡単な売買を好みません。これください、に対して、それでいいですか、と、一緒に考えてあげるのが私の存在意義でしょう。だから、webShopに求めているのは、これください、の売上ではなくて、これ私にいいですか、の問い合わせ、なんですね。
うちのwebShopには代引きや振込などの他にもうひとつユニークな決済方法の選択肢があるのをご存じですか。ご来店、です。つまりweb上で取り置きができるのです。加えて、送料当方負担(送料無料という言い方は間違いですよ。運送会社に失礼です)にしているのは、静岡の店にご来店の人も遠方からwebShopで買う人も扱いは同じ、という考えにあります。
ですので、開き直っちゃいますが、当店のweebShopは在庫一覧表に徹する、ということで、しばらくは現状のままで進めてまいります。ただし、ここが重要、お客様が利用していて、ここが不便だ、ここは改善したらいい、というご意見はどんどん頂戴したいのです。業者の誘いには簡単に乗りませんが、お客様の意見には柔軟です。HPやwebShopについて、ぜひ改善へのご意見ご提案をいただきたいものです。(弥)
倶樂部余話【406】100周年でのアランセーターは。(2022年8月1日)
アランセーターで検索をかけると、当店の「アランセーターとは」というページがかなり上位に表示されることが多いはずです。特になんの対策も施していないのにこの結果は、私の書いていることが信頼されていることの何よりの評価なのだと大変嬉しく感じます。当店のHPの中でも飛び抜けてアクセス数の多いこのページをこのたび大幅に書き換えました。すでに気づかれた方も多いと思います。
どう書き換えたのか、ということを少しお話しします。今までは、アラン諸島の住人によって編まれたアランセーターを頂点に置いて、よりホンモノに近いものは何か、という尺度から、アランセーターを分類していました。しかし、もう本物偽物議論をしている時代は終わりました。どこで誰が編もうと、それがハンドであろうがマシンであろうが、それはすべてアランセーターです。本物も偽物もありません。世界中にありとあらゆるアランセーターが存在するのです。母や妻が編んでくれたたった一枚のアランセーターはたとえどんなに拙い技術のものであっても宝物の一枚ですし、アイルランド旅行で土産に買ったアジア製の安価なマシンニットもその旅人にとっては思い出の一枚です。つまりそれぞれのアランセーターにそれぞれの意義や価値があるのです。
多様性と一言で言ってしまえばそれまでですが、私の考えがここに至るには遠因と近因があります。遠因は気仙沼ニッティングです。発足前夜のキーパーソンである糸井重里氏や三國万里子氏のアラン諸島訪問については私もとっておきの資料や情報の提供に惜しまず協力したこともあり、かなり早い段階から注視していましたが、この気仙沼ニッティングには気付かされることがとても多かったです。本物とか偽物とか言ってること自体がナンセンスだと思い知りました。
近因、それはこの5月に訪れたゴルウェイウールGalwayWoolです。アイルランド原種の羊から採集した貴重なウールを使ってアランセーターを編む、という新しい発想が実現間近になって、従来とは全く異なる付加価値を持ったアランセーターが初めて世の中に出るのですから、それにふさわしいポジションを与えてあげたかったのです。
ということで、今年からの当店のアランセーターはとても多彩な顔ぶれです。ついでなので簡単に並べてみましょう。
☆ゴルウェイ・ベイ・プロダクツ…アラン諸島で編まれたアランセーター。2001年で販売終了。
☆クレオ…凝り凝り柄入りのハンドニット。2022年より販売再開。今後も少しずつ販売予定。
☆ゴルウェイ・ウール…貴重なアイルランド原種の羊毛でハンドニット。2022年より販売開始。
☆オモーリャ…優れた編み手によるクラシックなハンドニット。2022年で販売終了予定。
☆アランレジェンド…当店オリジナルのアイルランドのハンドニット。
☆ディスイズアセーター…山形・米富線維による技術の限りを尽くしたマシンニットアランを斡旋。
奇しくも野澤屋100周年ジャック50周年の今年2022年に、このようなアランセーターの集大成が実現するとは、喜びに耐えません。ここにいたるまでには実に多くの人が関わっています。感謝します。(弥)
倶樂部余話【405】きみの友だちYou’ve Got a Friend(2022年7月1日)
一泊で奈良へ行ってきました。大阪から入って、富田林市寺内町、大和郡山市稗田環濠集落、橿原市今井町八木町、宇陀市大宇陀松山地区、と、三つの重伝建(文化庁指定の重要伝統的建造物群保存地区)を含む古い町並みを一人で歩き回ってきました。奈良県は大学2年のとき吉野から熊野へ友人とドライブ旅行で抜けて以来40数年ぶり、雨でずぶ濡れになりましたがそれはそれで楽しい小さな旅でした。
そもそもなんで奈良なの、ということですが、奈良に住む76歳のA叔父に呼びつけられたからでした。私、親戚が多くて、おじおばが20人、いとこが2ダースもいますが、幼い頃からよく似ていると言われ続けてきたのが母の末弟のA叔父でした。8歳のころツイスト踊ってて火鉢のヤカンを蹴飛ばし足に熱湯をかぶった私をおぶって坂の上の病院まで駆け上がってくれた命の恩人でもあり、長じてはふたりとも大手アパレルRに大卒で入社(もちろん入社年も勤務地も違ってますが)するなど、縁の深い叔父貴です。同じくよく似ているといわれた私の母とその父つまり祖父が、ともに50代で早く亡くなっているので、きっと私も短命の血を継いでいるんだと信じているところがあり、いつしか11歳違いのこのA叔父が私の寿命を決めるんだろうなぁ、と思うようになっていたのです。
そんなA叔父が昨年肺の病で三途の川の淵をさまよいました。コロナの当時ですからだれも見舞いにも行けません。これでいよいよ私の寿命もあと11年なのか、と覚悟を決めましたが、幸いなことに体に合う薬が見つかり、奇跡の復活を遂げたのでした。後遺症もあってなかなか遠出はできません。で、電話がかかってきました。お前に会いたい、と言います。最初は、しばらく会ってないからそのうちまた会いたいねぇ、の社交辞令的なものかとも思っていたのですが、そのうち毎週のように電話がかかっくる、出国間際の成田空港にまで電話が来る。ヤイチロに会いたいから奈良まで来い、一体いつ来るんだ、と。なんだか理由はよくわかんないけど無性に私に会いたいらしい、と思ったら、そんなこと言ってくれる人ってなかなか他にいないよなぁ、と、今度は涙が出るほど嬉しくなってきて、海外出張後、最短で取れる旅程で奈良まで行くことになったという次第。美味しい奈良の料理を食べてカラオケ行って、夜遅くまで、他愛のない昔ばなしばかり、楽しい一夜を過ごしました。私の寿命ももう少し伸びることになるみたいです。Aっちゃん、長生きしてくれ。
きみの友だちYou’ve Got a Friendというキャロル・キングの歌があります。どんなときでも私を呼べばいい。春夏秋冬いつどこにいようとも、私はすぐにあなたのもとに駆けつけるから。知っててね、あなたにはそんな友だちがいるってことを。と歌います。こう言ってあげられる友だちを持ちたいし、こう言ってもらえる友だちでありたい。この世の中で自分にもそんな人がいるんだ、お前に会いたいから来い、なんて言ってくれる人がいるなんて、こんなありがたいことはない、嬉しいじゃないか、って、きっとこれから奈良漬を食べるたびに思い起こすんだろうなぁ。(弥)
倶樂部余話【404】アランセーターの新展開です。海外出張日誌から。(2022年6月1日)
例年1月のはずのアイルランド出張が、異例の初夏の出発、しかも6月のつもりがいろんな都合で急遽5月に前倒しになって、無理やりはめ込んだ日程。そしていつもなら展示会場を回るぐらいでほとんど移動はないのに、南へ北へ西へとバスの移動ばかり、初めて会う人も多くて、結果の予想もつきにくく、その意味でも異例でした。大げさに聞こえるかもしれませんが、今まで私がアイルランドそしてアランセーターに関わった35年間で積み重ねてきたネットワークの集大成が今回の出張に凝縮されたと言ってもいいでしょう。
何から話そうか、と、考えましたが、ともかく旅のメモ書きのように時系列を追うのが一番わかりやすいでしょう。
第1日(水)。成田発22時の最終便でドーハ経由でダブリンへ。
第2日(木)。昼過ぎにダブリン着、その足で街なかのクレオCLEOに直行。店内陳列の中からエラボレートアラン(elabolate=凝りに凝った)を、メンズとレディス合わせて10数枚チョイス。桁違いの価格になるけれどもすごいアランセーターばかり。夜はM嬢とN嬢にお礼の晩餐。スコッチエッグとチキンキエフ(=キーウ)。思えばまともなディナーはこの一晩だけ。
第3日(金)。早朝のバスで南下、キルケニー県へ。美しい山間水運の町グレイグナマナのクッシェンデールを20年ぶりに訪ねる。フリース(羊の原毛)から製品までを一つの建物で一貫生産する今では貴重なミル。アイルランド原種のゴルウェイシープで織った新柄のブランケットを、特別なサイズで別注。午後はそこから30分のドライブで、べネツブリッヂのニコラス・モスのファクトリーへ。サンプルの受け取り、工場見学、も大事だけれど、今後のコストアップへの対応について、ニックと協議。帰りのバス待ち時間にニックが付き合ってくれて、森の中に広がる彼のプライベートガーデンを案内してもらう。よく歩いた。夜にバスでダブリンに戻る。バタンキュー。
第4日(土)。早朝、トランク引いて市バスに乗り、空港近くのクリニックでPCR検査。また市バスで空港まで進み、高速バスに乗り継ぐ。昼過ぎアイルランドの西の中心都市ゴルウェイのコーチステーション着。コインロッカー使用中止で、土曜日でごった返す人混みの中、トランク引いてオモーリャの店へ。アン・オモーリャは思いのほか元気だが、足は痛そうでちょっと辛そう。店には次々と客が入って来るので、勝手にセーターを選ぶ。店内の商品数自体は豊富だが、私の目に適うアランセーターは少ない。秀作10枚を選び風呂敷に包んで店の隅に隠すように置いた。店内でモーリンの娘さんノリーンに会う。こんな偶然ってあるのか。昨年米富繊維と実現したモーリン愛のセーターのことを報告、墓前に知らせてと依頼できてよかった。
重たい荷物を一旦B&Bに置いて、昼過ぎまたバスに乗る。目的地はゴルウェイの南東バレン高原の外れに位置する小さなビレッヂ、アルドラハン。バス停の真ん前にある小さな店アイリッシュ・ファイバー・クラフターズのサンドラに会うために。サンドラを紹介したのは後述するGalway Woolのブラトネイド。細い糸と細い糸が増殖していく感じ。Galway Woolで編んだアランセーター、というとてつもない難題を実現する鍵を握っている。2時間の熱い会談は楽しく過ぎて商談成立。秋には、世界でも数少ない貴重なアランセーターが数枚だけ日本へ届く手筈となった。ウキウキでまたバスに飛び乗りゴルウェイに戻る。夜9時だというのにまだ明るい。これが余計に感覚を狂わせる。フィッシュ・アンド・チップスで腹ごなししてサタデーナイトのパブでトラッド音楽でも、と、街に繰り出したが、サバのフライが口に合わず降参。パブも人が多すぎて確実に密。もちろん皆さんノーマスク。さすがに怖くて入れない、宿に退散。長い一日だった。
第5日(日)。ゴルウェイから東へ40kmのバリナスローにあるGalwayWoolのファームに行くのが本日の目的。バスで向かうつもりだったが、宿まで迎えが来ていた。ありがたい。会いたい女性は、ブラトネイド・ギャラハー。今回の出張の最大のキーパーソンだ。肉食用のために飼育されてきたアイルランド原種の羊(Galway sheep)、そのウールに着目し、Galway Woolとしてブランド化、40の小規模ブリーダーを組合組織化し、今年ようやく一般への販売がスタート、という、その仕掛け人、ブラトネイドはアイルランドの輝く女性として注目の人物だ。彼女とつながることから、新しいアランセーターの芽が生まれるのではないか、と、思い立ち、ここまでたどり着いたのだった。当日のファームのゲストは私だけではなかった。スペイン政府から派遣されてきた地方農政の視察団10数組の夫婦が体験ツアーにやってきて私はその中に混ざることになった。羊の毛狩りショーなどファームも視察団を懸命にもてなし、その間、私は彼女の夫ナイルからブラトネイドがいかに熱いパッションを持ってこの事業に取り組んできたのか、詳しく聞くことができた。私のことも日本からのアランセーターの専門家の表敬訪問と視察団に持ち上げてくれて恐縮。
送迎したくれるコナーがうちに寄ってお茶でも飲んでって、俺が飼ってる18頭の牛にも会ってってよ、と、誘う。断れないよね。教会帰りのおじいちゃんや生まれたて6週間の赤ちゃんなど大家族の中でのお茶はアイルランド人のホスピタリティを再認識。列車の時間待ちに美しい古都アセンナィを街歩き、そのときにクリニックからメールが入り、PCR陰性の報。良かった、帰れる。鉄道でゴルウェイへ戻る。すべてのミッション終了。タイの焼きそばパッタイとギネスで一人祝杯。
第6日(月)。早朝ゴルウェイから3時間の高速バスでダブリン空港着、搭乗5時間前。チェックインの前に、再び市バスでクリニックへ往復、日本専用書式の陰性証明書をもらう。これで入国準備OK、アプリmySOSは緑色になった。出国のセキュリティチェックはとても厳しく長蛇の列。お土産買ってラウンジで一息。ようやく搭乗。深夜ドーハ着。
第7日(火)。ドーハでのセキュリティの際、腕時計をトレイの中に置き忘れた。無事に発見できたが、乗り継ぎ時間が短くて大慌て。成田行きはガラガラで久々の4席占拠。18時成田着。抗原検査に2時間半、検疫、入国、税関、を通り抜け、WiFiを返却し、電車に飛び乗り、最終の新幹線に間に合った。静岡帰宅。ただいま、です。
自分でも気が付かないほど相当疲弊していたらしく、翌日からお腹が痛くなり、腸炎で胃カメラ、というおまけまで付きました。もう元気です。(弥)