倶樂部余話【398】ドキュメンタリーのことなど(2021年12月1日)


 前話での予言どおり、先週の3日間はビートルズGet Back に浸かり切りました。
50年前のものとは思えないクリアな映像と音楽、延べ8時間弱、初めて知ることに驚きと感動の連続で、生きててよかった、と、大げさではなく、ほんとにそう思いました。

 その興奮冷めやらぬ日の朝、新聞広告で雑誌ブルータスがまさにこのget backを表紙にしてドキュメンタリーの特集を組んだと知り、早速購入。そうか、自分はドキュメンタリーとかノンフィクションとか、そういうものが好きなんだと改めて実感した次第です。

 そのブルータスでも少し触れられていますが、ドキュメンタリーの始祖と呼ばれるのが、アメリカのロバート・フラハティ監督(1884-1951)。その代表作こそ映画「アラン(原題はMan of Aran)」(1934)で、2年間で6万メートルのフィルム、と時間と費用をふんだんにかけて撮られたこの作品は、アラン諸島の人々の厳しい環境での日常を淡々と映し出し、異例の大ヒットを博します。アイルランドの西の端にアラン島というものすごい秘境がある、と、知られることになったのはこの映画のおかげです。今でも島のビジターセンターではこの映画は常に上映されていて、島の人達はこの映画を誇らしげに「ザ・フィルム」と呼んでいます。アランセーターが欧米に普及するのにこの映画の知名度が役立つたことは言うまでもありません。あの神秘の島から来たセーター、そう思われたのです。このフィルムとアランセーターの関係については自分の本にもかなり詳しく書きました。

 最新の話題作ビートルズと最古の名作アラン、またしてもこの2つがドキュメンタリーという言葉で繋がりました。そして日本で長年にわたりドキュメンタリー映画祭を開催しているのが山形なんです。はい、山形ともまた繋がりました。

 その山形で作ったモーリン・愛のアランセーター、発売以来好調な滑り出しのようで一安心してます。そのセーターに付属される小冊子のために書き下ろした私の原稿「モーリンに捧ぐ」がwebでも読めるようになりましたので、ここにリンクを張っておきます。読んでください。

 アラン、ガンジー、シェトランド、フェアアイル(フェア島=シェトランド諸島の島のひとつ)、どれもセーターで知られる島の名前ですが、ここへ来て、なんだかシェトランドとフェアアイルが、やきもちを焼いているような気がしてきました。ガンジーやアランばかりを取り上げて俺たちのことを忘れてないかい、と。そんなことないよ、納品が遅いからだけなんだよ。

 ということで、遅れていたセーターが到着です。フェアアイルは、異なるパターン(柄の組み合わせ)が無限に続くインフィニティと名付けた、よそのどこも(多分)目をつけていない当店独自の発注品、シェトランドは、従来からの純正シェトランド種の産毛を使いますが、厚さも色も今までとは異なる新ネタを仕込みました。どちらもほかでは入手困難な自信作。忘れてなんかいないからね。(弥)

倶樂部余話【397】ビートルズとアランセーター(2021年11月4日)



中学の頃、つまり1970-73年頃の話。生徒会活動に明け暮れていた私の週末は、天気が良ければ鎌倉の史跡をしらみつぶしに回り、雨が降ると映画館に入り浸る、というのが常でした。
江ノ電の古い駅舎の近くの映画館「フジサワ中央」はいつも洋画の3本立てで、その組み合わせは、例えば「ある愛の詩」に「栄光のル・マン」とか、「小さな恋のメロディ」に「トラトラトラ」とか脈絡がなく、そして3本目に幾度となくかかっていたのが「Let It Be」と「Elvis on stage」でした。だからこの2つの音楽映画は何度も観ることになったわけです。入れ替えなしの館ですから一日に二度観ることもできました。

当時の私は吉田拓郎に憧れてギターを始め同級生と一緒にフォークソングを歌っていたところで、洋楽のことはエルトン・ジョンとジョン・レノンの区別もつかないほどにまるで無知でした。なので私にとって最初のビートルズは、アルバムLPではなくてこの映画「Let It Be」であったのです。多くのビートルマニアが自分にとっての最初のビートルズを記憶しているでしょうが、私のようなケースは稀なんじゃないかと思います。このフィルム、解散寸前のメンバーの不仲な様子が伺える暗い記録としてビデオ化もされず映画としての評価はよろしくないのですが、私にとっては、メンバーが子供みたいにはしゃいだり、つまらないことで喧嘩になったり、全然合わないミスばかりのリハーサルを何度も繰り返したり、と、「なんだ、ビートルズも俺達とそんなに変わんないじゃん」とものすごく身近に感じられたのでした。いやはや今思うとなんとも不遜な感想ではありますが。

つまり私は幸運にもビートルズ現役時代の最後の最後のけつッペタにかろうじて間に合ったわけでして、そこから遡るように聴き込むようになります。挙げ句、中3の文化祭のステージ、生徒会長として開会宣言をした直後にエレキを持って♪Don’t Let Me Down♪を絶叫する私がいたのでした。

そんな私にとって特別なこの映画ですが、当時残された膨大な撮影フィルムが新たに編集されて、この度6時間にも及ぶ全く新しいプログラムが「Get Back」としてまもなく世界同時公開されることになりました。今月下旬の3日間にかけて2時間ずつ配信されるらしいのですが、もう楽しみで楽しみで多分その3日間は仕事にならないんじゃないか、と今から申し上げておきます。

で、今月の楽しみといえば、はい、前回当話でお知らせした、モーリンのアランセーターの復刻品がいよいよ11/15に発売です。それに関連して先日あるメンズファッション雑誌から一日かけての取材を受けました。業界紙も購読をやめてファッション雑誌もほとんど買わない、向かいの本屋さんが閉店してからは立ち読みすらめったにしない、という私が、そんな何ページも雑誌に載っていいのか、と思いますが、2011年と2012年に続けて大きく誌面に登場して以来、約10年ぶりの雑誌掲載です。毎回おんなじアランセーターの話ですが、10年経つと読者が一巡してとても新鮮に映るようです。どういう感じで出るのかはまだわかりませんが、11/15に書店でお確かめください。(弥)

写真は、先日の取材の風景と、過去(2011年と2012年)の特集記事。過去の記事の反響はとても大きいものでした。

倶樂部余話【396】A SWEATER IS LOVE (セーターは愛)(2021年10月15日)


(この話は倶樂部余話第391話(2021年5月1日)から続きます)

 2020年1月4日、モーリンは85歳で天に召されました。

 私がアランセーターのすべてをまとめた本を書くぞ、という気持ちを強く持ったのは、心の父とも呼べるバドレイグ・オシォコンの逝去がきっかけでした。パドレイグの功績を日本語で残しておくこと、それが私に託された彼の遺言のように思えたのです。彼の死後7年掛かってようやくその遺言は果たすことができました。さて、心の母、モーリンが亡くなったとき、私に課せられた使命はなんだろうか、と考えました。もちろんモーリンの人となりを伝えていくこともそうでしょう、しかしモーリンはニッターです。ならば彼女の編んだアランセーターそのものを広く世の中に伝えていくことはできないだろうか。モーリンという素晴らしいニッターがいたという記憶を多くの人に残しておけるような。でも一体どうしたらそれができるのだろう。

 そんなときに一人の男が静岡の私の店に訪ねてきます。アランセーターの話を聞かせて欲しい、と。米富繊維の大江健さんです。彼とは一度だけ数年前に東京の大きな合同展で会ったことがあり、そのときも山形で意欲的なニットの提案に取り組もうとしている様子を高く評価したことは覚えていましたが、それきりでその後に交友があったわけではありません。ですが、彼の方はその後も私の「アランセーターの伝説」を熟読し、いたく感動してくれたようでした。
何度かの面談や電話でのやり取りの後、彼が言います。「新しい考えで取り組んでいるブランドTHISISASWEATERの次の作品にアランセーターを考えてみたいんです。協力してくれませんか」。同時に具体的にいくつかの提案も出してきました。どれもいいアイデアでした。が、それを聞いた私の頭の中にむくむくと一つのアイデアが湧き上がってきたのです。
 「モーリンに編んでもらった特別の一枚。私が毎年クリスマスに着るこのセーターをかつては自分の死装束にしようかと考えていました。でもそれではゴッホのひまわりを私の棺に入れて一緒に燃やしてくれ、といったどっかの製紙会社の成金社長と同じ愚行になってしまいます。これは独り占めするものではない。今ゴッホの名画を美術館で多くの人々が鑑賞できるように、この特別な一枚も多くの人に愛ででもらうことができたらいい。たった今私にはそんな夢が浮かびました。このモーリンのセーターをマシンニットで複製できたら素晴らしいじゃないですか」。

 やってみます、と引き受けた大江さんでしたが、正直言うと、このときまだ私は半信半疑でした。世界一の編み手による最高レベルのハンドニットがマシンニットにそうやすやすと再現できるはずがない、諦めてくるかもしれないなぁ、と。実際最初に出来上がったサンプルを見せてもらったときには、やっぱり無理なのかなぁ、と落胆もしました。さらに数ヶ月、幾度となく繰り返された試行錯誤の後、新しいサンプルが出来上がったというので、山形まで出掛けました。

 いや、驚きました、詳しいことは企業秘密に属することでしょうから話せませんが、従来マシンニットでは再現不可能と言われていたいくつかの柄も見事に仕上がっているではないですか。工場の皆さんからもここに至るまでの苦労話をたくさん聞かせてもらいました。マシンニットもすごい、米富繊維さん、ありがとう。夢のような話をお願いしてよかった。セーター、っていいよね。ゴッホやモネの複製画を部屋に飾るように、モーリンの特別な一枚をひとりでも多くの人にシェアしてもらえたら幸せです。天国のモーリンもきっと喜んでくれることでしょう。

 モーリンの愛のセーター、いよいよ発売です。(弥)




 この商品についての詳細については下記リンクをご覧ください。

THIS IS A SWEATER.アランセーター_compressed

ご購入ご希望の方はこちらまでご連絡ください。

 

倶樂部余話【396】の序(2021年10月1日)


 今話は5月に書いた余話第391話「アランセーター、ライフワークの終活」の文末「そんな矢先、一人の男が静岡の私のオフィスにやってきます」からのその先を書くつもりで、原稿もほぼできています。この話の続きとして一つの商品開発に至ることになるのですが、発売前でまだその話ができない状況にあります。
情報公開解禁と発売開始があと2週間後の10月15日の予定となっていますので、そのときになりましたら、原稿をここにアップいたします。
もうお伝えしたくてたまらない気持ちでうずうずとしているのですが、どうかもうしばらくお待ち下さい。(弥)

倶樂部余話【395】五輪、難民、欧州、日本(2021年9月1日)


 30年以上も毎月こう書いていると、私にとっては日記みたいなところもあって、五輪についてもう一度触れておこうと思います。

今度の五輪で一番印象に残ったのは男子マラソンのゴールシーンでした。「ゴールが見える最後の直線に、2位を争う3人が接戦でなだれ込んでくる。チェロノ(ケニア)、ナゲーエ(オランダ)、アブディ(ベルギー)の順。ナゲーエがスパートで2番手に浮上、そのまま前だけ見てゴールに突進するのかと思うと、違った。必死で走りながらも後ろを振り向き、右手でアブディに「来い! 来い!」というしぐさを見せる。吸い込まれるようにアブディは3位に上がり、チェロノを抜いた2人がそれぞれ銀メダル、銅メダルに輝いた。」(朝日新聞)。

 二人は同じソマリアの難民で、来日直前までフランスで一緒に練習してきた先輩後輩同士でした。心の手つなぎゴールともいえるシーンでしたが、私が強く感じたのは、オランダとかベルギーとかフランスとか、欧州の国々がアフリカや中東の難民を受け入れて自国民として五輪のメダリストという栄誉を取らせる、その懐の深さでした。欧州に流れ込んだ難民の数は凄まじいものになっています。様々な軋轢が当然あるのでしょうが、なんだかんだ言って受け入れているのはやっぱり尊敬に値するなぁと思うのですね。そうそう、ポーランドもベラルーシの女性選手の亡命を受け入れました。それから、ミャンマーの代表選手が自国の軍政を支持しないという抗議の意志から不参加を決意したのも命がけの勇気ある行動だったに違いありません。

 片や我が国。名古屋の入管はスリランカ女性を虐待死させ、国後島から決死の覚悟で泳いできた亡命希望のロシア人を本国に突き返してしまうそうです。難民とか亡命とかに対してあまりに酷い消極性です。
 五輪の閉会を待ってたかのように、タリバンがアフガンを制圧し大変なことになってます。日本の大使館職員は自分たちだけ英国機で真っ先に逃げ出しておいて、間抜けなほど遅れてやってきた自衛隊の救援機はたった15人を救っただけと報じられています。難民という言葉を真ん中において欧州と日本を対峙させたときなぜこうも違うのか、ものすごく恥ずかしい気持ちになるのは私だけでしょうか。

 なんてことで、8月が終わりいよいよ9月、秋冬モノのスタートで、いつもながら9月1日は一年の始まり元日のような気分です。まさかまだコロナがこれほど続くとは思いもよらないことになってますが、そのハンディは私だけではない、条件はみんな一緒ですから愚痴はこぼせません。この12月には個人的ながらWhen I’m sixty-fourを高らかに歌う日がやってきて、さらに来年11月野澤屋創業100周年と12月ジャック野澤屋の50周年。自分の頑張りのひとつの指標としてきた創業記念がだんだんと迫ってきます。開店35回目の9月、また長い一年が始まります。どうぞよろしくお付き合いください。(弥)

倶樂部余話【394】いつも8月に思うことをいつも以上に思うのです(2021年8月1日)


 五輪の開会式、選手の入場行進を観ていると、時々無意識にぼそっとつぶやいる自分がいます。
「ロメ」とか「ヌアクショット」とか。そのたびに家人が不思議な顔をします。
はい、小国の首都の名前が反射的に口に出てしまうんです。
地理大好き少年が小学生の頃に覚えた世界中の国と首都の記憶が時々よみがえってきます。
1960年代は特にアフリカの植民地が次々と独立する建国のラッシュでしたが、
その頃に小学生のくせに日本国勢図会(にほんこくせいずえ)なんか手にして
親友のシンちゃんと一緒に片っ端から覚えていった、そんな記憶の名残りです。

 でもがっかりなのは首都がわからない国があまりにも多いこと。国名すら知らない国もあります。
それもそのはずで、前回1964年の東京五輪の参加国地域は94カ国。それでもその当時はすごい数だと思いましたが、それが今回は205ですから。
つまり、57年前のときの倍以上、204もの国々等の人たちを今我が国は迎え入れている、
日本はその責任を担っているんです。

 五輪とコロナと猛暑、8月はこの3つが恐らく同時にピークを迎えます。
この時期に批判や非難など意見をいうつもりは全くありません。そういう気にもなれません。
なるべく気持ちをフラットにして、わざわざこんな所まで来てくれた204カ国のアスリートたちにベストなパフォーマンスを発揮できるようにあってもらいたいと願うだけです。

 校風とか社風とか県民性とか、人は一つの集団を一つの性格でまとめようとします。
ステロタイプ(ステレオタイプ)とか言うそうですが、その最たる例が国民性なんじゃないかと思います。
五輪観ててもそう思ってしまうところ、ありますよね。
中国人らしいよね、とか、ドイツ人だからね、とか、ほらやっぱりアメリカは、とか、無意識の中でそう言ってることがあります。
そういう中で海外に行って向こうの人達と話をします。
私「一体アイルランドはアメリカのトランプ政権をどう思ってるのか」相手「そういうけど、じゃ日本は中国にあれだけ好きなようにされて一体何をしてるんだ」なんて議論をすると、
お互い自然と自国に肩入れをし、自国の弁護側に回ってしまうのです。そう、まるで自国を代表しているか、のように、です。
だから実は怖いんです、今度の1月にアイルランドへ行ったときに、彼の国の友人たちから「ジャックは今度の東京五輪についてどう思うのか」と必ず聞かれます。
そのときに私は国を代表するようにどんな考えを言えたものなのか。軽蔑はされたくない、多少とも尊敬される国でありたい、そう願っているのですがさてどんなものでしょう。

8月は自分が日本人であることを一番自覚する月だ、と前にもそんなことを言ったことがあります。
そして、今年の8月はいつもの年以上に日本人である自分を意識せざるを得ない、そんな月になりそうです。(弥)

倶樂部余話【393】景観100年計画の町並み、山形県金山町(2021年7月1日)


 今山形市近郊にあるニット会社の商品企画にちょいと首を突っ込んでいまして、先日定休日を利用して山形まで一泊で出掛けてきました。
例によって私の時間貧乏で欲張りな習性が働いて、せっかく山形まで行くんだから、帰りにどっかへ寄ってみたいなぁ、と候補地を探すことに。
まずおなじみの文化庁の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)の一覧をあたってみると、全国101市町村ある重伝建の中に意外にも山形県は一つもないのです。
山形には美しい古い町並みはどこにも残ってないのかな、とちょっとがっかりしながら、日本中の古い町並みを探訪している旅人たちのブログから山形県をあたってみると一ヶ所だけ飛び抜けて高い評価を得ている町並みがありまして、それが金山町というところでした。
ウィキペディアによると「金山町(かねやままち)は、山形県北東部にある町。最上郡に属する。町域の4分の3を占める森林からの金山杉と、白壁を用いた「美しく古びる」を目指した金山型住宅、また石造りの大堰(おおぜき)と呼ぶ農業用水路には錦鯉を放流するなど、景観施策に意欲的な町として複数の町並みコンクールにおいて受賞実績がある」とあります。さらに調べてみると、これがどんどん興味が湧いてきて、果ては本まで取り寄せてしっかりと予習までして出掛けることになりました。

 事前にレンタサイクルを手配しておきたかったので、町役場の観光課に問い合わせると、地元の金山型住宅の建設会社を紹介され、そこが観光案内所と古民家カフェを兼ねているのでした。
滞在時間が2時間しかないんです、と告げると「じゃあ、お勧めルートを作っておきます。どこか特に行きたいところはありますか」というので「できれば火葬場を」と答えるとしばらくして電話があって「当日は友引で火葬場は休みですが、お越しになられる時間に職員が待機してご案内します」との連絡。さらに当日は地域おこし協力隊の若い女性職員まで同行してくれたのです。
そして「建築関係の方なんですか」と私に聞きます。この質問はその後現地で何度も聞く言葉でした。観光地でもない小さな森の中の町、平日の昼間に年配の男性がひとりで町をうろうろしていることに街の人達がなんの違和感も感じていない、その多くは建築関係か町づくり関連の人たちなんでしょう、その人たちを誇らしげに迎え入れてくれる地元の人々、子供からお年寄りまで、おらが町の美しい景観を将来に渡って育んでいこうという共通した高い意識がこの町には根付いているのです。

 2時間、町を隅々まで自転車で回りました。町の様子は本の表紙に載っている数々の写真で充分わかってもらえるでしょう。その根底にあるのが1983年に策定された「街並み景観づくり100年運動」です。東京藝術大学建築科の3人の専門家を引き込んで、官学民が力を合わせて地道に続けてきた街並みづくり、それが40年経ったのが今の姿でこのプランはまだこの先60年続くのですが、もうすでに何が古くて何が新しいのかがわからなくなるほどにすべてが町並みに馴染んでいます。過去を保存するのではなくて過去の上に現在を重ねて未来へ発展させるのですから、きっと重伝建とは考えが異なるのでしょう。選定から外れるのも無理のないことです。
1983年(昭和58年)といえばバブルへ向かって突き進んでいた頃、スクラップ・ビルドが謳われていた時代に、今の言葉で言うところのサスティナブルなデザインシティのガイドラインが作られていたとは、その先見性にはもう脱帽です。この町にはゆるキャラもB級グルメもアミューズメント施設もありません。100年運動は観光のためのプランではないからです。火葬場には道案内も看板もなく町外れの鎮守の森の中にひっそりと隠れていますが、町民のための施設なんだからそれでいいのです。その静かな態度が静かな観光客を静かに集める、それでいいのです。

 この発想はどこから生まれたんだろう、という方に興味は移っていきます。なぜよその町ではなくて金山町に。1970年代高度経済成長の頃、大都市に出稼ぎに出ていた男たちが都会で見てきた欧州風の派手な家を建て始め、町の中でひときわ目立つようになってきて、それを当時の町長がとても憂いて地元出身の藝大の建築学者に相談した、というのがきっかけだったようです。
この町長は金山杉の林業の人。そして金山杉は樹齢80年を超えて初めて売り物になるというとても気の長い相手。なぜ10年ではなく100年計画なのか、それは林業が100年単位の仕事だからなんでしょう。ちょうど今の朝ドラ「お帰りモネ」は宮城県の林業と漁業の話で、林業が人間の寿命を超えたとてつもなく気の長いプランに支えられた仕事だということがよく分かります。
この金山町の100年計画はさらに遡ること100年前の杉の植林のときに張られた伏線の回収だったとも言えるのです。そして江戸時代に始まった金山杉の植林にヒントを与えたのが静岡県の天竜林業だったと聞くに至って、こんなに昔に静岡と山形がつながっていたと思うとなんだか嬉しくなってきてしまいました。

 今度は夜の景色も見たいし、深い雪に閉ざされた冬の町も見てみたい。また来たい、とお世辞抜きに思えるところは案外少ないものなのですが、私の中で、また来たい度No.1の古い町並みになりました。美しい景観の町、山形県金山町。ぜひ一度訪れてみてください。(学校や火葬場などの内部見学は必ず施設の許可を得て入場してください) (弥)

参考文献は、「金山町-中心地区-街並みづくり100年計画」 (2020年3月)。
なお、ちょうど今月(2021年7月)に新刊「町と祭-山形・金山-井浦新写真紀行」が同じく求龍堂から発売され、まもなく手元に届きます。

(追記)2021.7.10. 俳優・井浦新が撮った金山の写真集(サイン入り)、ポスター付きで今日届きました。拙稿のたった10日後にこんな本が出るなんて偶然にせよ、嬉しいです。

倶樂部余話【392】靴について思うこと(2021年6月1日)


 その昔、今から20年ほど前になるでしょうか、アイルランドのとある靴の工場に伺いました。デザートブーツで知られるブランド靴の生産をしていたところです。隣接するファクトリーアウトレットを覗くと人気靴のB級品が大量に投げ売りされていたのです。どうして、と思って見てみると理由はすぐに分かりました。左右で革の表情がまるで違っていて、片方だけがすごいシワだらけなんです。日本の店の値札が付いたままでしたので納品したのに全量が不良品として返品されたんでしょう。よくもまあこんなひどい品物を堂々と日本に出荷したもんだと呆れたものでした。

 靴業界の人から聞いたことがあります。「靴のすごいところは、必ずおんなじものを2つ作らないといけない、ってことなんです」確かにそうです。しかもその素材は革です。布は機械でいくらでも同じものが作れますが、天然皮革は一枚一枚がまったく同じではなく、しかも取る部位によっても微妙に異なります。つまり正確に言うと左右の2つは決して同じではないのに、同じものだと言えるレベルにまで引き上げなければいけないわけです。

 縫製にしても実は左右は同じではないのです。だいたい機械というのは右利きの人向けに作られていますが、この同じ機械で左右の靴を同じように縫い付けるとどうなるでしょう。例えばどちらも時計回りに底付けしたとすると、結果として左右の靴は反対の方向で底付けされていることになるのです。これは服の袖付けでも同じことが言えます。ちょっと左の肩を見てください。左脇の下から時計回りに背中へ向かってぐるり一周袖と肩が縫い付けられていると仮定します。今度は右の肩を見て、右脇の下から同じく時計回りにぐるりと目で追ってみると、ほら、左と逆方向になりますよね。このようにすべての服は袖付けのミシンの方向が左右で逆なんです。でもよっぽど粗悪な品でない限りその違いが表に出ることはありません。それは服だからです。靴には体重何十キロもの負荷が掛かりますし、しかも例えば右の踵だけがよく減る、といったように人の両足は決して均等ではありません。それでも左右おんなじ、と思ってもらえるようにしないといけないのが靴なんです。

 サイズもにしてもそうです。服で5ミリの違いは誤差の範囲で許されますが、靴で5ミリ狂えばひとサイズ違うことになります。足は移動のためのかなり大切な器官なので異常があるとすぐに脳が感知できるようにとても敏感にできていて、わずか5ミリの違いも感じ取ることができるのです。

 ね、靴ってすごいですよね。反面、気の毒だな、と思うところもあって、そのひとつが地位の低さです。江戸時代の藩主と御用商人の親睦会では呉服屋はかなりの上席なのに履物屋はずっと下の席に甘んじていたそうです。今でも官公庁の出入り業者の懇親会では洋服屋と靴屋は席次がずいぶん違うと聞きました。多分、皮革という原料が食肉と密接なつながりがあってそのことから屠殺場関係者と見なされるからなのか、と邪推したりします。服屋で靴を扱うことにはほとんど誰も違和感を覚えないのに、靴屋ではなかなか服を扱わないのはそういうせいもあるのかな、とも思います。

 毎年当店の6月は靴を作ろう!の月間。なので、靴について感じることを少しお話ししてみました。(弥)

倶樂部余話【391】アランセーター、ライフワークの終活(2021年5月1日)


(ひとつの大きなプロジェクトが進行中で、この冬には実現しそうです。でもいろんな都合があって具体的な話は8月まで公表できません。ですので、今話は、このプロジェクトに至るまでの私の気持ちを述べておきたいと思います)

もし私にライフワークと呼べるものがあるとしたら、それは間違いなくアランセーターだと言えるでしょう。ライフワークなんて、必ずしも誰しもが持てるものではない中で、アランセーターに出会い生涯を通じてそれに関わることができたこと、なんと私は幸せなんだろう、と嬉しく思います。

しかしながら、私だってついに年金をもらう歳にもなり、またアイルランド側のパートナーであるアン・オモーリャも70を越え、また編み手の高齢化はますます進み優れたニッターの確保は年々難しくなっています。このまま今の状況を続けていけるという確証は何もありません。アンともよく話すことですが、あと10年かそこら、というのが現実かもしれません。

 私のライフそのものの終活はまだ先でもいいでしょうが、ライフワークの終活はそろそろ考えていかないといけないなぁ、とうっすらと思うことが増えました。そしてその気持ちは、昨年(2020年)の始めにモーリン・ニ・ドゥンネルが亡くなったことでさらに強く感じるようになったのです。(モーリンの訃報については拙稿・倶樂部余話【376】をお読みください)

ライフワークとしての終活、として、いくつか仕上げておきたいことが浮かびます。まず、拙著を著した2002年から19年経ちましたので、校了後の動きを増補したいのです。ただもともとの執筆の動機が故バドレイグ・オシォコンの功績を記録として残したい、ということで、その目的はすでに果たしましたから、全体の改訂は考えずに増補にとどめるだけで十分だと思っています。
そして、パドレイグがアランセーターにおける私の父であるなら、母はモーリンです。だからむしろ今度はモーリンの功績を世に残してあげたい、と考えています。さて、どういうことでモーリンのことを私はライフワークとして残してあげることができるのだろうか。あらゆる意味で史上最高のアランセーターの伝説のニッター、モーリンにふさわしい功績の残し方はなんだろうか。

そんな矢先、一人の男が静岡の私のオフィスにやってきます。

(この話は続きます。続きは8月になる予定です) (弥)

倶樂部余話【390】朝ごはんは食べましたか(2021年4月1日)


 女子アナ。不貞。付ける薬がない。裸の王様。代表取締役顧問。ごはん論法。社説。これらは、今話を書く準備のために思いついて記しておいたメモ書きです。これ見ただけで今回私が何を話題にしたいのかもうお分かりでしょう。我が県の大手メディアに起きたとてもお恥ずかしい醜聞です。

ちなみに、ごはん論法というのは、「朝ごはんは食べましたか?」の問いに「今朝はパンを食べたのでご飯は食べていない」と答えるような、首相や官僚の国会答弁でまかり通っている子供だましの詭弁でして、つまり、責任をとって社長を辞任する意向とは言ったけど代表権を返上するとは言ってない、という呆れ返った屁理屈を指します。代表取締役顧問なんて役職、初めて聞きました。

こういう人には付ける薬がないのですから仕方ないです。きっとなんの反省もしてないしこれからもいささかも改めるつもりなんかないでしょう、もう排除する以外にないのです。それよりも私が憤っているのは、その後のこの新聞社の態度です。張本人を舞台裏に引っ込めたまま一切の会見もさせず、そして多くの批判が寄せられたり、広告を辞退したスポンサーだってあったはずなのに、それを記事として一切報道もせずに、投書欄からも締め出して、ほっかむりを決め込んだままです。この期に及んでまだ大株主さまさま、報道機関が裸の王様に衣を着せてどうするんですか。せっかく資本と経営を切り離せる大きなチャンスだったのに、このところ地方紙にしては突っ込んだ論調でなかなか活気のある紙面だと高評価をしていただけに、とても残念でなりません。第三者委員会でも設けて事実を明らかにし大株主依存の悪しき体質を自浄してみせるとの読者への約束を社説を持って現して欲しい、と心密かに期待していたのですが、一月ほど経ってもその兆しは全く見えてきません。落胆至極、です。

私には絶対に許せない企業というのがふたつあって、ひとつは牛乳の製造日を誤魔化した結果大量の食中毒を出してしまった乳製品の会社。もうひとつは、自らのブレーキの欠陥を隠して運転者に事故の責任を擦り付けようとした自動車会社。この2社はどうしても許せないので、私はこの2社の製品は決して買いません。しかし、悔しいかな、新聞もテレビもラジオも、その大きなシェアと公共性ゆえに代替もなく、購読や視聴の拒絶ができません。実に悔しいのですが仕方がありません。そういう人、多いと思います。
だから、勘違いしないで欲しいんです。部数も視聴率も聴取率も広告出稿料も減ってない、だからもう許してくれたんだ、読者視聴者聴取者スポンサーなんてその程度のちょろいもんだ、などと決して思わないでいただきたいのです。

もうほんとにほんとに残念でならないので、この余話の場をもって語ることにしました。ご意見ご感想があればお寄せください。(弥)