五輪の開会式、選手の入場行進を観ていると、時々無意識にぼそっとつぶやいる自分がいます。
「ロメ」とか「ヌアクショット」とか。そのたびに家人が不思議な顔をします。
はい、小国の首都の名前が反射的に口に出てしまうんです。
地理大好き少年が小学生の頃に覚えた世界中の国と首都の記憶が時々よみがえってきます。
1960年代は特にアフリカの植民地が次々と独立する建国のラッシュでしたが、
その頃に小学生のくせに日本国勢図会(にほんこくせいずえ)なんか手にして
親友のシンちゃんと一緒に片っ端から覚えていった、そんな記憶の名残りです。
でもがっかりなのは首都がわからない国があまりにも多いこと。国名すら知らない国もあります。
それもそのはずで、前回1964年の東京五輪の参加国地域は94カ国。それでもその当時はすごい数だと思いましたが、それが今回は205ですから。
つまり、57年前のときの倍以上、204もの国々等の人たちを今我が国は迎え入れている、
日本はその責任を担っているんです。
五輪とコロナと猛暑、8月はこの3つが恐らく同時にピークを迎えます。
この時期に批判や非難など意見をいうつもりは全くありません。そういう気にもなれません。
なるべく気持ちをフラットにして、わざわざこんな所まで来てくれた204カ国のアスリートたちにベストなパフォーマンスを発揮できるようにあってもらいたいと願うだけです。
校風とか社風とか県民性とか、人は一つの集団を一つの性格でまとめようとします。
ステロタイプ(ステレオタイプ)とか言うそうですが、その最たる例が国民性なんじゃないかと思います。
五輪観ててもそう思ってしまうところ、ありますよね。
中国人らしいよね、とか、ドイツ人だからね、とか、ほらやっぱりアメリカは、とか、無意識の中でそう言ってることがあります。
そういう中で海外に行って向こうの人達と話をします。
私「一体アイルランドはアメリカのトランプ政権をどう思ってるのか」相手「そういうけど、じゃ日本は中国にあれだけ好きなようにされて一体何をしてるんだ」なんて議論をすると、
お互い自然と自国に肩入れをし、自国の弁護側に回ってしまうのです。そう、まるで自国を代表しているか、のように、です。
だから実は怖いんです、今度の1月にアイルランドへ行ったときに、彼の国の友人たちから「ジャックは今度の東京五輪についてどう思うのか」と必ず聞かれます。
そのときに私は国を代表するようにどんな考えを言えたものなのか。軽蔑はされたくない、多少とも尊敬される国でありたい、そう願っているのですがさてどんなものでしょう。
8月は自分が日本人であることを一番自覚する月だ、と前にもそんなことを言ったことがあります。
そして、今年の8月はいつもの年以上に日本人である自分を意識せざるを得ない、そんな月になりそうです。(弥)