信じられない大災害が起こりました。戦争を知らない私たちにとって、五十年生きてきてこんな惨事は初めてです。被災された方々を悼む気持ちで一杯です。
この大震災で、全国各地のいろんなイベントや祭りが中止になっています。もちろん交通や設備などの諸問題で現実的に開催ができないという催しもあるのでしょうが、中には「不謹慎との批判を恐れて自粛」というものも多いようです。これは何か違うと思います。誰が不謹慎だと非難するというのでしょうか。自粛すればそれは謹慎なのかなぁ、と思います。「こんなときに遊んでる場合か」と言う人はいるかもしれません。でも「遊ぶ」仕事をしている人は、真剣に真面目にその仕事をしているのです、決して遊びながらふざけて仕事をしているわけではないのは当然です。自らの仕事を果たすことと哀悼の思いとは全く別のことです。
大きな言い方をすると、経済を回すこと、が大切です。消費を止めない、小さくしないことです。お金は流れることでその節目節目に利潤を生み、その利益の中から社会の復興原資が賄われていくのです。義援金はどれだけ集まっても一時金です。
東北地方には紳士服、婦人服、ニット、シャツ、靴などのファッション製品の製造工場がたくさんあります。それらのファクトリーにこれからもたくさんいい仕事をしてもらう、それが私たちの産業ができるささやかな復興支援です。しばらくはできるだけ日本製を優先して売ることにします。日本国内でお金が回るように心掛けることも大切でしょう。(弥)
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【倶樂部余話】 No.267 三年振りのアイルランド (2011.2.21)
三年振りにアイルランドへ行くんです、と話すと、皆さんから一様に「財政破綻で大変なんでしょ」との心配をいただきました。問題が顕在化した直後なので、私もそんな思いを持って飛びました。
陽気なアイリッシュもさすがに少しは落ち込むのかな、との予想は見事ハズレ。「先祖たちが英国から長年にわたり受けてきた圧政や貧しさを思えば、これくらい大したことないさ。ケルティック・タイガーとまで称されたあの好景気だってそもそも政策主導で、あれ自体は正しい選択だったし、まあそれなりにいい思いもしたよ。消費税や水道代はこないだいきなり上がったし、公務員は減給、年金も減額になったけど、仕方ないね、また我慢の暮らしさ。でもユーロから仲間外れにされたらそれこそ大変だから。ただ、バブルを思いっ切り享受してきた若年層は、急速な冷え込みに対処のすべがなく、戸惑っている感じだね。」
逆に日本をよく知るあるアイリッシュからはこう励まされました。「仕事はどう、と聞くと日本人は誰もが『悪いよ、良くないね』と答える。日本人の謙虚さというか、みんな一緒に、という性格の現れなんだけど、あれは良くない。たとえ虚勢でも『他は悪いかもしれないがウチはいいよ』と言おうよ。じゃないと中国にすぐ取って代わられちゃうよ。」
さて、今回の主たる用件は、今後も現レベルのアランセーターの扱いが続けられるか、という大きな交渉だったのですが、直談判の末、何とか供給を受けられる目処が立ち、一安心です。他にもダブリンで新旧十社ほどの買い付けを滞りなく済ませ、早朝に帰国。羽田発着欧州便は実に便利でした。 (弥)
【倶樂部余話】 No.266 ツイッターが紡ぐアランセーター (2011.1.20)
「アランセーターができて百年か、キリがいいから久しぶりに特集しよう」とここに書いたのが昨年の九月末。知己のライターがこの話をツイッターで紹介、それがある編集者の目に留まり、彼は男のセーターの特集を着想、急いで企画を練り、私のところへやって来ました。そして十二月中旬にムック本が発売、巻頭8ページにわたり当店とアランセーターがデカデカと載ったこの本が書店の男性ファッション雑誌の棚に並びました。
同業者からは「どんだけ払ったんか?」と冷やかされましたが、こちとら静岡までの交通費はおろかお茶の一杯も出してないのですけれども、これだけ取り上げられれば反応が少ないわけはありません。このところ毎日のようにメールや電話での問い合わせが続き、嬉しい悲鳴を上げています。
私が書いたアランセーターの本も絶版となって久しく、著者分の手持ち在庫も完売し、アマゾンの中古本で三倍もの値が付いている状態でしたので、モノクロだった写真を全部カラーに入れ替えて、データをPDF化してCDに焼き、パソコンで本のように読めるカタチで安価に頒布することにしました。実際iPadでペラペラとめくれる電子ブックになった拙著を初めて見たときは何だか自分の本とは思えない新鮮さがありました。
アランセーターは百年の間ずっと変わらずに続いてきたものです。それが最先端の情報ツールであるツイッターが契機となって再び火が付くことになりました。 これももうひとつ別の意味の「温故知新」と言えるのかなぁ、などと思っています。(弥)
【倶樂部余話】 No.265 未来予測なんて当てにならないな (2010.12.23)
先日電器店に依頼し、二十年以上前に撮った8㎜とベータのビデオ十数本をDVDに移してもらいました。「カビが出てるとダメかもなぁ」と心配げにつぶやいた店主のおじさんが私には神様に見えました。
撮ってた当時はまさか8㎜やベータがなくなるとは思ってもみなかったことで、同様にレコードもカセットテープも消えていきました。DVDにしたってきっとそのうち過去のものとなり、いずれはすべてをネット上の倉庫に格納するような時代がやって来るのかもしれません。
他にも、よもやこんなモノが消えるなんて思いもしなかった、というモノ、いろいろあります。ブラウン管テレビも白熱電球もまもなく消える運命にあります。
逆に、私が十代の頃、これは将来なくなるだろう、と思っていたモノがあります。それが、演歌、歌舞伎、相撲、百貨店でした。きっと自分たちが大人になったとき、我々の世代はこれらに興味を持たないだろう、と思っていたのです。でも私の予測ははずれて、どれも残りました。
そして、実は、私のなくなる予測リストには、もうひとつ、背広、というのがあったのです。笑ってしまいます。未来予測なんてホントに当てにならないもんですね。
メリー・クリスマス。今年一年のご愛顧に感謝いたします。皆さま良いお年をお迎え下さい。(弥)
【倶樂部余話】 No.264 ジョン・レノン、没後三十年 (2010.11.23)
アランセーターと同じぐらい長く続けているのが、12月8日9日のジョン・レノンのメモリアルイベントです。この店ができる前から始めたので、もう26年続きました。といっても、当店は飲食店でも音楽屋でもありませんから、宣伝販促的な意味合いはまったくなく、何をしているかと言うと、額縁に入れたジョンの顔写真を掲げ、キャンドルを灯し、店内に二日間ジョンの歌声ばかりをずっと流す、といった、ほとんど私の自己満足的なことを毎年やっているに過ぎませんが。
1980年12月8日(日本時間では9日)、22歳だったあの日あの時に感じた悲しさは不思議によく覚えています。この世に起きるはずのない、起きてはいけないことが起きたのだ、という信じられない気持ちで、「イマジン」のLPレコードを一晩中泣きながら聞いていました。何がそんなに悲しかったのか、今でもちゃんと言葉にできない、もやもやしたものなのですが、きっとこの気持ちを忘れてはいけない、という思いが強くあったのでしょう、こうやって続けてきたのは。
今年は没後30年、そしてもし生きていれば70歳、と節目の年に当たり、例年にも増して数々の企画が出ているようです。それらの「あやかりイベント」を否定はしませんが、でもなぜか手放しで喜べる気持ちを持てない私がいます。きっと、暗殺されたことを商売に使うことに抵抗感があるのではないかと思います。自分も商人なのに、変でしょうか。
今年も私はいつもどおりにやります。12月8日9日の二日間、お心のある方はどうぞご来店いただき、一言声を掛けてくれると嬉しいです。(弥)
【倶樂部余話】 No.263 セヴィルロウは背広の語源?(2010.10.23)
背広の語源はロンドンのセヴィルロウという地名に由来する、と、そう信じて私は約20年前にこの店名を付けたのですが、この説について、文明開化当時からの資料を紐解き、検証を試みた一冊があります。「福沢諭吉 背広のすすめ」(出石尚三著・文春文庫・2008年12月)。
150年前の服装では、きちんとした格好というのはフロックコートであって、今でいうスーツはそれよりも格下のカジュアルな服でした。フロックコートというのはモーニングや燕尾服と同じく、胴回りを細く絞るために、肩の後ろから背の両脇にダーツを入れて作られたので、こういう服を「細腹(さいばら)」な服と呼びました。(今でも仕立ての世界では、前身頃と後身頃の間の脇下のパーツを細腹と呼びます) それに対して、細腹ではない服すなわち背の広い服、ということで「背広」な服という言葉が職人仲間の符丁として生まれたのではないか、というのが筆者の推論です。
それを記録に留めた最初の人物こそがどうも福沢諭吉らしいというのです。福沢は「経済」や「演説」などの訳語を創った造語の達人、きっと「背広」の語感はその感性にマッチしたのでしょう。
さらに福沢は自ら「西洋衣食住」というイラストブックを著し西洋服のコーディネートを指南、そればかりか慶應義塾内に「衣服仕立局」なる洋服屋まで開いていたのです。この店が丸善の服飾部門の前身となります。
セヴィルロウと背広は発音が似ていて何か関係があるのか、と言われ始めるのはそれから60年も経った昭和初期のことで、これは全くの偶然のようです。なーんだ、そうだったのか。(弥)
【倶樂部余話】 No.262 再び「アランセーターの世界」(2010.9.26)
アランセーターは開店以来の当店の看板商品です。かつては毎年秋になると特集イベントを組んでいたので、そんなこと言うまでもない、とこちらは思い込んでいましたが、気が付いたら02年に自著「アイルランド/アランセーターの伝説」を出版して以降の八年間というもの、ことさらに大きく取り上げてきませんでした。本を書いたことですべてしゃべり尽くしたような思いもあり、また、うちはアランセーターだけの店じゃないんだよ、と、ちょうど南こうせつが「神田川」をしばらく封印していたのと同じような心境だったのかもしれません。
でも近頃は新しいお客様から「アランセーターって何で白いんですか」などの質問を受けることも増え、こりゃまた一から「そもそも…」を語らなきゃ、という気になってきました。奇しくも今年は、アラン諸島のマーガレット・ディレインという女性が一九一〇年にアランセーターの原型を生み出してからちょうど百年の記念すべき年。また、円高でユーロがピーク時よりも約30%下がったままなので価格を十年前の当時に戻そうと決めたところでもありました。それと、ルーズな着方からタイトフィットへ、とサイズ提案も十年前とは随分変化してきました。
といっても新しい商品が入ったわけではありません。陳列するほとんどは、かつて事情でアイルランドの倉庫を閉鎖するときに私が引き取った大量の備蓄在庫からのものですから、十年以上も(ものによっては二十年以上も)前に編まれた古いもので、もちろんすべてアラン諸島の女性が編んだものです。当時のルーズフィットの流行に売れなかったストックということは、多くが腕回りも狭くてタイトなフィッティングのもので、今の着方にちょうど合っているというのも嬉しい偶然です。女性でも着られる小さいサイズが残っているのもそのためです。現在はすでに編み手の多くが亡くなり、また当時の糸屋も廃業したので、今となってはこれだけのものを作ることはまず不可能。つまり、これだけハイレベルのアランセーターが大量に揃っている場所は、世界でもここだけだと言い切っていいでしょう。
でも、なぜアランセーターはフィッシャーマンセーターと呼ばれるのに汚れの目立つ白色なのでしょうか。元々は白のセーターというのは男の子が教会で着る晴れ着だったのでした。それが次第に大人サイズになったのです。そして、アランセーターは白という色を得たことで世界に普及したのです。理由は自明、白が一番編み柄が美しく映えるから。だから今でもアランの基本は白なのです。
今年は新しいことよりも復刻の方が新鮮に映るみたいで、あちこちどこも「原点回帰」が目に付きます。それならアランセーターは負けません。久々に開催します、「アランセーターの世界」です。(弥)
【倶樂部余話】 No.261 スーツとは黒柳徹子なり? (2010.8.26)
大学生の頃、湘南のある市民劇団で音の担当をしていました。とある公演の観客アンケートに「音楽の使い方が良かった」とあり(きっと私の友人がお世辞で書いたのでしょう)、私がにこにこ喜んでいたら、座長に怒られました。「音が良かったなんて、悪かったと同じ。そこが目立ってしまう芝居はいい芝居とは言えないんだよ。」
いきなりですが「徹子の部屋」。ここで「徹子さん、うまいなぁ」って思う時がありますか。不思議にあまりそう感じることはないはずです。他の対談番組で「この聞き手、なんか下手くそだなぁ」と思うことは多々あるにもかかわらず、です。要は「うまい」とすら感じさせないほどあまりにも自然にすんなりと相手の言葉を引き出している、それほどに黒柳さんは稀代の名インタビュアーなのですね。もちろんそれは才能だけではなく、下調べも半端なものではないとよく聞きます。
さて話はスーツです。良いスーツスタイルというのはつまり「徹子の部屋」のようなものです。スーツ自体は非の打ち所なく、しかも目立たず浮かれず。そして、その日に何をするかを考え、シャツやタイ、靴などに精一杯の配慮を向ける。全力を注いでいるにもかかわらず、力んだ様子はかけらも見せない。
下手な着こなしだなぁと指摘されるのは論外としても、「いいスーツですね」と言われているうちもまだまだで、更にそれすら気付かせないほどに目立たないという領域に達するのが最良の評価であると言えます。すなわち、スーツとは黒柳徹子なり、であります。(弥)
【倶樂部余話】 No.260 再び「スーツは年収の1%」説を… (2010.7.18)
「スーツは年収の1%」(余話【194】05年3月)は紛れもなく私が言い出しっぺの持論ですが、そう自らが唱える当店のスーツの裾値は約八万円です。しからば当店のお客様はすべからく年収八百万円以上なのかというともちろん決してそんなはずはなく、年収五百万円から七百万円のお客様には1%以上の負担を強いざるを得なかったわけです。仕立て代の安い某工場を知ってはいましたが、そのクオリティは合格点を付けるにはいささか疑問が多く、結局のところ、五~七万円台のスーツ提案の必要性を感じてはいながらも、私はそれを怠っていたのです。
しかしようやくそれが実現することになりました。第三のファクトリーとしてM社との取引を約十年振りに再開することにしたのです。このM社のことは事情があり詳しく書けないのですが、現在当店でメインのA社のレベルには及ばないものの、私は一応の合格点を与えました。81点といったところでしょうか。かつては百貨店向けのお堅い高級ブランドスーツを中心に縫っていましたが、近年は関連企業で首都圏を中心に全国で約三十店舗を展開するオーダースーツのチェーンストア(ここで名前を明かせないのがツラい…)からの注文をほぼ一手に引き受け、技術力に加え「感性」度が飛躍的に上がってきているのです。当店ではこのM社の縫製を「バジェット・ライン」として導入を決めました。
年収一千万円以上の方にはお勧めしません。しかしバジェット(予算)の限られた方には五~七万円台のスーツもご用意できるようになり、ようやく「年収1%」の持論に現実味を付与することができたということであります。(弥)
【倶樂部余話】 No.259 ジョージ・クレバリーでの出来事 (2010.6.23)
何かの機会に書こうと思っていたネタです。おととし一月ロンドン探訪のときの出来事。立ち寄ったのはオールド・ボンド・ストリートのロイヤル・アーケードにある小さな店構えの靴店「ジョージ・クレバリー(以下GC)」。
GCと言えば、チゼルトゥという鑿(ノミ=チゼル)で削ったような独特の美しいつま先を考案したところとして世界に知られる名店です。さて、その日私が履いていたのは当店開店20周年の記念モデルとして作ったチゼルトゥの靴で、これはGCをかなり意識して考えた作品でした。つまり、弟子の模倣品を履いて元祖の師匠の店に入っていったようなものですから、随分と果敢というか無謀というか、思えば私も大胆なことをしたものでした。
狭い店内にスタッフが二人、年輩の人は他の客と応接中で、私の相手は若い方の人でした。気に入った靴があったので試足することに…。そのとき彼が言ったのです。「今日あなたが履いてるその靴はウチのですよね。」私は心の中で(やった!)とガッツポーズを取りながら「ノー、これは日本でパターンオーダーで作ったものなんです。」
彼、私の靴をじっと眺め「へぇ良い出来ですね、間違えちゃいましたよ。このSavile Row Club というのがブランドですか。」「いや洋服屋の店名なんだけど…」なんて会話が続きました。
私はこのロンドンでのことをすぐに製造元の宮城興業へ土産話に伝えたところ、彼らも大喜びしてくれました。きっと師匠に誉めてもらった弟子のような心持ちで小躍りしたことでしょう。
あ、間違ってもらっては困るのですが、何も私は宮城興業にそっくりさんを作ることを賞賛したり奨励しているのではありません。本家取りをしながら、しかも履く人のサイズや要望に併せて一足ずつハイレベルの靴を作ることができる、という、世界でココにしかできない宮城興業の仕事の価値を評価してのコメントであることをご理解下さい。
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