倶樂部余話【154】化石な人(2001年11月1日)


私が「化石」と呼ぶものがあります。

例えば、IYドーが販売権を持つケント、洋服のAが商標を獲得したエーボンハウス、あるいは、雑誌のメンズクラブ。かつての栄光は認めますが…。

化石な人、という人種もいます。分かりやすくするため極端に言いますが、ノータックに固執し遂に2タックのパンツをはきえなかった人。過去の知識だけをひけらかせて、揚げ句に、欲しいモノがない、と怒ってしまう人。

メンズのファッションの流れはゆったりとはしていますが、今大きな変化の時期を迎えているところです。そして、それは再びノータックに向かって動いているのです。ここであなたは、その流れを吸収できる柔軟さを持てるか、それとも、流れに乗れず頑固に2タックを貫くか。ここが若さと年寄りの、進化と化石の分かれ目になります。

もっとも、当店は流れの最先端にいる訳でもなく、何も明日からすぐにノータックだけ、などとは言いません。 ただ、そういう流れにあるのだな、と踏まえていてくれればよいのです。

「買いたくても買えないんだよ」という男性諸氏の悲鳴が聞こえてきそうな昨今の経済情勢です。でも興味や関心までなくして欲しくはない。化石な人を増やしたくはないのです。 

倶樂部余話【153】ドレスシャツのついての一考察(2001年10月5日)


ネクタイなしのスーツ姿と言うと、どうしても汚職で逮捕された代議士を思い浮かべてしまいます。(自殺防止のため、タイとベルトを没収されるらしい。)イタリア人はそう見られないための免罪符を考えつきました。タイなしで衿元が目立つのを逆手に取り、そこにもうひとつのボタンを付けてしまったのです。Due Buttoni(二つの釦)と呼ばれています。

これと良く似た現象が実は約百八十年前に起きています。ポロ競技の際、シャツの衿元が動くのを邪魔に感じたアメリカ人、ヘンリー・ブルックスが考案した、ボタンダウンシャツ(ポロカラー)です。

二つの共通点は、本来不必要な箇所に釦を付けるということで、シャツの着こなしの幅を大きく広げたということです。 この余計な釦がマヌケになりそうな衿元を救っています。「タイが嫌で外してるわけじゃない、意識してタイを付けてないのです。」という主張が生まれます。

ただ、ボタンダウンが今では完全にカジュアル化したのに対し、Dueの場合、まだカジュアルというよりもドレスダウンと言った方がふさわしく、ヨレヨレクタクタのシャツではサマになりません。ドレスシャツとしての上質さが必要です。

そこで、上質なシャツを見分ける一つのコツを伝授しましょう。背中を見て下さい。スプリットヨークといってヨークの真ん中に縦の縫い目のあるシャツ、こう縫ってあるシャツは間違いなくいいシャツです。但し、こうなっていないものでもいいシャツはあります。逆は真ではないのでご注意を。

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倶樂部余話【152】クラシコ・イタリア(2001年10月5日)


「質問です。クラシコ・イタリアとセヴィルロウは矛盾しないのですか?」

クラシコ・イタリアとは、元来、伊の有力紳士ブランド19社の加盟する「クラシコ・イタリア協会」を指すのが狭義ですが、要はイタリアン・クラシックのこと。紳士服業界で、クラシックとかトラディショナルという言葉はブリティッシュと同義であり、言わば、伊から見た英です。20年ほど前、アメリカン・トラッドが席巻しましたが、その頃英米で出稼ぎしていた伊の熟練職人が今母国へ戻って活躍しているのです。 また、すでに英米独では消えつつある手仕事の技が、工業化の遅れた伊では最後まで残ったという事情もあります。正直、私は伊にはそんなに詳しくはありませんが、伊の英好きは想像以上らしく、「英国気質」な店が数多く見受けられるそうです。

つまり、英から伊へ軸が動いたわけではなく、一つの円を内側から見るか外側から見るか、ということです。

対して、本家セヴィルロウも大きく変わりつつあります。旧態依然とした店は淘汰され、伊の良いところを拒絶せずに取り込んでいく店が増えてきました。一昨年訪れた時には、外れに、「サルトリア」(伊語で仕立て屋)という名の伊料理店までできていて、私も驚きました。 英が伊っぽくなっているという実例です。

こうして、伊は英よりも英的なスーツを目指し、英は伊に負けじと革新を進めている、この切磋琢磨の中で、結果、両者のモノ作りがとても近いものになっているという、やや分かりにくい状況が、現在のクラシコ・ブームだと言えます。

当店は「英国かぶれ」ではなく、「英国気質」を標榜する店。答えは是です。

 

倶樂部余話【151】アランセーターの誕生秘話(2001年10月5日)


「アランセーターは、アイルランドのアラン島で、六世紀の昔から編まれている白いフィッシャーマンセーターで、編み柄には 祈りを込めた意味があり、その組み合せは家々によって家紋のように異なったため、それで溺死者の身元が判別できた。」これが従来言われている「アランセーター伝説」です。が、私の研究調査によって分かった真実はこうでした。

今から百年程前の19世紀末、政府はアラン諸島に漁業振興政策を施し、島には多くのスコットランド人漁師の家族が出入りしました。島の女たちは、彼らが着ていたガンジーセーターの編み方を教わり、更に独特の美的感覚から、その模様編みは次第に装飾を増していきました。

同じ頃、島からボストンに出稼ぎに行った一人の女性が、どういう理由か島に戻ってきます。彼女は編み物の天才で、ボストンで見た様々なセーターの編み柄を全て習得していました。島の女たちは、彼女からも貪欲に編み物を教わりました。

普段編むのは紺色でしたが、教会の元服式に際し、母親は息子のために飛びっ切りの白いセーターを編んだのでした。ここに白いアランが誕生したのです。

一九三五年、ある民俗品収集家が島にやってきて白いアランを見つけ、ダブリンの自らの店に置きます。翌年、その店を訪れた英国の服飾評論家がこれを発見し、英国服飾業界に大きく紹介しました。「アラン島では豪華な模様入りの白いセーターが昔々から編まれています。」と。

そして、戦後、アランセーターは米国で大ブレークするのですが、その話はいずれまた。もしくは店頭で。