倶樂部余話【200】祝!二百話(2005年9月5日)


遂に二百話の達成です。この記念すべきときに何を書くべきか、一向に考えがまとまらず、ちっとも筆が進みません。
 開店一周年のお礼を兼ねた案内状に第一話を載せたのが88年9月ですから、足かけ丸十七年、三十一歳から四十八歳まで…。ワープロ原稿を官製ハガキにコピーするだけという簡単な体裁を採ったことも長続きの秘訣でした。今思うと、私はアナログな手法ながらすでにメルマガを十七年前から配信していた、ということになります。

久しぶりに古いスクラップ帳を広げ、再び第一話から読み返してみました。三十一歳からの私がいます。苦し紛れに絞り出した駄文もあれば、本当に自分が書いたものかと思うほど惚れ惚れするような名文も少しは見当たります。喜怒あり、泣き笑いあり、いろんなことを書きつづってきたものだと思います。振り返って見てみると、バブル崩壊後の価格破壊がブームになっている頃などは、相当にもがき苦しんでいる様子が分かります。とても懐かしく感じます。

元来は数百通だけのハガキ通信ですが、第百三十話からはホームページにも掲載をしていますので、今では一体自分の文章がどのくらいの数の人に読まれているのやら、想像もできません。しかし、時には「一話から通しで読んでみたい」といった奇特なお申し出も頂戴するので、二百話を機に、何らかの形で公開したいとは思っています。ホントは一番いいのは、誰かが本にして出版してくれることなのですけど…。

倶樂部余話【199】ドンザとアランセーター(2005年8月1日)


ドンザって知ってますか。かつて日本各地で漁師が着ていた刺し子の防寒着で、緻密な模様が入った柔道着のようなもの、とでも言えばいいでしょうか。生活に根ざした日本の伝統キルトのひとつです。

このドンザを日本や韓国の各地から収集して展示する、という我が国初の試みがこのたび福岡市博物館で開催されることになり、ひょんなことでこれに当店のアランセーターが関連展示されることになったのです。

ドンザもアランセーターも、もともとは日常の労働着だったものが次第に装飾性の高い晴れ着に昇華していった、という共通点があり、海に生きる者たちの過酷な生活から生まれる発想は洋の東西を問わず類似するものなのか、という担当学芸員の着想が元になって、実現したものです。

はるばる福岡から静岡まで訪ねてきてくれた彼はこう言いました。「言葉は悪いですが、アランセーターにしてもドンザにしても、一般の人からすれば、どちらも『しょーもない』モノですよね。そんなしょーもないモノを野沢さんは何年も探求して一冊の本に書き上げました。あの本に私はとても勇気づけられたのです。」その言葉に私はいたく感動し、とっておきの一枚を福岡へ貸し出しました。

アランセーターが商品ではなく展示品として博物館に並ぶのです。実に名誉なことだと思っています。この夏、福岡へ行かれる方には、ぜひともご覧いただきたい「ドンザ展」です。

(会期は200582日~925日。詳細は<http://museum.city.fukuoka.jp>まで)

倶樂部余話【198】クール・ビズ(2005年7月10日)


さてもさても喧(かまびす)しい限りの「クール・ビズ」ですが、何もこれはこの夏突然振ってわいたものではなくて、実は日本メンズファッション協会なる業界団体が5年ほど前から着々と仕掛けてきた戦略に、環境省がクール・ビズという公募による命名でお墨付きを与えたものだと言えます。

私の辛口の批評を期待している方もいることかと思いますが、残念ながら(?)、基本的にはこれはいいことだと歓迎しています。何しろこれほどに男の服装に関心が集まることはそう滅多にないことなのですから、それだけでも確実に私たちの業界にとってはプラス効果でしょう。

話題にされれば興味も湧きます。あとは、とにかく「習うより慣れろ」で、次第に何とかサマになってくるものです。浮き彫りのように眼前に晒(さら)されるシャツ、パンツ、ベルト、靴、ソックス、それぞれの重要性も分かってくることでしょうし、家に寂しく置き去りにされてしまった上着やタイにしても、これらがどれほど格好の隠れ蓑の役割を果たしていたのか、ということをかえって再認識するに違いありません。

気掛かりなのは、この導入が官主導で、しかも目的が小電力、ということゆえに、十月になったとたんに、昨日までの上着やタイのないスタイルが何かの魔法であったかのように、あっけなく元通りに戻ってしまうのではないかということ。せっかく服装の多様化という門を開けたのですから、秋も冬もそのままノータイでも構わないよ、という土壌が定着してくれると、男の装いはますます楽しくなるんだがなぁ、と私は密かに願っているのです。  

倶樂部余話【197】石津謙介さんご逝去に際して(2005年5月29日)


アイビールックの仕掛け人と呼ばれた、ヴァン・ヂャケット(VAN JACKET INC.)の創始者・石津謙介氏が524日に93歳の天寿を全うされました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

思い起こせば、70年代前半、中学・高校と、着ているものは全部VANでした。当時の私は特にファッションに興味のあるような「ませガキ」であったわけではなく、単にVANなら父に頼むと店から買い与えてくれたので、自分の小遣いを減らさずに済むという理由からでしたが、結果的に私は十代をVANの純粋培養で育ったわけです。当社の黎明期を知る静岡の五十代男性にとっては、いまだに「呉服町の野澤屋」=VANショップ、の印象が残っていることでしょう。何しろ、父が当社を設立した頃には、VANからの出資を仰いでいたほどの強い結びつきがあったのですから。

78年の倒産はまさに青天の霹靂(へきれき)、当時売上の八割をVAN一社に頼っていた当社も存亡の危機でしたが、氏とのお付き合いはその後も続き、87年の「セヴィルロウ倶樂部」開店に際しても、ご丁寧な長文の祝辞を頂戴いたしました。ずっと初夏にお届けしていた新茶への達筆なる返礼も、近年は代筆となっていたので、長患いが続いているのだろうな、と思っておりました。明治44年生まれとは思えないほど、いつも柔軟な思想を持ち、ダンディという言葉のふさわしい方でした。

 メンズファッションの分野に限らず、衣食住遊のライフスタイル全般にわたり、石津御大(おんたい)の薫陶、影響を受けた戦後世代は数限りなくいることでしょう。みんな「VANが先生だった」(ポパイ786月号の名タイトル!)のです。近々催されると聞いている「お別れの会」には、そんな各界の生徒たちが一堂に会することになるはずです。不謹慎だと言われることを承知で言うならば、私にとってはこれほど楽しみな気持ちで待つお別れの会はかつてありません。御大が命と引き換えに集めてくれた素晴らしいメンバーたちの一大パーティとなることと思います。私自身は、偲ぶというよりも「改めて感謝したい」という気持ちで末席に臨めることを願っています。
Ishizu2
こちらに内容を掲載しています

倶樂部余話【196】ディスプレーは動かさないで下さい(2005年5月5日)


「ジョルジオ・アルマーニ展」(六本木ヒルズ52階・森美術館にて65日まで開催中)を見てきました。これは2000年にニューヨークで初開催されて以来世界中を巡回している展覧会で、私も一昨年ロンドンで見てくるつもりが時間の都合で見損ねてしまったものです。

正直、当店にとってアルマーニさんはほとんど無縁の存在ですし、恥ずかしながら私自身も、ソフトスーツの旗手ぐらいの認識しか持ち合わせていなかったのですが、あのメンズの女性的なソフトスーツは、レディスの男性的な装いと対(つい)に考えることで「ジェンダーの中和」という意義をなすものだったということを初めて知り、恥じ入りました。彼の何十年間かの創造力の凝縮とも言えるこれだけの数の洋服を、解説付きで、しかもショップのように販売員にうるさく付きまとわれたりすることもなく、至近で360°ゆっくりと鑑賞ができて、お代が1,000円ですから、なんだかとても得した気分でした。

感動したのはそのディスプレーの完成度です。約300体の男女の服がボディに着せ付けられて整然と並べられていますが、腕や膝の曲がり具合からスカートの揺らぎ感、帽子の高さや角度にいたるまで、それぞれの服に合わせて一体ずつボディが異なり、その服を一番美しい状態で見せることに徹底がされていて、あたかも生身の人間が着ているかのごとく実に自然に着せられているのです。つい触れたくもなってしまいますが、もし手を伸ばそうものなら、きっとすぐさま近くの監視員が制止に飛んできたことでしょう。

もちろん、ボディに着せてここまで「自然に」見せるためには、相当の針金細工やピン打ち、膨らましの張りぼてやアンコ入れなど、かなりの技術が施されているはずで、ショップのように脱がして販売するという前提では決してできない、展覧会でこそのうらやましい限りの仕業です。

そう、実は、あたかも人間が着ているかのように、あるいは、すうっと簡単にそこに置いてあるかのように、無意識にさりげなく自然に見えるディスプレーであればあるほど、本当はかなりの意識のもと、注意深いピン打ちやワイヤー使い、そのほかの技巧によって、微妙なバランスを保ちながら成り立っている、ガラス細工のようなものなのです。

アルマーニ展と比べるのも大変おこがましいことですが、当店のショーイングのそばに置いてある「ディスプレーは動かさないで下さい」との小さな注意書きもそんな思いからのお願いです。素材を確かめるために手を触れていただくのは全く構わないのですが、構図を考えてさりげなく置いてあるように見せているモノをひょいと持ち上げられたり、ドレープがよく分かるように見えない部分にピンを打ってあるスカートを無造作につまみ上げられたり、きれいに膨らみを付けているジャケットの襟をまるでタオルで手を拭くように指先で握られたり捻られたり、引っ張られないように裏側に隠してある提げタグをわざわざ表にほじくり出して引き上げられたり…、当店のボディたちは常にこのようなひゃっとするような危険にさらされながら皆さんの前に立っているのです。私たちは美術館の係員のように寸前で制止するということはなかなかできませんので、お客様の善意に期待するほかはないのです。どうかご理解を。

倶樂部余話【195】ローマ法王昇天に思う(2005年4月10日)


私の手元にある一枚の写真。先般昇天したローマ法王ヨハネ=パウロⅡ世が真っ白なアランセーターを手にしながら微笑んでいる姿があります。これは、このセーターを編んだ名ニッター、アラン諸島イニシマン島のモーリンさん宅に飾られていたものを私が複写したもので、1981年に法王がアイルランド・ゴルウェイに来訪した際に、地元の教会からセーターを献上されたときの一場面なのです。
Pope

 「アランセーターは、神が私に編ませて下さる、神様からの贈り物なんです。」と語るまでの熱心なカトリック信者である彼女にとって、献上セーターを編んだということは、この上ない名誉に違いありません。しかも彼女のもとには、その後法王自身からのお礼の手紙が届いたのです。「あなたの編んだセーターをスキーに着て行きました。素晴らしいセーターをありがとう」と。私は「その手紙を見たい」と頼みましたが、「それは誰にも見せたことがないの。」と丁重に断られました。きっと、誰彼に見せびらかすようなこともせず、彼女の何よりの宝物として、大切にしまっておきたいものだったのでしょう。

私は、一昨年、思うところがあり近隣のとある教会の枝となることを決めましたが、このモーリンさんの「神への思い」に深く感銘を受けたことがそのひとつの契機でありました。きっと、今頃彼女は誰にも見せなかった法王からの手紙を手にとって祈りを捧げていることと思います。

 私はと言えば、「あの献上セーターはこの先どこへ行ってしまうんだろう」と下衆(げす)な心配をしているのですが。 

倶樂部余話【194】スーツは年収の1%(2005年3月9日)


スーツに関して、私の独断的な私見を述べます。

【スーツ・年収1%の法則】

スーツほど、ピンからキリまで、価格の幅のある商品もないと思います。下は5,000円から上は500,000円とすると、その違いは100倍にもなります。いったい自分はいくらのスーツを買ったらいいんだろう、という疑問があってもおかしくはないはずです。まあ、何にいくら使おうが個人の自由ですから、本来余計なお世話であることは承知の上で、規範付けが好きな日本男性のために何らかの法則性はないものか、と考えてみました。

かつて背広がすべて誂え物であった時代には、背広一着は大卒初任給の何ヶ月分、というように言われていました。それに倣って、こんな目安はどうでしょうか。

多少とも自らの装いへの興味を自負する男性であるならば、「スーツの価格は、年収の1%を基準に、かつ2%が上限」とするのです。例えば、年収800万円の方とすると、8万円は掛けて欲しいし、と言って、掛けても16万円まで、となります。(2%を越えると、生活にアンバランスが生じる恐れ大です!)

この法則、何の根拠もなく、いまだ誰一人言い出したこともないのですが、経験上、割と的を得ているラインだと思っています。いかがでしょうか。もちろん、使用頻度や関心の強弱によっての個人差も大きいものですから、あくまでも目安ということですが…。

なお、ご注文時に当方への確定申告は一切不要ですので、念のため。

【そのスーツ、何年着たいですか?】

何年持つかという耐久性の話ではありません。その気になれば、20年でも30年でも着られるのがスーツですから。ここで言うのは、向こう何年間ぐらい着ることを想定するか、ということです。これにはふたつの要因があり、流行やトレンドをどのくらい取り込んでいくか、と、今後の体型変化の可能性、このふたつの兼ね合いなのです。

30代後半までは、幾分は流行の要素も取り入れて、また体型の変化も予測されますから、5年ぐらいを目途に考えたいものです。40歳を過ぎたら、徐々にトレンドとは距離感を離しつつ、その分、品質に重きを傾け、「10年スーツ」を目指していって良いのではないでしょうか。

これも、職業や趣向によって差があって当然で、一概には言えませんが、まあ、トレンドてんこ盛りスーツを着た「50代・行き過ぎオヤジ」も、何の挑戦心も若さも感じられない「20代・トッチャンボーヤ」も、どちらも、あまり好ましいものではないなぁ、と、私は感じているのです。

倶樂部余話【193】アイルランドとフィンランド(2005年2月11日)


 恒例の、海外出張報告をいたします。

 今回は、10度目のアイルランド(3)と初めてのフィンランド(3)という旅程でしたが、この二つの国、割と共通点が多いように感じます。

ヨーロッパの西端と北端に位置し、ともにヨーロッパではフリンジ(辺境)に当たりますし、人種も、アイルランドは旧東独あたりを発祥とし西に移動して英仏海峡を越えたケルト族、フィンランドはハンガリー周辺から北に移動しエストニアを経てバルト海を渡ったフィン族、と、ゲルマンでもラテンでもスラブでもないヨーロッパの少数派です。また、アイルランドはイングランドに、フィンランドはスウェーデンとソビエトに、長く支配され続け、どちらも散々辛酸を味わった末にようやくの独立を果たした共和国ですし、かつては貧しい農林水産国だったのが、教育重視の政策によって先端のIT工業国に変貌を遂げつつあるユーロ圏の優等生、という点も同じです。

文化的に見ても、クリスマスはもともと古代ケルトの冬至祭がルーツで、そのクリスマスに登場するサンタクロースの故郷はフィンランドです。岩や森など自然物への崇拝意識も強く(岩盤を掘り下げたヘルシンキのテンペリアウキオ教会はアイルランドの古代遺跡ニューグレンジにそっくりでした)、そこには今も妖精が宿っていると信じられています(ムーミンはカバじゃなくてトロルという妖精の一種です)。何より、両国の伝統音楽の調べがとてもよく似ているのには驚きました。

 

さて、アイルランドでの主な仕事は、例年と同じく、ダブリンで年に一度開催される一大展示会(700社が出展)でいろんな商材を探すことでした。この展示会、従来はアイルランドの業者が国内や英米に向けて販売する、という姿勢が強かったのですが、今年目立ったのは、アイルランド国内へ向けて売り込みに来ている英国企業がとても増えているということでした。恐らく、アイルランドの国内消費がかなりの活況を呈しているということの現れだと思います。消費が伸びていると、人はいいモノを買いたがるようになります。だからでしょう、かつては野暮ったさが売り物といった感のあったアイルランド製品も、このところかなりソフィスティケート(洗練化)されてきて、価格ということではないユニークさで、再び国際競争力を取り戻してきているように感じました。

従来から当店と取引のある10数社のアイルランド企業とは概ね満足のいく商談が進められましたし、またいくつかの英国企業とダブリンで商談を済ますことができたことは、大変好都合でした。

 旅慣れたダブリンを後にして、初のヘルシンキへ。フィンランドでの主目的は、ダウン製品(ヨーツェン)の工場を視察することでした。この見学レポートは、今秋の納品時に改めて詳しく述べたいと思いますが、期待を裏切らない素晴らしい現場でした。氷河の雪融け水と電力という豊富な資源、最新技術での徹底した品質管理、そして人間の目と手の力量、この三位一体が見事で、人の手を掛けるべきところと人手を省きテクノロジーを駆使すべきところのメリハリが実に効いている工場でした。ここのダウンを販売できることにますますの喜びを覚えました。

週末は、ヘルシンキの街を散策。ロシアの影響が色濃い街ですが、なにせ零下10℃の凍てつく街角、何度もツルリンしましたし、世界遺産スオメンリンナ島の要塞では腰まで雪に溺れました。「北欧の人はその寒さをも楽しむようにニコニコ元気に街を闊歩している」などとガイドブックにはありましたが、とんでもない、現地の人だって寒いときはやっぱり寒そうな顔をして背中を丸めてましたよ。

フィンランドを始め北欧というと「デザイン」という言葉が浮かびますが、この国には、スプーン一本から巨大な建物に至るまで、人の造作物であれば必ずデザイン(意匠)がある、という意識が根付いているように感じました。人が英知を尽くした技、ということへの評価が高いんです。知的財産権こそは立派に確立されたこの国の誇りなんですね。

食べ物ですか。トナカイの肉に木の実のジャムを掛けて食べる味覚にはいささかついていけませんでしたが、魚介類はどれも新鮮で概ね美味でした。土産には珍しい缶詰をやたらに買い込みました(私、実はちょっと缶詰マニアです)。トナカイの煮込み、熊のシチュー、鰯入りのパン、サンタ印の虹マス……。まだどれも開けてませんが、そのうち闇(やみ)鍋でもやろうかと……。

倶樂部余話【192】メンクラ街アイ世代に告ぐ(2005年1月10日)


 45歳以上の男性客のご来店が確実に増え始めました。かつて当社が運営していたJACKKENT当時の顧客であった方も少なくなく、「お帰りなさい」といった感があります。また、こちらとしても仕入れの際に「昔取った杵柄」が役に立つ機会が増えたように思います。
 ただ「なんだか懐かしいなぁ。今どきまだこんな店があったんだねぇ」などと言われると、当方としては、嬉しいやら悲しいやら、ちょっと困惑してしまうのです。

 そもそも、なぜ多くのメンズショップが消滅していったのに、当店は潰れずに存続できているのか、を考えてみて欲しいと思うのです。前者は「待てど暮らせど来ぬ」客を宵待草のごとく待ち続け、あげくに客と心中していってしまったのですけれど、当店は、確かに「英国気質」を軸にしましたが、しかし「トラッドは永遠に変わらない」という狂信的妄想からは抜け出して、運良くその客層を20代後半の男女にまで拡げることができたからだ、と思っています。そう、うちは、遺跡でも博物館でもないんです。ファッションはらせん階段、同じところに戻っているようで実は違う場所にいる、その変化が容認できず「昔と違うじゃないの」と化石の頭脳でノスタルジックに懐古されても、それは筋違いというものです。

 それから、「メンクラ街アイ世代(雑誌「メンズクラブ」の名物企画「街のアイビーリーガーズ」にちなんで)」に相変わらず多いのが、まだ地図帳にソビエトや東独があった頃に学んだカビまみれの服飾知識を話したいだけ話して、それでいて商品はろくに見ないで帰る人。「釈迦に説法」とまでは言いませんが、すでに私はそんな方を暖かく容認する寛容さを持ち合わせなくなりました。消えていった仲間たちの店の轍を踏みたくはありませんし、昨今の「オトナの復権」(あるいは、決して好きな表現ではありませんが、「ちょいワル、モテるオヤジ」のブーム、とも言います)は、その経済力が基盤になっているのですから、若い頃は大目に見てくれただろうそんな冷やかしも、いい大人になればそうそう通用はしないものだと考えていただきたいと思うのです。

 今回はいささか挑発的に書きました。愛すべき兄貴たちにいつまでも素晴らしいお客様であり続けていて欲しいという思いから、発奮を願ってあえて辛口にいたしましたので、どうかご容赦下さい。

倶樂部余話【191】コットンとカシミア(2004年12月4日)


知っておいて下さい。世界の農薬の約25%が綿栽培のために使用されているということを。綿の三大産地は中米露(この三国で世界の生産量の六割近くを占める)ですが、そこでは、遺伝子組換に始まり、枯葉剤の散布による土壌汚染、漂白剤・蛍光増白剤・界面活性剤・合成のりなどの水質汚染、とまさにクスリ漬けです。コットンというと、ピュアでナチュラル、と思われがちですが、それに払われる犠牲は思いのほか大きいものがあるのです。

知っておいて下さい。モンゴルの高原(といってもその多くは中国領)ではカシミア山羊の飼育頭数がこの数年で急速に増えていて、草原が食べ尽くされしまい、その結果、砂漠化が進んでいるということを。偏西風に乗って日本へ吹く黄砂も増えるでしょうし、将来の異常気象の一因になることは必至でしょう。

しかし、だからといって、私は、綿もカシミアも「買ってはいけない」というほどの、ナチュラリストでもエコロジストでもありません。そもそも文明はピラミッドの太古から自然破壊を伴って進化してきたものですし、また、ファッションの歴史は、高貴なものに抱く庶民の憧れが原動力になってきたのですから。

ただ、お腹に消えていずれは土に帰るという連鎖がある食物と違って、衣類というのは残るものなのです。これがファストフードとファスト衣料の決定的な違いでしょう。地震の被災地に次々と送られてくる救援物資のうちで、分配が一番厄介なのも衣類だそうです。

なので、私はちょっとだけこう思うのです。地球にもっと長生きしてもらうためには、安価な服を使い捨てのように大量に浪費することよりも、いつまでも捨てられることなく長く使えるいい服をひとつずつ買い足していくことの方が、少しばかりは役に立つことなんじゃないのかと。

倶樂部余話【190】イタリアをどう捉えるか(2004年11月15日)


10月、岩手県花巻近郊にある小さなファクトリーを訪問しました。ここは、間違いなく現在の日本で最もいいスーツを作る工場のひとつと言えます。他と何が違うのかを一言で言うと、イタリアはミラノ、カラチェニ派の生み出したスーツ作りの遺伝子がそのままの姿で引き継がれている我が国唯一のファクトリーだということでしょう。

スーツの工場を見学するのは久しぶりのこと。過去に訪れたことのある何カ所かの工場は、皆、最新の米製機械を導入し、いかに効率よく機械化していくか、を競うような気風がありましたが、ここはそれとは正反対で、私でさえ、初めて見る縫製技術が数多くあって、工場というより、ハンドメイドを分業化し、必要最小限の部分を機械で代用しているだけの工房、といった方がふさわしいものでした。

 名だたるブランドが並ぶこのラインにこれからは当店のオーダースーツも流れるのだと思うと、嬉しくて背筋がぞくっと震えました。

ここで、こう思う方もいることでしょう。英国セヴィルロウの名を冠する当店がミラノ直伝の技術と組むことは矛盾しないのか、と。まあ、組みますと言ったからには、当然に、結論としては、矛盾しない、ということなのですが、コレを難しく言うことは割と簡単で、簡単に言うのはとても難しいことなんです。以下、できるだけ平易に書いていくつもりですが、難しいと思ったら読み飛ばして下さい。

確かに、この店の開店当時(1987)はアルマーニのソフトスーツが全盛の頃で、巷が伊の流行なのになぜ今英国なの、とよく言われたこともありましたし、正直、私もしばらくは、英vs伊、という構図で考えていた向きがありました。

しかし、この三年ほど、実際にこの目でロンドンとミラノを眺めてみると、その考えは完全に変化し、英→伊、の図式がはっきり見えてきたのです。ロンドンへ行くと、英を代表するような著名ブランドの多くは、海外資本家にのれん代を切り売りすることに躍起な反面で、そのスーツ自体はほとんどが伊製になっていますし、片や、ミラノへ行くと、伊のお店がどこも大変英国好きだということに驚かされます。英国のスーツ作りの遺伝子が伊へ移って息づいている、というのが実感でした。

とはいえ、いっとき「伊より英でしょ」と言っていた自説をかように翻すにいたるのは、やはりいくつかの「目からウロコ」が私に浴びせられたからでした。

例えば、「我々の仕事は、アメリカから始まって、英国をつぶさに見、そしていいモノを追い求めていった末に今イタリアにたどり着いている。太平洋と大西洋を渡り、いわば東回りでイタリアに来ているわけだ。いきなり日本から西に直行便でイタリアに降り立ったとしたら、今のイタリアの紳士服は理解できないだろう。」(常に私の指南役でもある赤峰幸生氏。信濃屋の白井俊夫氏との対談より)

また、同業の友人からは「パリにオールド・イングランドがあり、ナポリにロンドンハウスがあるように、シズオカにセヴィルロウがある、ってことなんだね。」と呟かれたり。(そりゃちょっとおこがましすぎる、月とスッポンだよ。)

また、「筆者は服飾評論家という職業を生業としているため、いろいろな人から『今はどこの国のスーツが良いのですか?』という質問を受けます。たしかにスーツのルーツは英国にあり、伝統的にみてもサヴィル・ロウは偉大な足跡を残しています。しかし現代にフィットしたスーツ、また未来に生き残るスーツを考えるとき、いまだに英国がスーツ界のトップに君臨しているとはどうしても思えないのです。現在、世界で最も優れたスーツを作っているのはイタリアです。」(遠山周平「背広のプライド」より)と、断言されては、少し悲しくもありますが、確かに事実だろうと感じざるを得ません。

思えば戦後の英米の紳士服職人の手練れの多くはイタリアからの移民でした。戦後復興なった1970年代には彼らはイタリアへ戻り自らの店を持つかたわら、その後も英米の名ファクトリーの指導を手掛けていました。中でも、ドメニコ・カラチェニ氏は、セヴィルロウのスーツスタイルを忠実に踏襲しつつ、自ら産み出したフラットテーラリングという画期的な手法によって、当時のセヴィルロウの鎧のような堅さを取り去り、より軽くナチュラルなスーツへと「進化」させることに成功したのです。彼は「クラシコ・イタリアーノの最大の貢献者」(落合正勝氏)とまで評されています。(ちょうど、日本のメンズ服飾業界がみんなどこかで必ずVANの影響を受けている、というのに似ている、と感じるのは私だけでしょうか。)現在のミラノの紳士服界は、カラチェニの弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちによって形成され、隆盛を極めているわけです。

つまり当店がカラチェニ直伝の技術を導入するのは、英が伊に負けた、とか、今のトレンドがいわゆる「クラシコ・イタリア」(この言葉もかなり誤解が大きいようですね。私は、イタリア人が好む英国の味、と捉えると分かりやすいと思いますが…)だからそっちへ流れた、とか、という一時的なシフトではなく、セヴィルロウスタイルの進化の一過程、なのだと言えます。
言うまでもありませんが、当店は、決して19世紀英国紳士服の博物館ではありません。21世紀の日本人を顧客に持つショップですから、現代人により良い品を提供するためであれば、進化や革新を怠ってはならないのです。でも、店の軸はいつまでも変わることはないのです。変わらないために変える。その変わらない軸こそが、(パリやナポリのお店と同様に!)「英國氣質」ということなのです。

倶樂部余話【189】正しい英国式朝食の食べ方(2004年10月6日)


「英国で良い食事をしたいなら、朝食を三度取ればいい。」と言ったのはサマセット・モームだとか。確かに、英国でのブレックファストは旅の楽しみのひとつである。そしてそれはアイルランドへ行くと、さらに豪華かつ美味になる。田舎のゲストハウスなどでは一皿ずつ順にサーブされることがあるが、近頃は一流ホテルでもほとんどがバイキング方式で、そうなると多くの日本人は、もう食べ方がてんでチグハグになってしまう。で、今回は私が「正しい朝食の食べ方」をご伝授差し上げようという次第。

Breakfast_2

まずスターターは、ジュース、フルーツ、そしてヨーグルト。フルーツはシロップ漬けもあるがやはりフレッシュがいい。バナナやリンゴを器用にナイフとフォークで食べている外人さんには目を見張ってしまう。最初に果物を食べるのは栄養学的にも理に適っていると聞いた。ヨーグルトにも、チョコ入りナッツ入りやファッジ(キャラメル)入りなどいろいろあって楽しい。

お次は、シリアル。ケロッグのコーンフレークだけじゃなく、これも種類がライ麦やフスマなど様々で、ミルクで浸し、あとは好みでプルーン、レーズンなどのドライフルーツを入れる。私のお気に入りはあつあつのポリッジ(オートミール)で、これにハチミツをかけて一口すすると、腹の底がじわぁっと暖まってくる。

ようやくメインディッシュ。暖かいお皿の上に所狭しと載っている。まず卵。オムレツもいいが、一度試してもらいたいのがポーチドエッグで、トーストの座布団に載った温泉卵、という感じ。そして、ベーコン、ソーセージ、焼きトマト、マッシュルーム。ハッシュドポテトが付くことも。さらにアイルランドで必須は、ブラックプディングとホワイトプディング。これは決してプリンではなく、豚の臓物に穀物、ハーブ、スパイスを混ぜた腸詰め(ソーセージ)をスライスして焼いたもので、血合い入りがブラック、血抜きがホワイト。濃い味で後でやたら喉が渇くが、でもアイルランドの朝には決して欠かせない美味なのである。

それから、すごいところだと、もひとつコールドプレートもあり、スモークサーモンやキッパー(ニシンの薫製)、各種のハム、なんかが載る。

これらは前夜または着席時に好みを注文するのだが、初老の紳士が「目玉焼きは黄身を潰して半熟で二個。ベーコンはカリカリ。ソーセージは一本。マッシュルームは嫌い。」と真剣に伝えている光景は何とも微笑ましい。

一緒に出てくるのがポット入りの紅茶と数枚のパン。紅茶はミルクたっぷりにし水のように何杯も飲む。薄っぺらなトーストは、焦げているのになぜか冷めていることが多い。英国だとスコーン、アイルランドだとソーダブレッド(重曹パン)も。ホームメードのジャムも添えられる。

仕上げのデザートには、チーズをつまむ。

これでようやくフルコースは終了。軽く小一時間を要する。昼はもうギネスとスープで充分。だって、こんなの一日三回も食べられないでしょ、ね、モームさん。