【倶樂部余話】 No.293  奈津井さんのスーツ (2013.03.22)


 汚職で捕まった代議士の様に見えてはいけないのが、ネクタイなしでスーツを着る、というスタイル。本当は相当に難度の高い着こなしなのですが、震災以降の半強制的なクールビズの流れにあっては避けて通ることはできません。そこで某地方銀行勤務の奈津井さん(仮名・35才)に、どんなスーツなら作ってみたい?とヒアリングすることにしました。
 「上下揃いで着ることもあれば上だけや下だけのバラでも着たい。タイは付けない時の方が多いですが、でも締めることもあります。下の方が早く傷むので、のちのち上だけでも使えるデザインで。肩パットはなくていいです。邪道でしょうが、半袖のシャツでもいいように腕がベト付かないサラッとした袖裏地に。着丈短め衿幅細めですけど、行き過ぎないで程良く…、銀行員なので。」
 「生地はですね、色が黒か紺で、無地っぽいけど無地じゃない。光沢のあるのはノーです。通気性は最重要ですが、でも透けちゃダメ。シワにならないポリ混で、それでいてふんわり柔らかいいい生地ってあるんでしょうか。予算は六万五千円で上げてもらいたいんですが…。」
 はい、承知しました。すべてお望みをかなえましょう、とまず見本を一着作ってみました。で、せっかくここまで考えたのだから、この「奈津井さんのスーツ」、他の方にも薦めることにします。三種の生地に絞って十着限りで用意しました。ぜひ見に来て下さい。(弥)

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【倶樂部余話】 No.292 アラン諸島で再び考えた(2013.02.21)


 13年振り4回目、と言うと甲子園出場みたいですが、これが私のアラン諸島訪問歴です。毎年のように20回近くもアイルランドへ通っている私にしてもこういう訪問歴ですから、やはりアラン諸島は未だに辺境に属する場所ではあります。但しかなり便利で手近な辺境になってきてはいますが。 アランセーターの本を書き上げて10年、当時私が予想した将来像は果たして正しかったのか。ダブリンで会う人会う人「あの島はこの10年でものすごく変わったよ」と聞くかと思うと「いやいやちっとも変わっちゃいないさ」と言う人もいます。一体何が変わって何が変わっていないのか、短い滞在の中でツテを辿ってできるだけ多くの島の家族を訪ね、話を聞いてきました。
 何しろ夏がものすごく変わったらしいのです。ツーリストでごった返す夏の観光業だけで通年の生活が賄えているようです。反面、冬はほとんど昔と変わらないみたいです。港が新しくなり新築の家も増えました。でも特徴的な石積みの仕切り壁が続く道の風景はたいして変わりがありません。石を一切動かしてはならぬとの景観保護のお達しがお上からあるんだとか。
 アイルランドの経済状況が悪く、どうせ不景気なら都会にいないで故郷に帰って親の面倒をみようか、ということなのでしょう、このところこの島々にもUターンする地元出身者が目立つようになり、それに伴い子供の数が増えてます。幼稚園の園児数、今年5人で来年は10人、と倍になります。そして島の小学校では編み物と楽器の演奏は必修科目です。島の未来は明るいです。 しかしアランセーターを編む人は減る一方。割りの悪い内職仕事の編み物に骨のきしむような思いをせずとも生活が成り立つようになったのです。寂しい気持ちにもなりますが、それはひとときの旅人としてのわがままな感想に違いありません。島が近代化され豊かになっていくことは島の人たちにとっての幸福なのですから、それを妨げるような思いを抱いてはいけないでしょう。
 まさかこんな世界の果てのような小さな島々に幾度も来ることになろうとは。訪れるごとにいつしか私の視点は旅人の目なのか島民の目なのか、自分でも分からなくなってきたようなのでした。(弥)

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【倶樂部余話】 No.291 ホストが礼を尽くすようにゲストにも礼儀があるはず(2013.01.17)


 注意書きとかお触れ書きの類いというのは、読まなくても済む人は読んでくれるのに、読んで欲しい人には伝わらないものです。
 当店の入口に「ご来店のお客様へお願い」という小さな掲示をして十年近くになります。お読みいただいた方もいらっしゃるでしょう。同じ文章はHPにも掲載していて、そこにはその理由も述べていますから、HPで読んだという人の方が多いかもしれません。(こちら(ずっと下の方)です。)
 そこには、挨拶をしようよ、とか、両手ポケットはやめようね、とか、商品引っ張るな、とか書き並べていて、要は、余話【165】(2002年10月)で述べているように、自分の店は自宅と同じ、客だから何しても勝手というわけではなく、ホスト(=店)がホストとしての礼を尽くすように、ゲスト(=客)にもゲストとしての礼儀があってしかるべきだろう、ということなのです。
 別に宣伝することでもないし、お客様が自然に覚えていってくれればいいわけでして、今までこれをことさらに取り上げることはなかったのですが、十年経ち、思えば昨今うちのようなタイプの店がこうも減ってしまってはお客様が経験する場もなくなってしまうだろう、ということで、啓蒙というと偉そうですが、今後は少しこんなことにも触れていこうと考えを改めることにしました。これからはちょっと強めに言いますので、どうかご理解の程をお願いいたします。(弥)  

【倶樂部余話】 No.290 師走に思う雑感 (2012.12.24)


★衆院選自民党圧勝。「政権交代とあんまり言うので、どうせ短命だろうからちょっとだけ、のつもりが、まさかあんな素人集団で三年もやり続けるとは。しまったな」と思っていた人たちは、きっと今また「しまった。こんなに大勝させるつもりじゃなかったのに」と感じているはず。得票比率こそが民意のバランスだと思うのだが、大半が死票になって民意が反映されない議席配分というのは、何かおかしいんじゃないだろうか。
★新都知事に猪瀬直樹氏。彼の「ミカドの肖像」を読んだのは1987年、私が三十歳の時で、多方向からの事実を絡め合わせてひとつのストーリーを紡いでいくノンフィクション文学の醍醐味を味わったのがこの作品でした。その八年後私がアランセーターの本を書こうと思いたったとき、おこがましくも(「ミカドの肖像」みたいなノンフィクションが書けたらいいなぁ)と目標にしました。当然その内容は「ミカド…」の足元にも及ばない拙い出来でしたが、私にとって猪瀬氏はある意味、ひとつのきっかけをくれた恩人であるのです。まあ勝手に私がそう思ってるだけですが。
★その拙著は、アランセーターの伝説なんてうそっぱちなんです、と暴露している本では決してないのです。伝説を信じられる心、科学で証明できない何かの存在を信じたい気持ち、そんなものが印象に残せればと願いました。この三ヶ月間のドラマ「ゴーイング・マイホーム」を観て、そんなアイルランドのことを思い出しました。
★この一年間のご愛顧に感謝します。皆様に、メリー・クリスマス。そして良いお年をお迎え下さい。(弥)

【倶樂部余話】 No.289 遠いのに近い、近いのに遠い (2012.12.01)


 11月になるともう次の冬への仕掛けが始まります。
 11/13、恵比寿の某ホテル。英国で六世代三百年の歴史を誇る老舗のネクタイ生地ファクトリーから担当者が来日中で、仲介者を交えて別注タイの打ち合わせ。初対面で大いに緊張しましたが、驚いたのは、申し訳ないくらい少ない本数なのにこちらの希望どおりの配色で注文を受けてくれる柔軟さでした。しかもサンプル織りはたった二週間で作って日本に送ってくる、という驚異的スピード。英国と静岡との距離感を感じることもなく、三百年生き残りの秘訣ここにあり、という気がしました。
 翌週11/20は静岡県磐田市福田(ふくで)地区へ初めてのドライブ。コーデュロイでは国内シェア90%超という一大産地ですが、近年は安価な中国製に押され生産量は減少の一途です。地産地消を振りかざすまでもなく、せっかく地元にいい素材があるのならばこれは是非とも活用してみたい、と思い、新装開店なった織物組合のショップを訪ねました。運良く意欲的な織布ファクトリーの若社長と会うことができ、「高品質な定番のコーデュロイを見本帳を元に少量ずつ適時に仕入れるシステムはないのだろうか」と相談しましたが、なかなか糸口が掴めません。コーデュロイという布は我々の想像以上に作る単位が大きいらしくて、普段何十反の話をしている彼にメーター単位の相談では、どうも「のれんに腕押し」みたいな感触で、小口でエンドユーザーに提案できるような窓口さえ見当たりません。実現までの道のりはまだまだ長いな、と感じました。

【倶樂部余話】 No.288 旅の甘~い(?)思い出 (2012.11.01)


 話題に困ったときは食べ物の話に限ります。美味しかった話だと「そりゃ良かったね」と言われるのがオチなので、今回は旅先で食べたNGなモノを挙げてみることにします。
 アイルランドの田舎町で出された地中海風?豚肉のオレンジソース和え。フィンランド・ヘルシンキ、ラップランド料理店でのトナカイのブラックベリーソース掛け。どちらも甘ったるいジャムがどっさりと乗っていて、肉とフルーツの掛け合わせは、元来から酢豚にパイナップルさえも苦手な私ですから、手を出してはいけないメニューだったのです。肉の量も半端でなく、見ただけでもうすっかり満腹になりました。
 ロンドンのど真ん中ピカデリーサーカスであまりの空腹に慌てて頼んだ餃子。まさに段ボールを噛んでいるようでこれほどダメな餃子は初めて。えてして日本人は中華料理に慣れすぎているので欧州のアレンジには違和感があることが多いです。むしろ韓国やタイ料理の方が中華ほど馴染みがない分だけハズレも少ない、というのが私の経験です。
 さて、最後を飾るのは、27年前、新婚旅行のシンガポール、インド人街でタクシードライバーに連れて行ってもらった「地元で一番美味しい」食堂での、フィッシュヘッドカレー。バナナの葉の上に、魚の頭がどすんと乗った素朴なカレーです。見た目のグロテスクさはともかく、身の締まりがまるで感じられない臭みの残った白身魚には辟易でした。二人して(文字通り)手を付けられず、運転手は「こんなご馳走、もらっていいの?」と大喜びでビニール袋に入れてお持ち帰りしていました。
 何ごとも経験したからこそのこと、旅での苦い、いや甘~い(?)思い出です。(弥)

【倶樂部余話】 No.287 俄(にわか)や擬(もどき)を本物に (2012.10.01)


 ブリティッシュがトレンドらしいのです。五輪の余波なのか、景気後退の閉塞感からの原点帰りなのか、イタリアよりも知性派向きだからなのか、理由はいろいろ挙げることはできるでしょう。
 加えて、アランセーターにも追い風が吹いています。糸井重里氏が気仙沼で仕掛けているプロジェクトの影響もあるのかもしれませんが、近頃の取材申込の状況からも、今年は「来てる」気がします。
 それなら万々歳じゃないですかと言われそうですが、今までの経験では実はそれ程喜んでばかりもいられないのです。
 俄(にわか)ブリティッシュやアランセーター擬(もどき)の人たちには、当店のように流行関係なく主義を貫いた店は敷居が高いのでしょうか、やはりトレンドとして俄や擬を扱う店に走りがちです。それだけならまだいいのですが、以前からの俄や擬ではない本物の方までもが、流行りモノと一緒にされるのはイヤだからしばらく遠慮しとこう、と、へそ曲がりな気を起こしてしまうのです。
 なので、ハヤリとカブるときは要注意、が今までの教訓なのですが、ネットの時代、小さな情報でも確かな情報なら伝わりやすいという世の中になって、ちょっと変わるかなと思っています。俄や擬から本物に転向する比率は従来よりも格段に高くなるのでは。そんな期待を持って迎えた今年の秋冬なのであります。(弥)  

【倶樂部余話】 No.286 ひとり占めの瞬間(2012.09.01)


 二十年振りに富士山に登りました。雲ひとつない地平線の彼方、茨城県あたりから昇る、まるで朝日新聞のような朝日。今まで見たどの日の出よりも美しいものでした。
 剣が峰三七七六㍍の表碑の前には順番待ちの長蛇の列が。そりゃそうです、何時間も登りつめ、そしてあともう少しで日本最高地点の「ひとり占めの瞬間」が手に入るのですから、一時間ぐらい並んだって平気です。
 皆さんは「ひとり占めの瞬間」って意識したことがあるでしょうか。ヒトやモノ、コトを自分だけの物にする一瞬だけの喜びです。有名人と握手したりツーショットを撮る、なんていうのは割と多い体験でしょう。この瞬間は狙って取れるものもあれば、偶然に訪れる場合もあります。人それぞれに聞かれれば驚くような「ひとり占めの瞬間」の経験を持っているのではないか、と思うのです。
 私の自慢の「ひとり占めの瞬間」は二つ。その一、十七年前の秋の早朝、キャピトル東急ホテルの玄関でエリック・クラプトンと二人っきりですれ違ったこと。このときはあまりの驚きに身体が固まりました。その二はアムステルダムのオランダ国立美術館。十年前の冬。フライトの時間が迫り、開館と同時の急ぎ足で、レンブラントの「夜警」へ一番乗りで到達。数分間、あの大きな絵を遠ざかったり近寄ったりと、独占しました。ただ、この二つ、残念なことにどちらも証拠がないのです。写真もなければ目撃者もいない、なので家人は未だに信じてくれません。
 あなただけのひとり占めの瞬間、是非聞かせてもらいたいものです。(弥)

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【倶樂部余話】 No.285 開店25周年記念・プロ棋士たちのスーツ(2012.07.27)


 この秋、この店は開店二十五周年を迎えます。四半世紀。よくまあ続いたもんです。で、記念に当店だけのオリジナルのスーツ生地を作ることにしました。
 服地の別注は、二十周年の時にハリスツイードでやりましたが、このときは既存の生地をベースに、配色を独自に指定し乗せ換えたものでした。それに対し今回はウールの原料から、糸、織り方、配色に至るまで、すべてがオリジナルで、正真正銘世界で当店だけの服地を作ろうという企てですから、実現できるのかどうか、ちょっと冒険でした。
 当初からの私のアイデアはこんなもの。「英国ハリソンズのフロンティアのようなどっしりと重量感のある平織り、仏ドーメルのアマデウスに見られるようなマッターホルンの青空のような鮮やかなブルーを入れたカラー、できれば英国羊毛を使いたい、これを葛利毛織のションヘル織機でスローに織り上げる」という、当店のおいしいところをすべて盛り込んだ「いいとこ取り」。こんな漠然とした着想を持って、五月の雨の日、愛知県一宮市の葛利毛織さんを訪ね、打ち合わせが始まりました。
 感覚的な私の要望に対して、葛利さんは技術者としての裏付けで答える。そんなやりとりの後、膨大な過去の見本帳から小さな端切れを探し出してきました。「求められているのはこんな生地じゃないですか。実はこの服地、プロの将棋差しの方からの要望だったんです。長時間の正座に耐え、シワの復元力も強く、それでいて上半身は動きやすく、かつ長い季節に使えるスーツが欲しい、というものです」それを見た瞬間、私「そう、これです、これ。この感じ」と。
 そこからは意気投合、かくして私のわがままを葛利さんがカタチあるものにしてくれることに。試し織りの見本生地も先日届き、上出来の仕上がりです。開店二十五周年記念、プロ棋士たちのスーツ、いよいよ発売になります。(弥)

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【倶樂部余話】 No.284 いつからセールを始めるか(2012.06.22)


 いつから夏のセールを始めるか、は我が国永遠の議論のようです。三越伊勢丹が従来よりもたったの2週間だけスタートを遅らせると発表したのが意外にも大ニュースになりました。五月にこのニュースが大した関心もない人にまでも周知徹底されたおかげで、かえって世間にセール待ちの空気を強めさせたなんていう皮肉なことにならなきゃいいがな、と思っています。
 フランスではこの議論は起きません。なぜならセールの日程は国の法律で決まっているからで、夏だと六月最終水曜日の朝八時から、なんだそうです。これは民間のことに国が介入していると言うよりも、個人消費を国家経済の重要な要素と捉えていることの現れなんでしょう。国を挙げての一斉スタートですからそりゃお祭りのように盛り上がるはずです。抜け駆けの好きな国民性を持つ日本でこそ、国レベルでこういうルールづくりが検討されていいと思います。高速無料化やエコポイントなんかができるぐらいだから、その気になればすぐに決められるはずでしょ。
 で、当店ですか。盛夏物が少ない、七月が決算、早めに秋物を立ち上がりたい、などの事情もあって、フランスと同時期に始めることにしました。(弥)