倶樂部余話【一七三】顔と名前を覚える(二〇〇三年五月七日)


どれだけ電脳化が進んでも、当店が決してコンピュータを使わず、手作業に固執しているのが、顧客名簿です。

お得意様が見えると、すぐさま名簿から顧客カードを抜き出す。これは絶対にパソコンではできない芸当です。10年来のお客様のカードなどはもうかなり黒ずんでますが、このカードは特殊な紙でできてますので、決して破れることなく、永久に使えるのです。

「客の顔と名前を覚えよ」というのは、当店のような専門店では鉄則中の鉄則で、これには何の疑いもありませんが、時には困ったことも起こります。

お客様にはいろんなタイプの方がいらして、一度会っただけで自然に覚えてしまう方もいれば、申し訳ないのですが、何度お会いしてもどうしても名前が出てこない、という方も、事実、確かにいるのです。まだまだまだ(!)若い相川が抜群の記憶力を発揮しているのに対して、四十半ばを過ぎた私には、その事態がやや増えてきたようです。もしも、あなたの目の前で私たちが「すでにお名前をいただいているのはわかるのですが、え~と…、あの~…」と思い出し始めたときは、すかさず「××の○○です」と、教えて下さると、大変助かります。

もうひとつ、これは、顧客の固定化ということの裏返しになるのですが、匿名性が通じにくくなる、ということです。「ホントはこっそり見に行きたいのだけれど、店に面が割れているので、かえって入りづらくて…」というケースですね。顧客との密着度を高めるほどこの事態は起きることで、事実、先日もあるお客様から同様のご指摘を頂戴しました。ところが、残念ながら、ここで私たちは「知っているのに知らんぷり」のウソがつけないのです。

確かに、人生相談まで打ち明けられる方から、お勤め先すら教えていただけない方まで、お客様が店との間に取る距離感やプライバシーの感覚はさまざまで、その辺の配慮はこちらも充分に心得なければいけないでしょう。

でも、分かって下さい。私たちが、つい、お名前で呼び掛け、似合いそうな品物をお薦めしようとしてしまうのは、これはもう、職業的な習性みたいなもので、お客様にプレッシャーを与えるつもりなど毛頭ないのだということを。「かえって敷居が高くなってしまって…」という声も分からなくもないですが、私たちの打てる手は、その敷居を乗り越えても来たくなるほどに魅力ある店であり続けること、それ以外にはないのだろう、と思います。