倶樂部余話【376】ダブリンにて(2020年2月1日)


昨年の三月のこと。アイルランドでアランセーターについての新しい本が発売されたという話を聞き、早速アマゾンから電子ブックで購入しました。
かつてはマイナーな新刊の洋書を手に入れるのにはそれなりに苦労したものですが、時代は便利になったものです。
ざぁっと目を通してみると、驚きました。出てくる写真は17年前に書いた私の本とほとんど同じ、内容も拙著と大変よく似ているのです。それでいて日本についての記述の部分は的はずれな誤りも多く、そこに紹介されている邦書二冊はどちらも拙著を底本にしているもので、肝心の私の本はどこにも紹介されていません。

「まあ、仕方ないか。この二冊も巻末までちゃんと読めば私がしっかり協力していることはすぐに分かるんだけど、なにせ日本語だし、それに拙著が絶版になってもう随分久しいし、この著者が知り及ばなくても当然だろう。むしろ、今アイルランドで書かれた本が17年前に日本で出た本と偶然にも内容が酷似しているということは、私の本が世界的に見ても普遍性を持っていたことが証明されたようなものだから、これは誇りに思っていいんだよなぁ」などと思い直したのです。

しかしです、このまま拙著の存在を著者に見過ごされたままでいいはずはありません。Facebookによると、近々ゴルウェイの大きな書店で出版記念のサイン会と対談があるらしい、しかもその対談の相手は地元ショップのアン・オモーリャ、とある。
早速アンにメールを入れます。「来週の書店でのイベントのときに、あなたに献本した私の本を持っていって、その著者に見せてあげてほしい」と。

しばらくして、著者ヴァゥン・コリガンから直接メールが来ました。驚きと感謝と謝罪が入り混じった、でもちょっと軽めの文章です。今後はお互いに情報交換をしていきましょう、そして今度ダブリンでぜひお会いしましょう、と約束をしたのでした。

そして年が明けて訪れたダブリン。ミーティングの場所に先に待っていた彼女は、思っていたよりもずっと若い、30代かな。驚いた。そして彼女も驚いたと思う。地球の反対側で17年も前に、8年も掛かってアランセーターのことを調べ尽くした男が目の前にいることに。なんと言うのだろうか、ライター同士だけが共有できるシンパシー、というようなものが、お互いの脳を電波のごとくに走りました。

2019年の今になってまたアランセーターの本が出たのは、決して偶然ではないのでしょう。
毎年のダブリンで通訳とモデルを兼ねて私と半日間同行してくれるミワさんは、アイルランドのファッション事情にとても精通している在愛の日本女性ですが、
会うや開口一番「野沢さん、今アイルランドではアランセーターが流行ってるんです」と言います。「アイリッシュツイードも流行りです」と。アイリッシュネス重視の自国主義の現れか、または最もエコロジカルな素材としてウールが再評価されているからなのか、
ともかくこの20年間、本場のアイルランドでアランセーターが流行りになる、なんて聞いたことがありません。確かにそう言われれば展示会場もダブリンの街角も、若い女性のアラン模様の着用率がいつもより高いことがすぐに見て伺えます。
アラン本の著者ヴァゥンが軽い調子で「次はツイードの本を書くの」と言っていたのを、さもありなん、と思い起こしました。

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翌日のミーティングはアン・オモーリャとアランセーターの打ち合わせ。私はまず「昨日、著者ヴァゥンに会ってね…。ゴルウェイの書店ではいろいろとありがとう……」との冒頭の会話を用意していましたが、アンの口の方が早かった。しかも神妙な面持ち。
「あなたにまず伝えなければならないことがあるの。つい3週間前の1月4日に、イニシマン島のモーリン・ニ・ドゥンネルが亡くなったわ」。ああ、ついにこの日が…。イニシマンにモーリンを訪ねたのは27年前。以来、計4度の訪問。思い出が頭の中をぐるぐると駆け回る。涙が止まらなくなってる自分。

1934年生まれ。6歳から編み物を始める。9歳で母を失くし、10歳にして兄の堅信礼のための白いアランセーターを独力で編む。16歳で父が逝き、兄との貧しい生活。
22歳のとき、ダブリンからやってきたパドレイグ・オシォコンに見い出され、アランセーター生産の島のまとめ役を40年間にわたって務める。26歳で地元男性と結婚、3女に恵まれる。
自らも秀でたニッターとして名を馳せ、1981年にアイルランドを訪れたローマ教皇ヨハネ=パウロⅡ世に献上するアランセーターを編んだ。
国内外のメディアにも数え切れないほど取り上げられた、アイルランド一の伝説のニッター。享年85歳。

「アランセーターは私が編んでいるのではありません。神様が私に編ませてくださっているのです。アランセーターは神様の贈り物なのです」
私の本の結びにも記した、忘れられないモーリンの言葉。彼女のこの言葉がなかったら私は神を信じる者の枝にはもなってなかったことでしょう。そして勝手に思ってました、モーリン、あなたは私の第二の母でした。
これを読む方々にお願いします。どうかモーリンの冥福を祈ってください。
2013年1月。これが最後の面談となりました。

この弔意をどうやってご遺族に伝えることができるのか、ミワさんに調べてもらったら、国中の物故者情報をデータベース化したその名もrip.ieなるサイトがあることを知りました(RIPは、ご冥福をお祈りします、の意の慣用句です)。
ここからモーリンの葬儀情報を得ることができ、そのうえ、そのサイトからクレジットカードで献金を寄せたり、遺族にお悔やみのカードを送ることもできるのです。なんと便利で役立つサイトでしょう。
こんなサイトがどこの国にもあればいいのに、と思いますが、葬儀ビジネスが高額高利益の寡占事業化している日本ではおそらく無理なことでしょうね。
そして、今日、このサイトからメールが入り、無事にご遺族にメッセージをお届けしました、との報告がありました。

例年の海外出張報告よりもずいぶん長くなってしまいました。
ダブリン2泊の業務の後、帰りに妻とローマ観光1泊をして
今年もイスタンブール経由で無事に帰国しました。(弥)