倶樂部余話【369】聖火ランナーの思い出(2019年7月1日)


私は12歳まで東京の杉並区に住んでいて、明治八年創立という歴史ある小学校で過ごした私の六年間は、1964年のオリンピックに始まり1969年の月面着陸で終わりました。

青梅街道の沿道に出て聖火ランナーに日の丸の小旗を振った小学1年生のときの体験は今でもはっきりと目の中に焼き付いています。開会式の前日、雨の降りそうな曇り空の下、白バイとパトカーに先導されて遠くから見えてくる聖火の白い煙…。何度もリハーサルまでやった旗振りで、実際には一瞬の出来事だったんでしょうが、記憶の中では右から左に走る抜ける聖火ランナーの姿がスローモーションのように思い浮かびます。

朝ドラの「ひよっこ」は、その1960年代の東京と北茨城の生活を対比するように描いていました。新幹線、高速道路、高層ビル、オリンピック、ビートルズ、公害、全学連…、目まぐるしく変わっていく東京。あの朝ドラを見ながら、ああ、あの時代に東京に住んでいたということは、とんでもなく貴重な経験だったんだなぁ、と、感慨にふけっていたものでした。

で、今度は大河ドラマです。「いだてん」ですね。こっちへの思いはちょっと複雑です。大河ドラマ、イコール、過去の歴史、なんですが、今回に至っては私の生きてきた時代が含まれるわけです。つまり、現代を生きているつもりの私の時代がついに過去の歴史の分野に足を突っ込んでしまった、ということなんですね。おそらく最終回近くのクライマックスの場面に聖火ランナーは登場することでしょう。きっと私はそのシーンに涙しながらも、もうお前は過去の人になったんだよ、と誰かに言われたような寂しい気持ちを覚えるんじゃないか、とびくびくしているのです。すでにシナリオを書き終えたという宮藤官九郎さん、どうかそういう寂しさを感じないような脚本であることを祈ってます。

新元号・令和の祝賀ムードをどうしても手放しで喜べないのは、昭和がより遠くへ行ってしまったと感じるからでしょう。自分が過去になっていくことへの抗(あらが)いなのかもしれません。そうか、きっと先人たちもみんなそんなことを感じた時期があったんだろうなぁ、そしてそれを人は老化というのだろうか、なんて思ってます。いかんいかん、まだまだ私は現在の人です、過去に足を突っ込んだりはしてませんよ。未来を見るのです。(弥)