倶樂部余話【374】若者はおおむね正しい(2019年12月3日)


今年は人類が月面に初着陸して五十年だそうです。1969年。当時の私、小学六年生の十二歳。今思ってもパソコンもない時代にすごい事ができたものだと感動します。その年の一月、東京大学安田講堂を占拠していた大学生が機動隊に「落城」しました。テレビはその一部始終を中継し、機動隊に引きずり出される学生の姿を見ながら、私はこう思っていました。「大人の権力に向かって石を投げる姿、なんてかっこいいんだろう。自分も大学に入ったら、学生運動に加わりたい」。そう、全学連に憧れた少年だったのです。もちろん小学生ですから思想的な背景などまったく理解していなかったのは言うまでもありません。クラス一の悪ガキで校内の問題児だった私でしたが、ちょうど小学校卒業と同時に杉並から湘南に引っ越すという転機にあたり、自分の過去を知るものが誰もいない真新しい環境で、中学時代はひたすら生徒会活動に没頭、職員室に突っ掛かってばかりいました。かばんには毛沢東語録(読んだことはなかった)、下駄を履いて髪を伸ばして、深夜放送にフォークソング…、まさに反抗期の真っ只中、今思うと大人の手のひらの上で勝手に踊っていただけのかわいい行動ではありましたが、当時は精一杯に気張っていたのでした。

そして、いつも思っていたことがありました。どうして大人は判ってくれない。若者は思いつきで言っているように見えるかもしれないが、本当はとても考えている。毎日毎日大人の何倍も何倍も考えている。対して大人は考えているふりをして実はあんまり考えてなくて、ただ経験でモノを言っているに過ぎないことがあまりにも多すぎる。そうだ、私は誓おう、若者はいつも考えている、そしておおむね正しい、と思おう。自分が将来どれだけ大人になっても絶対にそう思い続けよう、若者は大人が思うよりもずっとずっと考えている、そして大概は正しい、と。

子育てのときには、この誓いを守ることが時に呪縛となるような思いに至ったこともありましたが、その誓いは今でも間違ってなかったと感じています。ただそれは私の中にずっと、大人になんかなりたくない、子供のままでいたい、という甘ったれた感情があったからではなかったか、と振り返るのです。反発できる対象としての大人が常にいたからです。

そのことに気づいたのは、両親を失ってからでした。人は親が生きているうちはいくつになっても子供のままなんです。親を失くして初めて気づく感情、あ、もう私は子供ではないんだ、と知るのです。それでも私はこの誓いを曲げません。若者はおおむね正しい。

香港の学生デモの騒動、大河ドラマ「いだてん」の64年東京五輪への道のり、ローマ教皇の来日。そんなこんなの映像を見ていてたら、昔の話を思い出していました。
幸多き年の暮れでありますように。メリー・クリスマス。(弥)