倶樂部余話【363】気の毒↔気の薬(2018年12月25日)


いま日本で一番気の毒な人は誰、と言われたら、私は横綱稀勢の里関を挙げます。昇進の機会を何回も寸前で逃しながらようやく掴んだ日本人久々の横綱の座。
横綱はじめての場所ではつらつと12連勝した矢先にモンゴル人横綱相手に大怪我を食らう。
この怪我の代償はあまりにも大きくて、以来もう今までのような相撲を取ることがかなわず、勝ったり負けたり休んだり、
一場所も思い通りの横綱相撲を取らないうちに早くも引退の危機を迎えています。

世界に目を向けると、世界気の毒大賞は、英国首相のテリーザ・メイ女史じゃないでしょうか。
ブレクジット(英国のEU離脱)は何をどう考えても壁だらけで、新聞見出しは、四面楚歌とか八方ふさがりとか、出口のない迷路をさまよっているようです。
もともと離脱反対派だった彼女なのに、首相候補者がみんな降りてしまってやむなく首相に。
なんであたしがこんなことやんなきゃいけないのよ、って、思ってるに違いありません。
そもそもブレクジットを望んでいる人ってホントにいるんでしょうか。そのうちに再度の国民投票で離脱撤回、大山鳴動鼠一匹というオチになるんじゃないのかなぁ。

さて、ここでは気の毒という言葉を、いわば甚だ不本意を強いられて同情を禁じ得ない、というような意味合いで使いました。
でも、なんでそれが毒なんだろうと思って、調べてみたら、気の毒の反対語というのがあって、気の薬、と言うんだそうです。今では死語ですが、江戸時代には気の毒よりもむしろ気の薬のほうがよく使われていたらしいです。
そもそも気の毒も気の薬も、他人に対してではなく元々は自分に対して言うものでした、気の病、みたいに。
不得手なもの苦手なことが気の毒で、得意なもの楽しいことが気の薬、でした。それがだんだん自分じゃなくて他人を指すようになり、気の毒だけが悲しくて同情するという意味で残ったらしいのです。
でも気の薬っていい言葉だと思いませんか。他人に対して言うなら、つまり、嬉しくなって喜んで大いに共感してしまう、心の良薬になる、という意味になるでしょう。死語にしておくには惜しい、ぜひ復活させたい思いやりに溢れた言葉じゃないでしょうか。
さしずめ、おとといの天皇陛下の平成最後の誕生日メッセージ、涙が出ました。これには陛下ご夫妻に気の薬を頂戴した思いです。

今日はクリスマス。今年は公私共々本当にいろんな事がありましたが、なんとか平和な気持ちでこの日を迎えることができています。
メリークリスマス。今年一年の皆様のご贔屓に感謝いたします。明くる年も皆様の気の薬になれますように、変わらぬご愛顧を願います。良い年をお迎えください。(弥)

倶樂部余話【362】ラジカセが基準(2018年12月1日)


久々にビートルズをちゃんと聴き直してみると、なんだか変なんです。何百回と聴き馴染んでるはずなのに、「あれ、こんな音入ってたっけ」と驚いたり「えっ、ここ、こんな控えめな音だったか」と不安を覚えたり、と、私の記憶の中にこびりついているサウンドと明らかに違いがあるのです。

もちろん、加齢による聴力の低下が一因であろうことはわかっています。が、どうもそれだけではないようです。思えば、当時はまだウォークマンすらない時代、レコードから録音したカセットテープを安いカーステレオやラジカセでガンガンとしかもトーンコントロールも勝手気ままに動かしながら聴いていたのですから、振り返るとかなり劣悪な音響環境でした。今日(こんにち)iPhoneに高性能のヘッドホンを繋いで聴くのとはそりゃ違いがあって当然でしょう。でもここでそれを慣用句的に雲泥の差とは言いたくないのです。脳裏にある当時のサウンドも私にとっては泥ではなく最高の雲の音なんですよ。

そうやって考えてみると、同じ曲も誰ひとりとして同じに聞こえていないんですね。百人いたら百通りの聞こえ方がある。これ、確かめようもないけどきっと事実なんです。同様のことは色についても言えます。同じ絵を見ても、私が見ている青色とあなたが見ている青色はきっと違うはずなんです。しかしどうかすると私たちは、自分の音や色を他人にも同じように聞こえたり見えたりしてるんだろうと考えてしまいがちです。あなたと私とでは、聞こえる音や見える色が違うんだ、という前提でいないといけない。ひとりひとり違っているのが普通のことなんです。

そんなことを十二月の倶樂部余話には書こうかな、と思いつつ、竹内まりやのシアタームービーを妻と映画館で観ていたら、彼女は最終のサウンドチェックをラジカセから流れる音で判断する、というではないですか。いつも「最高の選曲・最高の音質」と豪語する山下達郎のデジタル機器いっぱいのスタジオの中にポツンと置かれたラジカセ。この音を判断基準にするなんて、なんと心憎いことをしてくれるじゃないですか。

まもなくジョンの38回目の記念日。今年の12月8日はカセットにラジカセでイマジンを聞いてみようかな。 (弥)

倶樂部余話【361】 私に起きた冠婚葬災+祭(2018年11月1日)


今までに数百組の顧客のご夫婦からお二人の誕生日と結婚記念日を伺ってきましたが、あるとき不思議なことに気が付きました。
この3つの記念日は本来なんの関係もないのに、なぜか集中する傾向にあるということです。
春夏型と秋冬型に分かれるのです。恐らくこれはそのご家族が持っている質(たち)みたいなものなのかな、と思います。
そして、我が家は、といえば、完全な秋冬型。とりわけこの十月の私の身辺への集中は凄まじいものでした。
他人の動静なんて興味ないかもしれませんが、まあ聞いてください。

10/4、入院中の89歳の義母が逝去。10/7、同葬儀。
10/17、80歳で召天した父の7周年。10/18、私達夫婦の33年目の結婚記念日。
10/21、28歳の長女の結婚式披露宴、東京で。
10/25、60歳の私、自転車で右折車と衝突。救急車で運ばれるも幸い軽傷。
10/27、妻、還暦の誕生日。
10/28、92歳の義父、我が家に引っ越して同居に。10/29、義父母の借家宅の片付け撤去明渡し。

と、お悔やみやらお祝いやらお見舞いやら労(ねぎら)いやら、ひとつひとつが一話になってもいいようなことばかり。
冠婚葬「災」入り混じりのひと月で、こんな慌ただしい1ヶ月はもちろん初めてです。

打ち止め、10/31、76歳のポール・マッカトニーに会いに東京ドームへ。感激。まさに大団円の「祭」でありました。(弥)

 

倶樂部余話【360】ポープ・フランシスPope Francis(2018年10月1日)


ローマ法王のことを英語ではポープpopeと言います。
2013年に就任したイタリア系アルゼンチン人でイエズス会出身のフランシスコ(英語読みでフランシスFrancis)はとても積極的に世界中の国々を訪問していて、
来年には日本にもやってきて長崎を訪れるのではないか、という話も出ています。
そのポープ・フランシスがこの8月にアイルランドを訪れました。

アイルランドはカトリックの国ですが、近頃は何かと教会のスキャンダルが多く、故にポープの来愛はことのほか話題になったのですが、首都ダブリンの大きな公園での特別ミサに、ポープ自身は50-60万人の参加を呼びかけたのに、20万人しか集まらなかった、と報道されていました。
え、ちょっと待って。アイルランドの人口が480万人だから60万人は全人口の1/8でしょ、いくらなんでもそりゃ大風呂敷じゃないの、いくら見積もりよりも激減したとはいえ、実際に20万人も集まったんでしょ、さすがアイルランドでのカトリックの力はすごいもんじゃないの、と、私なんかは思ってしまうのですが、そうじゃないみたいなんです。
1979年のダブリンのミサ
前回にポープがアイルランドを訪問したのは約40年前の1979年。
その当時の法王、ヨハネ・パウロⅡ世(英語読みだとジョン・ポール・セカンドJohn-PaulⅡ。全然違う人みたいですね)のダブリンでのミサには、なんと100万人以上が集まった(ある記事では150万人とも)という事実があるのです。
当時の全人口の1/3が一つの場所に集まったというのですから、ポープ・フランシスが、せめてその時の半分ぐらいは集めたいよね、と、期待しても無理もないことだったかもしれません。

さて、ここまで書いて、ああ野沢はまたきっとあの話を持ち出すんだな、と、思った方、正解です。
自分の本にも13年前の倶樂部余話【195】(2005年4月)にも書いたことです。
ポープといえば献上アランセーターです。40年前にアラン諸島きっての名ニッター、モーリン・ニ・ドゥンネルが編んでポープに捧げられた白いアランセーターがあったのです。
7-157.献上セーター

今年のポープ・フランシスもアイルランド西岸のゴルウェイ近辺へも訪問しているのですが、そのときにアランセーターが渡されたという報道はどこからも流れていません。多分そういうことはなかったんでしょう。ちょっと残念です。
もしそんな話があったのなら、誰が編んだんだろうな、とか、贈呈式に出るのはアン・オモーリャなのかな、とか、勝手に想像をしていました。

それにしてもポープの権威というのが我々の想像を遥かに超えるものなんだということがよくわかりました。大国の元首に匹敵するほどでしょう。
そして、私はまた編み手のモーリンを思い出します。
献上セーターのくだりを、私は自慢話は好きじゃないから、と自ら話さずに、もどかしくなって代わりに話し出した娘の姿をじっと見つめていた誇らしげな笑顔。モーリン、我が心の母、です。
モーリン
1987年の開店から32回目の秋です。店名が変わったり場所が変わったり業態が変わったりと、変遷はありますが、この時期の身の引き締まるようなでもわくわくした思いはいつも変わりません。
今シーズンもこの小さな場所でたくさんの人に会えればいいなぁ、と思っています。(弥)
倶樂部余話【195】(2005年4月)

私の書いた本「アイルランド/アランセーターの伝説」

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倶樂部余話【359】トルコ・ショック(2018年8月28日)


写真はトルコリラ。私のパスポートケースに入ったままのものです。
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毎年一月のダブリン往復にたまたま五年前に乗ったのがターキッシュ・エアウェイズ。気に入って昨年まで四年続けて使いました。その四年目の昨年のこと、イスタンブール行きのエコノミークラスはほぼ満席、座席下の電源コンセントが見つからず難儀していたのを親切に助けてくれたのが通路を挟んで隣の席にいたトルコ人のK氏でした。愛知県を拠点に木材の貿易をやっていて、日本語も英語も達者な彼は、トルコでもかなりのエリートに違いありません。いろんな話ができて、日本とトルコとの関係がとても友好的であることもわかり、楽しい時間を過ごしました。

着陸態勢に入りかけた頃、彼が真剣な顔でそっと言うのです。「トルコリラは買っとくといいですよ。10年前に100円近かったのが今では35円ぐらいと、ピーク時の3分の1になりましたけど、ここが底です。これ以上は下がりません。必ず上がって、じきに倍の70円も望めます。金利も17%とむちゃくちゃ高いですし、絶対に買いです」

株と為替はやらないと決めている私ですが、この手の話をこれほどはっきりと勧められたのは初めてで、彼の人柄からも信用できたので、かなり心が動きました。しかし現実的に投資に回せるような資金の余裕もなかったのでそのままにしていたのです。でも彼の言葉はずっと忘れられず、手元に残ったトルコリラはそのまま持ち帰って、毎日の新聞で動向を見続けていたのでした。

そしたら、なんてこった。あれよあれよと下がり続け今月はついに16円を割りました。倍になるどころか半分以下になっちゃったのです。当時5,000円で交換した手元の130リラは9,000円に化けるはずの皮算用でしたがあっという間に2,000円にまで落っこちました。このお札を眺めていると、為替に手を出すことの怖さが実感できます。

いやぁ、話を信じて財産失わなくてよかったよ、と笑い話ですみましたが、それにしても思い出すのはK氏のナイスガイな笑顔です。もし彼があのままに自説を貫いていたなら今ごろ大損しているはず。彼は一体どこで何をしているのだろう。(弥)

倶樂部余話【358】一杯のうな丼(2018年7月27日)


高校大学と、学生時代にはいろんなアルバイトを経験しました。まずは年賀状の赤い自転車乗りから始まり、お中元の配達や漬物の訪問販売、選挙事務所の手伝いなどなど。中でも一番思い出深いのが、高二の冬休み、鎌倉の有名なうなぎ店、浅羽屋でのバイトです。

集まった数名のバイトの面子も、横須賀のスケバン仲間っぽい女子だったり、歳をごまかして働いてた不良中学生だったり、と、普段は知り合えない大変ユニークな面々で、男子は皿洗い、女子は配膳が基本の仕事でしたが、ときどき交代で務める下足番の役がとても人気でした。なぜなら初詣帰りの作家や俳優、政財界などの有名人が多数座敷に上がりますし、なによりたまに帰り際にチップをくれる方もいたのです。下足番に靴べらを返しながら「ごちそうさま。銀座の何がしよりもよほどうまい」などと言われると自分のことのように嬉しく思えたものでした。(そりゃそうです、この店は、作り置きをせず、その日のうなぎはその日の朝に仕入れてさばく、という主義を貫いてきたのです。それでいて銀座の一流店よりもずっと手頃な価格設定でした)

一代で店を大きくした大将がこれまた豪快な人で、由比ヶ浜で揚げる四千枚の連凧で当時のギネスブックにも載った人。閉店後には洗い場の裏にある五右衛門風呂から陽気な鼻歌が聞こえてきました。

暮れから正月の慌ただしさも一段落して松も明ける頃、夜になってその親爺さんが我々に声を掛けます。「今日で上がりの者は何人だ。座敷ヘ行ってろ」。この声を待ってました。そう、この店では最終日のアルバイトに、主人がうな丼を振る舞ってくれるのです。これに感動しない者は一人もいないでしょう。いつか自分の銭でウチのうなぎを食いに帰って来いよ、という親父さんからの暗黙のメッセージは、未来の顧客を創造する適策でもあったのだと感じます。

あれから43年、忘れてたわけではないのですが、24歳で静岡へ移り住んだこともあり、なかなか鎌倉でうなぎを食する、という機会のないままに今に至りました。この夏、うなぎの不漁や高騰が以前にも増して話題になり、これからもうやすやすとうなぎを食べたりなんかできないなあ、どうせなら最高のうなぎを鎌倉に食べに行こうか、と、思い出の店の名を検索したところ、なんてことだ、五年前の正月明けに閉店したというではないですか。地元新聞の記事で二代目が語っていますが、要は、不漁と高騰のために店の理想と掲げる質と量と価格のバランスが取り切れない、ということのようでした。守ってきた店のポリシーを貫けなくなったのですね。さぞ辛い決断だったに違いありません。

浅羽屋がなくなってるなんて思ってもいませんでした。もっと早くに行かなければいけなかったのだ。一杯のうな丼に込められた親爺さんの顧客創造手段は決して間違ってなかった、ただ私が遅すぎたのです。すまない、大将。これからもうなぎの季節が近づくたびに同じことを思い出すのでしょうが、この後悔の思いを自分の中だけに閉じ込められなくて、今回の倶樂部余話に託すことにしました。

あ、もう一つ思い出が。このときの横須賀のツッパリ女子高生から私は初めてバレンタインのチョコをもらったのでした。(弥)

浅羽屋閉店の記事

倶樂部余話【357】私の大発見?(2018年6月28日)


この色をあなたは何色といいますか。ここに私の大発見?があるのです。
橙・レンガ
オレンジ色ですか。みかん色とか橙(だいだい)色とも言いますね。とすれば白などの鮮やかな色との組み合わせで夏のスポーティな装いなどに使えます。
同じ果物でも柿の色と捉えると秋の始まりのウォーム感のあるコーティネートを考えられます。
テラコッタやレンガなど焼き物の色と見ると一転してシックな雰囲気になります。
また赤茶色と茶系の範疇として考えるとこれはあらゆる中茶色使いに置き換えが可能です。
かように同じ色なのに解釈次第で汎用性が広がる、まあそれほどポピュラーな色ではないですが、これは使えるテクとして覚えておいて損はないでしょう、と。
このことは誰からも読んだり聞いたりしたことがないのでもしかしてこれは私の大発見じゃないか、と、思ったりするのです。そんなわけないか。

このことは最初からその汎用性を狙っていたのではなくて、使っているうちにあとから気が付いたことです。
きっと誰にでもそういう発見があるでしょうから、あなたの発見もぜひ教えてもらいたいものです。顧客みんなで共有しましょう。

最近、コレ意外にいろいろ使えるんだ、と実感したのが三年前に作ったこの靴。
アデレード
スーツ着用のドレススタイル(ただしフォーマルには不適)からチノパンやデニムはてはショーツまでのカジュアルなシーンまで、
そして晴れの日も雨の日も、夏でも冬でも、これ一足ですべてを賄ってくれます。
気取りのないエッグトゥのラスト、英国伝統のクラシカルなデザインのアデレード型内羽根セミブローグ(ストレートチップ=一文字型)、これもフルブローグ(ウィングチップ=オカメ型)ほど目立たないのが奏功しています。
ネイビーの革は、黒ほどキリリとしてなくてまた茶色ほど柔らかすぎず、そんなにピカピカに磨かなくても味わいがあります。
できれば体のどこかにブルー系の色を使うことで色のはしごを掛けてあげればネイビーは思いの外使いやすい色だと知りました。
更に特筆すべきはこのソール。宮城興業が開発したオリジナルのタフスタッズというラバーソールですが、これがとても快適です。
今まで所詮ゴム底は革底の代用品に過ぎないという一歩見下した認識しか持っていなかった私ですが、その考えを改めました、これはいいです。
底の返りも履き心地も革底と比して全く遜色ないし、雨を気にする必要もなく、そして大変丈夫。週二回ほどのペースで履き続けて三年経ちましたが、何しろ底がほとんど減ってないのがお分かりでしょう。

靴でこれほど「使える」と実感した発見はこれが初めてです。もしも、次の靴何にしようか、と思案中の方がいるのなら、私はこれを強力に推奨します。ただし私とお揃いでも構わない、という方に限りますが。(弥)

倶樂部余話【356】ごめんね…ジロー(2018年5月30日)


今週末から始める靴のイベントのオマケにラーメンを付けることを思い付きました。なので、少しラーメンの話を。

時々自分のフェイスブックに写真を載せたりするので、私が結構なラーメン好きであることは知る人ぞ知るところであろうかと思いますが、私の場合その嗜好にかなりの偏りがありまして、生粋の二郎系、いわゆるジロリアンであります。
二郎旧店舗
生粋の、と言うには理由があります。何しろ学生時代に週二回ほどのペースで食し続けたラーメン二郎。当時は三田二丁目のT字路の角に貼り付いていた、慶大生のための極めて特殊な食べ物で、大豚ダブルをぺろりと平らげていたのだから若かったんでしょうが、今のように多店舗化されさらにその亜流も全国に続々と広がるなんて、思いもよらないことでした。勝手に思っていることなんですが、私がビートルズの武道館公演に行った人を無条件に尊敬してしまうように、二郎の旧店に通い詰めてた当時の慶大生は二郎系ファンから圧倒的なリスペクトを受けてもいいと、そのくらい思い入れは強いんです。未だに月に一度ぐらい、無性に食べたくなる、決して身体にいいとは思わないのですが、心の中にまで染み込んでしまった味なんですね。
二郎
ただ、ラーメンほど個人の好みの違いが様々なジャンルはないでしょう。十人いたら十人が異なるお気に入りを持っているはずです。なので、私は決して自分のラーメンの趣味を人に押し付けたり勧めたりすることはしません。そう思っている私ですが、昨年山形で食した赤湯ラーメン、このスープは、ぜひ一度味わってみて欲しい、と人に勧めたい気になったのです。その原料は30種類とも40種類とも言われる複雑な配合のスープ、これは称賛に値します。
赤湯ラーメン
ところで、なんで靴にラーメンなの、という点です。もうおわかりの方もいるでしょう、当店のオーダーシューズを担ってくれる素晴らしいファクトリー、宮城興業。そのスタッフに連れて行ってもらったのが赤湯ラーメン、ということで、靴もラーメンも赤湯(山形県南陽市)の特産、どちらも「こんなことできるのは世界でここだけ」、という唯一無二の赤湯つながりです。
CS-107 ES_37カタログ
靴を作ってラーメンを貰おう、というキャンペーン。オマケの方を取り上げてしまったのでなんだか本末転倒のように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。ただ、赤湯つながりなので、今回のオマケは二郎系ではありません。ごめんね…ジロー by 奥村チヨ。(弥)

倶樂部余話【355】セクハラ王はリーゼントだった(2018年4月26日)


さて次は何を書こうか。スーツの注文も欲しいところだから、「No More映画泥棒」みたいなスーツでは信用をなくすよね、なんていう話題にしようか。いやいやそれじゃあまりに小賢しいから、たまには政治ネタで、北朝鮮、シリア、TPP,憲法改正と議論すべき題材は山積みなのになぜ国会はいつまでも森友問題ばかりやってるんだ、とぼやこうか。と、つらつら原稿を書き始めたところに、なんだかテレビに見覚えのある顔が現れてきた。あれ、福田くんじゃないか。財務省事務次官だったのか。

母校・神奈川県立湘南高校の体育祭。これは単なる運動会ではなくて、仮装、バックボードなどの数々のパートで構成され、一年生から三年生までの縦割りで9つの色に分かれて競い合う一大行事なのだが、私が三年のとき同じセクシヨンにやってきた一年生の中に彼がいた。リーゼントヘアの面白い男で、ふてぶてしくも人懐っこい笑顔をみせる、俗にいう「いい奴」で、わずか何ヶ月間の交流にもかかわらず私には強烈な印象が残っている。ちびっ子ギャングこと麻生財務相にとても可愛がられたというのも頷ける。

世の中寄ってたかってセクハラ批判の嵐の中で、以下のような発言は、周囲から総スカンを食らうのかもしれないが、私にとってはいい思い出のある可愛い後輩である、一方的に責められるばかりじゃかわいそうだよ、という思いが首をもたげてきて、あえて彼を少し擁護したくなってきた。

つまり「セクハラがバレたら辞職しなくちゃいけないの?」である。もしそうなら世間のかなりの男性社会人は今すぐ辞表を出さねばならなくなる。痴漢したとか汚職だとか公文書偽装とかではないのだ。そもそもセクハラというのは、下ネタやわい談や口説き文句との境目がかなり曖昧、時と場所と相手によって、同じ言葉でも持つ意味が変化してくる。なのにパワハラやいじめに比べてセクハラに対してだけどうして正論まかりとおる、という風潮になってしまうのだろう。ついでに言うなら、新潟の県知事が女性問題で辞めたがあれも辞める必要はないと思う。もちろんセクハラも買春も褒められたことでないのは当然だが、せっかく原発反対という民意を反映した知事を選んだのに、勝手に辞められてしまっては、新潟県民にとっては損失になったのではないだろうか。

フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブは二年ほど前にハリウッドでの行き過ぎたセクハラ批判に違和感を表明して物議をかもした。ところが今これだけ我が国でセクハラの話題が沸騰している時なのに、日本のカトリーヌ、第二のドヌーブのような存在が誰も現れない。日本のマスコミ報道に正論一辺倒の偏りを感じるのは私だけなのだろうか。

週刊誌にはセクハラの王とまで書かれて、もう福田くんは日本中の女性の敵。自分の知り合いが日本で一番の時の人になる、などという機会はなかなかないもの。もうこの先も多分ないだろう、珍しい体感をしたものだと思っている。(弥)

倶樂部余話【354】ふたつの動揺(2018年3月22日)


正直に言います。この一ヶ月あまり、ちょっと仕事をサボった感じになっていました。言い訳になりますが、ふたつの動揺に苛まれていたのです。

ひとつは、ダブルワークの確定に思いのほか時間がかかってしまったことでした。一部の方にはお話しましたが、今回の店舗移転を契機に、自身のダブルワークをもくろんでいたところ、これが当初の思惑通りに進まず、条件等が合わなくてかなりもたつきました。そのことが主な原因で定休日や営業時間がなかなか決められず、一度は一旦決めたもののまたすぐに変更したり、と、この動揺は明らかにお客様にも感づかれたことと想像します。野沢は一体何をしているのか、と不安を感じられた方もいたことでしょう。結局は、毎週の火曜水曜とそれに加えて第一第三の日曜という店休日、と、従来とほぼ変わらない営業体制に戻せることが出来ました。こう決めるのに、実に五週間を要してしまいましたが、もう当分はこれで変えませんのでご安心を。

さてもう一つの動揺、これは全く私的なことなのですが、二月の初めに娘からある人に会ってほしいとの話があり、にわかに花嫁の父という役どころが舞い込んできたことでした。例の、お嬢さんを下さい、の「親父の一番長い日」から始まり、両家の顔合わせ、教会での婚約式、と、怒涛の一ヶ月が、実に慌ただしく、また今までに経験したことのないおかしな感情がおろおろと次々に湧き上がる中であっという間に過ぎていったのです。これで秋の挙式までは一段落というところなんですが、そんな中で変わらずに仕事が進められるほど私は図太い人間ではなかったようでした。

でみんな聞くのです、「一発殴らせろ」ぐらい言えたの、と。んな、とんでもない。じゃ腕相撲で勝負だ、と寸前までそんなジョークも考えましたが、結局は、ふつつかな……、としか答えられませんでした。あー、私は小物だ、情けない。(弥)
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