倶樂部余話【368】過熱化する靴磨きについて(2019年6月1日)


近頃の靴磨きブームの端緒となった男がいるのですが、彼が路上で従来型の靴磨きをやっているときにこう思ったそうなんです。客と同じ高さの目線で靴を磨きたい、と。この話を聞いて、私は昔母に言われたことを思い出してしまいました。当時ジーンズショップに勤務する私を訪ねてきた母、何本も裾上げのピンを打つ私の姿を見て、なんか悲しくなってきた、と言い出したのです。客の足元に跪(ひざまず)いて下を向いて裾口を整えている姿が、ご主人様に傅(かしず)く家来か奴隷のような屈辱的な構図として母の目に映ったのでしょう。もちろんそのときの私には客に足蹴にされているような感覚は微塵もありません。なにしろ裾上げはしゃがまなければできないのですし、短時間で客も立ってます。その構図のまま会話を長く続けることも滅多にないのです。だから母の言葉は全くの的外れでしたが、ああ、自分の母親は息子の姿を見てそういうふうに思うものなんだと、妙に記憶に残ったのでした。

しかし靴磨きとなると、もう少しその屈辱的な印象は増すのかもしれません。客は長時間椅子に座ったまま、靴磨き屋はずっと傅いたまま、その構図で接客の会話もしなければなりません。しかも対象物は、ずっと外を歩いてきて何を踏んできたのかもわからない汚れた靴なのです。じゃあ、目線を同じ高さにしたらどう変わるのか。それはコロンブスの卵、だったのかもしれません。

かくして、その思いを昇華したカタチが、スーツを着てバーカウンターで一時間の差し向かい、一足磨いてドリンク付きで数千円、というスタイルです。靴磨きが水商売化したのです。悪い意味で言うのではありません、靴磨きが水商売並みの高付加価値を持つようになったのですから、これは画期的です。一時間で数千円、キャバクラへ行こうか、ショーパブにしようか、手品を見せるスナックか、それとも今夜は靴磨きバーへ、とそういう選択肢に加わったのです。予約も取りづらいほどの人気らしいし、プロのシューシャイナーになりたいという追随者が全国各地に雨後の筍ように増加中なのです。

一方で、靴作りに詳しい知人はこう言います。靴作りの職人は、裁断、縫製、釣り込み、底付け、仕上げ、などに分かれますが、おそらく技術の習得が一番簡単なのは仕上げ(靴磨き)でしょう。元手もそれほど掛かるとは思えません。なのに靴磨き職人が靴修理職人などよりも高い付加価値を取るっていうのは違和感があります、と。別の人からは、明らかに革のためには良くないだろうという磨き方を積極的に薦めるシューシャイナーがいるのはいかがなものだろうか、と苦言を呈しています。

確かに靴磨きが過熱気味であることは間違いないです。メディアへの露出もずいぶん増えました。 どのお酒で磨くとどう光るかの比較などはジョークとしか思えませんし、世界選手権の開催なんてアイドルの総選挙じゃあるまいし、と感じたりします。まあ、話題作りのひとつと、目くじらを立てることもないのでしょう。

個人的な意見をいうなら、私は、顔が映るほどに鏡のように仕上げた靴は好みません。なぜ男性はディナースーツ(タキシード)のときだけエナメルのオペラパンプスを履くのか、を考えてみればわかることです。ピッカピカに光る靴はよほどの場面でなければ過剰演出でしょう。日本庭園の掃除師は花びらや落ち葉を全部掃かずに目立たぬ所に必ず少しだけわざと残しておくものだそうです。靴も同じじゃないかな。もちろん、汚れているとか磨いてない、なんていうのは論外ですが、目立だぬところに使えば必ず付くぐらいの小さな傷があってもいい、そのくらいの、ちょっとスキのあるような風情が私は好きなんですね。

今年も今月から靴のイベントが始まります。今回、初めてプロの靴磨きを特典に付けてみたので、こんな話を余話として書いてみました。(弥)