【倶樂部余話】 No.250  一生モノって何だろう (2009.11.1)


 「こだわる」という表現はあまり好きじゃない、と五年ほど前に書きました(余話No.183 2004.2.26)が、もう一つ、やたらに使って欲しくはないな、と思うのが「一生モノ」という言葉です。
 一生モノの財布が欲しいんです、とか、このダウンは一生モノですよね、などと二十代の若い人から言われると、確かにそれらはロングセラーだし長持ちもしますから、大事に愛着を持って使ってもらえると嬉しいです、と願う反面で、だけど君の一生は多分あと五十年はある、その五十年ずっとこれを使い続けて買い換えもしないというわけではないだろう、と、言いたくなってしまうのです。
 自分の身の回りで若い頃から30年以上使い続けているモノを見渡してみると、ホチキスや定規などの何でもない文房具だったり、服ならダンガリーのシャツとかブランドも忘れてしまったスウェットパンツだったりなど、単に継続の結果としてこれからも一生付き合うんだろうなぁ、という他愛のないモノばかりです。死ぬまで使うぞ、など気負った意識で買ったモノなど残っちゃいません。体型も生活環境も流行も、みんな変わっていくのですから。もちろん使わないけど思い出や資料として保管してあるモノはあります。でも、モノは使ってなんぼ、でしょ。 どうも今の「一生モノ」という言葉には、「これ以上のモノはないよ」と他人が言うのなら、という他力本願的な依存心や、「もうこれで打ち止めにしてモノは買わないぞ」という消費への消極性が見えるような気がするのです。長く使いたい、という気持ちはとっても嬉しいのですけれどね。
 かつて、これは間違いなく一生モノだろうと思い、我がアランセーターの恩師故パドレイグ・オシォコン氏にこう尋ねたことがありました。「アランセーターは一生涯死ぬまで使えますよね」 その答えはなんと「ノー」。続く言葉に私は驚きました。「三世代は着られるよ」(弥)