倶樂部余話【八十一】勉強机(一九九六年三月一一日)


さて、其ノ二です。

自分の息子の勉強机に大変立派な木製の机を買い与えた先輩がいました。「子供にそんな高価な机なんか…」という周囲の反対にその先輩は主張しました。「どんな安物だとしても、勉強机は捨てられないで残る。どうせ残るならいいものを残してやりたい」と。

確かに、私の机も日本地図が印刷された安物でしたが(私は地図が大好きなのでした)、少し前まで家の片隅にありました。思えば、その机の上では若き日の喜怒哀楽の数々が何度も繰り返されてきたわけで、言うなれば、子供の勉強机というのは主婦の台所みたいな存在なのだなあ、と、この先輩の話にいたく感動したのでした。

この春、上の娘が小学校に上がることになり、かような思いを持つ私は、娘と一緒に勉強机を作ることにしました。と言っても、鋸やカンナの技術は持ち合わせていないので、当店でカタログ販売している米国製のキット家具(一階でサイフなどを陳列しているガラスケース、あれは私が塗装、組立した見本です)で、ロールトップデスクを取り寄せました。

二月に取れた久々の連休。天気は上々、いよいよ制作です。一日目、すべてのパーツを庭の芝に広げ、サンドペーパーで磨くこと、延々半日以上。それからオイルを塗ってまた軽く磨き十二時間放置。二日目、二度目のオイル塗りの後、さらにワックス塗り、そして念入りに磨く。夜になってようやく組立開始。とうとう深夜二時、ジャバラのついた立派な机が完成しました。

六歳と三歳、二人の娘は手伝ったというか邪魔したというか、それでも「ここはあたしが塗ったところ」「このクギも自分で打ったよ」と、大変ご満悦。ピカピカのランドセルを乗せて、じっと机を眺めているところを見ると、少しは愛着を感じてくれてはいるようです。

春は名のみ、つかの間の休日の出来事でした。

倶樂部余話【八十】アイルランドからの訃報partⅡ(一九九六年三月一一日)


二月号が出せなかったので、今回は合併号で二本立てです。まず其ノ一。

前号で、九十才で急逝したアイルランドのおじいちゃんの墓参りに「行ってきます」と飛んだ、帰国報告から。

ダブリン郊外の丘陵中腹の墓地にある翁の墓は、ほかの墓と違って、古代のストーンヘンジさながらに、自然の石を積み重ねて墓石にしたユニークなものでした。大戦で長男を亡くしたときに翁自身のアイデアで作ったとのこと。土葬のため、真新しい土が掛けられ、花に埋もれたその下に、大恩人のお爺ちゃんが横たわっているかと思うと、止めどなく溢れ出る涙を押さえることができませんでした。

翁の後継者として従来から実務全般を担当してきたご子息ルーリィ氏とは、今後の対策などを徹底的に議論しましたが、彼は、翁の父が大英帝国議会のアイルランド代表の議員だったこと、そして若かりし日の翁がアイルランド独立運動の論客戦士だったことなど、初めて話してくれました。

また、たまたまダブリンのパブで隣になった青年は、アラン島から出稼ぎに来ている漁師で、「島の者で彼の死を知らない人間は一人もいないよ。彼が島の人々の生活を支えた功績は誰もが知ってる有名な話だからね。」と教えてくれました。

更に、先日お会いした文京女子短大のマッケルウェイン教授は「彼はケルト文化の研究者としてもとても名の知れた男だったんですよ」と語ってました。

死して初めてその故人の本当の偉業を知る、ということは往々にしてあることですが、これほどの功績のある翁が最後まで息子に譲らなかった日本でのビジネス。私はそのパートナーとして死の一ヶ月前に権限を任命されました。私には、運命的としか思えない、その意義と重責を心に命じ、翁の遺志を守る決意を固め、帰国したのです。

倶樂部余話【七十九】アイルランドからの訃報(一九九六年一月一三日)


昨年暮れ、ちょうど前号の原稿を仕上げた直後でした。一通のファックスがアイルランドから入信しました。あの「アランセーターのおじいちゃん」パドレイグ・オシォコン翁の訃報、九十才の大往生でした。

今まで何度か当報で翁の紹介をしていますが、彼は私の人生を変えるほどの大恩人でした。彼との出会いがなければ私がここまでアランセーターに心血を注ぐこともなかったでしょう。

四十年程前までアランセーターは家族のためだけに編まれていたに過ぎないものでした。アラン諸島の経済は大変貧しく、またセーターの伝統の灯も消えかかっていたようです。これを憂いていた若い政府職員が翁に相談したのがきっかけで、彼はそれまでの弁護士の職を辞し、アラン諸島へ乗り込み、家々をおかみさんたちの説得に回りました。「私が注文を出すから、セーターを編んでくれないか」と。一九五七年のことです。

また、歴史家としてアランの風俗習慣を熱心に調査し、数冊の著作も残しています。島の貧困を救い、伝統工芸を守ってくれた彼の功績に島の年寄りたちは今でも彼に感謝しています。アイルランド国内ではアランセーターのための特殊な編み糸を確保するために奔走し、また出来たセーターを抱えて世界各地に売り込みにも行きました。

とても日本が好きで、この二十年来、年に一~三回のペースで来日していました。亡くなる二週間前にも東京と大阪に数日間、私と一緒に滞在し、私とのアランセーターの日本代理人契約に喜んでいた矢先の出来事でした。

アランセーターの復興と普及に自らの後半生を賭けた尊敬すべき頑固なアイリッシュの冥福を祈り、その遺志を日本で何としても守り続けていく私の決意を墓前に伝えるため、急遽ダブリンへ飛ぶことになりました。しばしの不在をお許し下さい。行って参ります。