倶樂部余話【一九五】ローマ法王昇天に思う(二〇〇五年四月一〇日)


私の手元にある一枚の写真。先般昇天したローマ法王ヨハネ=パウロⅡ世が真っ白なアランセーターを手にしながら微笑んでいる姿があります。これは、このセーターを編んだ名ニッター、アラン諸島イニシマン島のモーリンさん宅に飾られていたものを私が複写したもので、1981年に法王がアイルランド・ゴルウェイに来訪した際に、地元の教会からセーターを献上されたときの一場面なのです。
Pope

 「アランセーターは、神が私に編ませて下さる、神様からの贈り物なんです。」と語るまでの熱心なカトリック信者である彼女にとって、献上セーターを編んだということは、この上ない名誉に違いありません。しかも彼女のもとには、その後法王自身からのお礼の手紙が届いたのです。「あなたの編んだセーターをスキーに着て行きました。素晴らしいセーターをありがとう」と。私は「その手紙を見たい」と頼みましたが、「それは誰にも見せたことがないの。」と丁重に断られました。きっと、誰彼に見せびらかすようなこともせず、彼女の何よりの宝物として、大切にしまっておきたいものだったのでしょう。

私は、一昨年、思うところがあり近隣のとある教会の枝となることを決めましたが、このモーリンさんの「神への思い」に深く感銘を受けたことがそのひとつの契機でありました。きっと、今頃彼女は誰にも見せなかった法王からの手紙を手にとって祈りを捧げていることと思います。

 私はと言えば、「あの献上セーターはこの先どこへ行ってしまうんだろう」と下衆(げす)な心配をしているのですが。 

倶樂部余話【一九四】スーツは年収の1%(二〇〇五年三月九日)


スーツに関して、私の独断的な私見を述べます。

【スーツ・年収1%の法則】

スーツほど、ピンからキリまで、価格の幅のある商品もないと思います。下は5,000円から上は500,000円とすると、その違いは100倍にもなります。いったい自分はいくらのスーツを買ったらいいんだろう、という疑問があってもおかしくはないはずです。まあ、何にいくら使おうが個人の自由ですから、本来余計なお世話であることは承知の上で、規範付けが好きな日本男性のために何らかの法則性はないものか、と考えてみました。

かつて背広がすべて誂え物であった時代には、背広一着は大卒初任給の何ヶ月分、というように言われていました。それに倣って、こんな目安はどうでしょうか。

多少とも自らの装いへの興味を自負する男性であるならば、「スーツの価格は、年収の1%を基準に、かつ2%が上限」とするのです。例えば、年収800万円の方とすると、8万円は掛けて欲しいし、と言って、掛けても16万円まで、となります。(2%を越えると、生活にアンバランスが生じる恐れ大です!)

この法則、何の根拠もなく、いまだ誰一人言い出したこともないのですが、経験上、割と的を得ているラインだと思っています。いかがでしょうか。もちろん、使用頻度や関心の強弱によっての個人差も大きいものですから、あくまでも目安ということですが…。

なお、ご注文時に当方への確定申告は一切不要ですので、念のため。

【そのスーツ、何年着たいですか?】

何年持つかという耐久性の話ではありません。その気になれば、20年でも30年でも着られるのがスーツですから。ここで言うのは、向こう何年間ぐらい着ることを想定するか、ということです。これにはふたつの要因があり、流行やトレンドをどのくらい取り込んでいくか、と、今後の体型変化の可能性、このふたつの兼ね合いなのです。

30代後半までは、幾分は流行の要素も取り入れて、また体型の変化も予測されますから、5年ぐらいを目途に考えたいものです。40歳を過ぎたら、徐々にトレンドとは距離感を離しつつ、その分、品質に重きを傾け、「10年スーツ」を目指していって良いのではないでしょうか。

これも、職業や趣向によって差があって当然で、一概には言えませんが、まあ、トレンドてんこ盛りスーツを着た「50代・行き過ぎオヤジ」も、何の挑戦心も若さも感じられない「20代・トッチャンボーヤ」も、どちらも、あまり好ましいものではないなぁ、と、私は感じているのです。

倶樂部余話【一九三】アイルランドとフィンランド(二〇〇五年二月一一日)


 恒例の、海外出張報告をいたします。

 今回は、10度目のアイルランド(3)と初めてのフィンランド(3)という旅程でしたが、この二つの国、割と共通点が多いように感じます。

 ヨーロッパの西端と北端に位置し、ともにヨーロッパではフリンジ(辺境)に当たりますし、人種も、アイルランドは旧東独あたりを発祥とし西に移動して英仏海峡を越えたケルト族、フィンランドはハンガリー周辺から北に移動しエストニアを経てバルト海を渡ったフィン族、と、ゲルマンでもラテンでもスラブでもないヨーロッパの少数派です。また、アイルランドはイングランドに、フィンランドはスウェーデンとソビエトに、長く支配され続け、どちらも散々辛酸を味わった末にようやくの独立を果たした共和国ですし、かつては貧しい農林水産国だったのが、教育重視の政策によって先端のIT工業国に変貌を遂げつつあるユーロ圏の優等生、という点も同じです。

文化的に見ても、クリスマスはもともと古代ケルトの冬至祭がルーツで、そのクリスマスに登場するサンタクロースの故郷はフィンランドです。岩や森など自然物への崇拝意識も強く(岩盤を掘り下げたヘルシンキのテンペリアウキオ教会はアイルランドの古代遺跡ニューグレンジにそっくりでした)、そこには今も妖精が宿っていると信じられています(ムーミンはカバじゃなくてトロルという妖精の一種です)。何より、両国の伝統音楽の調べがとてもよく似ているのには驚きました。

 

さて、アイルランドでの主な仕事は、例年と同じく、ダブリンで年に一度開催される一大展示会(700社が出展)でいろんな商材を探すことでした。この展示会、従来はアイルランドの業者が国内や英米に向けて販売する、という姿勢が強かったのですが、今年目立ったのは、アイルランド国内へ向けて売り込みに来ている英国企業がとても増えているということでした。恐らく、アイルランドの国内消費がかなりの活況を呈しているということの現れだと思います。消費が伸びていると、人はいいモノを買いたがるようになります。だからでしょう、かつては野暮ったさが売り物といった感のあったアイルランド製品も、このところかなりソフィスティケート(洗練化)されてきて、価格ということではないユニークさで、再び国際競争力を取り戻してきているように感じました。

従来から当店と取引のある10数社のアイルランド企業とは概ね満足のいく商談が進められましたし、またいくつかの英国企業とダブリンで商談を済ますことができたことは、大変好都合でした。

 旅慣れたダブリンを後にして、初のヘルシンキへ。フィンランドでの主目的は、ダウン製品(ヨーツェン)の工場を視察することでした。この見学レポートは、今秋の納品時に改めて詳しく述べたいと思いますが、期待を裏切らない素晴らしい現場でした。氷河の雪融け水と電力という豊富な資源、最新技術での徹底した品質管理、そして人間の目と手の力量、この三位一体が見事で、人の手を掛けるべきところと人手を省きテクノロジーを駆使すべきところのメリハリが実に効いている工場でした。ここのダウンを販売できることにますますの喜びを覚えました。

週末は、ヘルシンキの街を散策。ロシアの影響が色濃い街ですが、なにせ零下10℃の凍てつく街角、何度もツルリンしましたし、世界遺産スオメンリンナ島の要塞では腰まで雪に溺れました。「北欧の人はその寒さをも楽しむようにニコニコ元気に街を闊歩している」などとガイドブックにはありましたが、とんでもない、現地の人だって寒いときはやっぱり寒そうな顔をして背中を丸めてましたよ。

フィンランドを始め北欧というと「デザイン」という言葉が浮かびますが、この国には、スプーン一本から巨大な建物に至るまで、人の造作物であれば必ずデザイン(意匠)がある、という意識が根付いているように感じました。人が英知を尽くした技、ということへの評価が高いんです。知的財産権こそは立派に確立されたこの国の誇りなんですね。

食べ物ですか。トナカイの肉に木の実のジャムを掛けて食べる味覚にはいささかついていけませんでしたが、魚介類はどれも新鮮で概ね美味でした。土産には珍しい缶詰をやたらに買い込みました(私、実はちょっと缶詰マニアです)。トナカイの煮込み、熊のシチュー、鰯入りのパン、サンタ印の虹マス……。まだどれも開けてませんが、そのうち闇(やみ)鍋でもやろうかと……。

倶樂部余話【一九二】メンクラ街アイ世代に告ぐ(二〇〇五年一月一〇日)


 45歳以上の男性客のご来店が確実に増え始めました。かつて当社が運営していたJACKKENT当時の顧客であった方も少なくなく、「お帰りなさい」といった感があります。また、こちらとしても仕入れの際に「昔取った杵柄」が役に立つ機会が増えたように思います。
 ただ「なんだか懐かしいなぁ。今どきまだこんな店があったんだねぇ」などと言われると、当方としては、嬉しいやら悲しいやら、ちょっと困惑してしまうのです。

 そもそも、なぜ多くのメンズショップが消滅していったのに、当店は潰れずに存続できているのか、を考えてみて欲しいと思うのです。前者は「待てど暮らせど来ぬ」客を宵待草のごとく待ち続け、あげくに客と心中していってしまったのですけれど、当店は、確かに「英国気質」を軸にしましたが、しかし「トラッドは永遠に変わらない」という狂信的妄想からは抜け出して、運良くその客層を20代後半の男女にまで拡げることができたからだ、と思っています。そう、うちは、遺跡でも博物館でもないんです。ファッションはらせん階段、同じところに戻っているようで実は違う場所にいる、その変化が容認できず「昔と違うじゃないの」と化石の頭脳でノスタルジックに懐古されても、それは筋違いというものです。

 それから、「メンクラ街アイ世代(雑誌「メンズクラブ」の名物企画「街のアイビーリーガーズ」にちなんで)」に相変わらず多いのが、まだ地図帳にソビエトや東独があった頃に学んだカビまみれの服飾知識を話したいだけ話して、それでいて商品はろくに見ないで帰る人。「釈迦に説法」とまでは言いませんが、すでに私はそんな方を暖かく容認する寛容さを持ち合わせなくなりました。消えていった仲間たちの店の轍を踏みたくはありませんし、昨今の「オトナの復権」(あるいは、決して好きな表現ではありませんが、「ちょいワル、モテるオヤジ」のブーム、とも言います)は、その経済力が基盤になっているのですから、若い頃は大目に見てくれただろうそんな冷やかしも、いい大人になればそうそう通用はしないものだと考えていただきたいと思うのです。

 今回はいささか挑発的に書きました。愛すべき兄貴たちにいつまでも素晴らしいお客様であり続けていて欲しいという思いから、発奮を願ってあえて辛口にいたしましたので、どうかご容赦下さい。