倶樂部余話【360】ポープ・フランシスPope Francis(2018年10月1日)


ローマ法王のことを英語ではポープpopeと言います。
2013年に就任したイタリア系アルゼンチン人でイエズス会出身のフランシスコ(英語読みでフランシスFrancis)はとても積極的に世界中の国々を訪問していて、
来年には日本にもやってきて長崎を訪れるのではないか、という話も出ています。
そのポープ・フランシスがこの8月にアイルランドを訪れました。

アイルランドはカトリックの国ですが、近頃は何かと教会のスキャンダルが多く、故にポープの来愛はことのほか話題になったのですが、首都ダブリンの大きな公園での特別ミサに、ポープ自身は50-60万人の参加を呼びかけたのに、20万人しか集まらなかった、と報道されていました。
え、ちょっと待って。アイルランドの人口が480万人だから60万人は全人口の1/8でしょ、いくらなんでもそりゃ大風呂敷じゃないの、いくら見積もりよりも激減したとはいえ、実際に20万人も集まったんでしょ、さすがアイルランドでのカトリックの力はすごいもんじゃないの、と、私なんかは思ってしまうのですが、そうじゃないみたいなんです。
1979年のダブリンのミサ
前回にポープがアイルランドを訪問したのは約40年前の1979年。
その当時の法王、ヨハネ・パウロⅡ世(英語読みだとジョン・ポール・セカンドJohn-PaulⅡ。全然違う人みたいですね)のダブリンでのミサには、なんと100万人以上が集まった(ある記事では150万人とも)という事実があるのです。
当時の全人口の1/3が一つの場所に集まったというのですから、ポープ・フランシスが、せめてその時の半分ぐらいは集めたいよね、と、期待しても無理もないことだったかもしれません。

さて、ここまで書いて、ああ野沢はまたきっとあの話を持ち出すんだな、と、思った方、正解です。
自分の本にも13年前の倶樂部余話【195】(2005年4月)にも書いたことです。
ポープといえば献上アランセーターです。40年前にアラン諸島きっての名ニッター、モーリン・ニ・ドゥンネルが編んでポープに捧げられた白いアランセーターがあったのです。
7-157.献上セーター

今年のポープ・フランシスもアイルランド西岸のゴルウェイ近辺へも訪問しているのですが、そのときにアランセーターが渡されたという報道はどこからも流れていません。多分そういうことはなかったんでしょう。ちょっと残念です。
もしそんな話があったのなら、誰が編んだんだろうな、とか、贈呈式に出るのはアン・オモーリャなのかな、とか、勝手に想像をしていました。

それにしてもポープの権威というのが我々の想像を遥かに超えるものなんだということがよくわかりました。大国の元首に匹敵するほどでしょう。
そして、私はまた編み手のモーリンを思い出します。
献上セーターのくだりを、私は自慢話は好きじゃないから、と自ら話さずに、もどかしくなって代わりに話し出した娘の姿をじっと見つめていた誇らしげな笑顔。モーリン、我が心の母、です。
モーリン
1987年の開店から32回目の秋です。店名が変わったり場所が変わったり業態が変わったりと、変遷はありますが、この時期の身の引き締まるようなでもわくわくした思いはいつも変わりません。
今シーズンもこの小さな場所でたくさんの人に会えればいいなぁ、と思っています。(弥)
倶樂部余話【195】(2005年4月)

私の書いた本「アイルランド/アランセーターの伝説」

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倶樂部余話【359】トルコ・ショック(2018年8月28日)


写真はトルコリラ。私のパスポートケースに入ったままのものです。
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毎年一月のダブリン往復にたまたま五年前に乗ったのがターキッシュ・エアウェイズ。気に入って昨年まで四年続けて使いました。その四年目の昨年のこと、イスタンブール行きのエコノミークラスはほぼ満席、座席下の電源コンセントが見つからず難儀していたのを親切に助けてくれたのが通路を挟んで隣の席にいたトルコ人のK氏でした。愛知県を拠点に木材の貿易をやっていて、日本語も英語も達者な彼は、トルコでもかなりのエリートに違いありません。いろんな話ができて、日本とトルコとの関係がとても友好的であることもわかり、楽しい時間を過ごしました。

着陸態勢に入りかけた頃、彼が真剣な顔でそっと言うのです。「トルコリラは買っとくといいですよ。10年前に100円近かったのが今では35円ぐらいと、ピーク時の3分の1になりましたけど、ここが底です。これ以上は下がりません。必ず上がって、じきに倍の70円も望めます。金利も17%とむちゃくちゃ高いですし、絶対に買いです」

株と為替はやらないと決めている私ですが、この手の話をこれほどはっきりと勧められたのは初めてで、彼の人柄からも信用できたので、かなり心が動きました。しかし現実的に投資に回せるような資金の余裕もなかったのでそのままにしていたのです。でも彼の言葉はずっと忘れられず、手元に残ったトルコリラはそのまま持ち帰って、毎日の新聞で動向を見続けていたのでした。

そしたら、なんてこった。あれよあれよと下がり続け今月はついに16円を割りました。倍になるどころか半分以下になっちゃったのです。当時5,000円で交換した手元の130リラは9,000円に化けるはずの皮算用でしたがあっという間に2,000円にまで落っこちました。このお札を眺めていると、為替に手を出すことの怖さが実感できます。

いやぁ、話を信じて財産失わなくてよかったよ、と笑い話ですみましたが、それにしても思い出すのはK氏のナイスガイな笑顔です。もし彼があのままに自説を貫いていたなら今ごろ大損しているはず。彼は一体どこで何をしているのだろう。(弥)

倶樂部余話【358】一杯のうな丼(2018年7月27日)


高校大学と、学生時代にはいろんなアルバイトを経験しました。まずは年賀状の赤い自転車乗りから始まり、お中元の配達や漬物の訪問販売、選挙事務所の手伝いなどなど。中でも一番思い出深いのが、高二の冬休み、鎌倉の有名なうなぎ店、浅羽屋でのバイトです。

集まった数名のバイトの面子も、横須賀のスケバン仲間っぽい女子だったり、歳をごまかして働いてた不良中学生だったり、と、普段は知り合えない大変ユニークな面々で、男子は皿洗い、女子は配膳が基本の仕事でしたが、ときどき交代で務める下足番の役がとても人気でした。なぜなら初詣帰りの作家や俳優、政財界などの有名人が多数座敷に上がりますし、なによりたまに帰り際にチップをくれる方もいたのです。下足番に靴べらを返しながら「ごちそうさま。銀座の何がしよりもよほどうまい」などと言われると自分のことのように嬉しく思えたものでした。(そりゃそうです、この店は、作り置きをせず、その日のうなぎはその日の朝に仕入れてさばく、という主義を貫いてきたのです。それでいて銀座の一流店よりもずっと手頃な価格設定でした)

一代で店を大きくした大将がこれまた豪快な人で、由比ヶ浜で揚げる四千枚の連凧で当時のギネスブックにも載った人。閉店後には洗い場の裏にある五右衛門風呂から陽気な鼻歌が聞こえてきました。

暮れから正月の慌ただしさも一段落して松も明ける頃、夜になってその親爺さんが我々に声を掛けます。「今日で上がりの者は何人だ。座敷ヘ行ってろ」。この声を待ってました。そう、この店では最終日のアルバイトに、主人がうな丼を振る舞ってくれるのです。これに感動しない者は一人もいないでしょう。いつか自分の銭でウチのうなぎを食いに帰って来いよ、という親父さんからの暗黙のメッセージは、未来の顧客を創造する適策でもあったのだと感じます。

あれから43年、忘れてたわけではないのですが、24歳で静岡へ移り住んだこともあり、なかなか鎌倉でうなぎを食する、という機会のないままに今に至りました。この夏、うなぎの不漁や高騰が以前にも増して話題になり、これからもうやすやすとうなぎを食べたりなんかできないなあ、どうせなら最高のうなぎを鎌倉に食べに行こうか、と、思い出の店の名を検索したところ、なんてことだ、五年前の正月明けに閉店したというではないですか。地元新聞の記事で二代目が語っていますが、要は、不漁と高騰のために店の理想と掲げる質と量と価格のバランスが取り切れない、ということのようでした。守ってきた店のポリシーを貫けなくなったのですね。さぞ辛い決断だったに違いありません。

浅羽屋がなくなってるなんて思ってもいませんでした。もっと早くに行かなければいけなかったのだ。一杯のうな丼に込められた親爺さんの顧客創造手段は決して間違ってなかった、ただ私が遅すぎたのです。すまない、大将。これからもうなぎの季節が近づくたびに同じことを思い出すのでしょうが、この後悔の思いを自分の中だけに閉じ込められなくて、今回の倶樂部余話に託すことにしました。

あ、もう一つ思い出が。このときの横須賀のツッパリ女子高生から私は初めてバレンタインのチョコをもらったのでした。(弥)

浅羽屋閉店の記事

倶樂部余話【357】私の大発見?(2018年6月28日)


この色をあなたは何色といいますか。ここに私の大発見?があるのです。
橙・レンガ
オレンジ色ですか。みかん色とか橙(だいだい)色とも言いますね。とすれば白などの鮮やかな色との組み合わせで夏のスポーティな装いなどに使えます。
同じ果物でも柿の色と捉えると秋の始まりのウォーム感のあるコーティネートを考えられます。
テラコッタやレンガなど焼き物の色と見ると一転してシックな雰囲気になります。
また赤茶色と茶系の範疇として考えるとこれはあらゆる中茶色使いに置き換えが可能です。
かように同じ色なのに解釈次第で汎用性が広がる、まあそれほどポピュラーな色ではないですが、これは使えるテクとして覚えておいて損はないでしょう、と。
このことは誰からも読んだり聞いたりしたことがないのでもしかしてこれは私の大発見じゃないか、と、思ったりするのです。そんなわけないか。

このことは最初からその汎用性を狙っていたのではなくて、使っているうちにあとから気が付いたことです。
きっと誰にでもそういう発見があるでしょうから、あなたの発見もぜひ教えてもらいたいものです。顧客みんなで共有しましょう。

最近、コレ意外にいろいろ使えるんだ、と実感したのが三年前に作ったこの靴。
アデレード
スーツ着用のドレススタイル(ただしフォーマルには不適)からチノパンやデニムはてはショーツまでのカジュアルなシーンまで、
そして晴れの日も雨の日も、夏でも冬でも、これ一足ですべてを賄ってくれます。
気取りのないエッグトゥのラスト、英国伝統のクラシカルなデザインのアデレード型内羽根セミブローグ(ストレートチップ=一文字型)、これもフルブローグ(ウィングチップ=オカメ型)ほど目立たないのが奏功しています。
ネイビーの革は、黒ほどキリリとしてなくてまた茶色ほど柔らかすぎず、そんなにピカピカに磨かなくても味わいがあります。
できれば体のどこかにブルー系の色を使うことで色のはしごを掛けてあげればネイビーは思いの外使いやすい色だと知りました。
更に特筆すべきはこのソール。宮城興業が開発したオリジナルのタフスタッズというラバーソールですが、これがとても快適です。
今まで所詮ゴム底は革底の代用品に過ぎないという一歩見下した認識しか持っていなかった私ですが、その考えを改めました、これはいいです。
底の返りも履き心地も革底と比して全く遜色ないし、雨を気にする必要もなく、そして大変丈夫。週二回ほどのペースで履き続けて三年経ちましたが、何しろ底がほとんど減ってないのがお分かりでしょう。

靴でこれほど「使える」と実感した発見はこれが初めてです。もしも、次の靴何にしようか、と思案中の方がいるのなら、私はこれを強力に推奨します。ただし私とお揃いでも構わない、という方に限りますが。(弥)

倶樂部余話【356】ごめんね…ジロー(2018年5月30日)


今週末から始める靴のイベントのオマケにラーメンを付けることを思い付きました。なので、少しラーメンの話を。

時々自分のフェイスブックに写真を載せたりするので、私が結構なラーメン好きであることは知る人ぞ知るところであろうかと思いますが、私の場合その嗜好にかなりの偏りがありまして、生粋の二郎系、いわゆるジロリアンであります。
二郎旧店舗
生粋の、と言うには理由があります。何しろ学生時代に週二回ほどのペースで食し続けたラーメン二郎。当時は三田二丁目のT字路の角に貼り付いていた、慶大生のための極めて特殊な食べ物で、大豚ダブルをぺろりと平らげていたのだから若かったんでしょうが、今のように多店舗化されさらにその亜流も全国に続々と広がるなんて、思いもよらないことでした。勝手に思っていることなんですが、私がビートルズの武道館公演に行った人を無条件に尊敬してしまうように、二郎の旧店に通い詰めてた当時の慶大生は二郎系ファンから圧倒的なリスペクトを受けてもいいと、そのくらい思い入れは強いんです。未だに月に一度ぐらい、無性に食べたくなる、決して身体にいいとは思わないのですが、心の中にまで染み込んでしまった味なんですね。
二郎
ただ、ラーメンほど個人の好みの違いが様々なジャンルはないでしょう。十人いたら十人が異なるお気に入りを持っているはずです。なので、私は決して自分のラーメンの趣味を人に押し付けたり勧めたりすることはしません。そう思っている私ですが、昨年山形で食した赤湯ラーメン、このスープは、ぜひ一度味わってみて欲しい、と人に勧めたい気になったのです。その原料は30種類とも40種類とも言われる複雑な配合のスープ、これは称賛に値します。
赤湯ラーメン
ところで、なんで靴にラーメンなの、という点です。もうおわかりの方もいるでしょう、当店のオーダーシューズを担ってくれる素晴らしいファクトリー、宮城興業。そのスタッフに連れて行ってもらったのが赤湯ラーメン、ということで、靴もラーメンも赤湯(山形県南陽市)の特産、どちらも「こんなことできるのは世界でここだけ」、という唯一無二の赤湯つながりです。
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靴を作ってラーメンを貰おう、というキャンペーン。オマケの方を取り上げてしまったのでなんだか本末転倒のように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。ただ、赤湯つながりなので、今回のオマケは二郎系ではありません。ごめんね…ジロー by 奥村チヨ。(弥)

倶樂部余話【355】セクハラ王はリーゼントだった(2018年4月26日)


さて次は何を書こうか。スーツの注文も欲しいところだから、「No More映画泥棒」みたいなスーツでは信用をなくすよね、なんていう話題にしようか。いやいやそれじゃあまりに小賢しいから、たまには政治ネタで、北朝鮮、シリア、TPP,憲法改正と議論すべき題材は山積みなのになぜ国会はいつまでも森友問題ばかりやってるんだ、とぼやこうか。と、つらつら原稿を書き始めたところに、なんだかテレビに見覚えのある顔が現れてきた。あれ、福田くんじゃないか。財務省事務次官だったのか。

母校・神奈川県立湘南高校の体育祭。これは単なる運動会ではなくて、仮装、バックボードなどの数々のパートで構成され、一年生から三年生までの縦割りで9つの色に分かれて競い合う一大行事なのだが、私が三年のとき同じセクシヨンにやってきた一年生の中に彼がいた。リーゼントヘアの面白い男で、ふてぶてしくも人懐っこい笑顔をみせる、俗にいう「いい奴」で、わずか何ヶ月間の交流にもかかわらず私には強烈な印象が残っている。ちびっ子ギャングこと麻生財務相にとても可愛がられたというのも頷ける。

世の中寄ってたかってセクハラ批判の嵐の中で、以下のような発言は、周囲から総スカンを食らうのかもしれないが、私にとってはいい思い出のある可愛い後輩である、一方的に責められるばかりじゃかわいそうだよ、という思いが首をもたげてきて、あえて彼を少し擁護したくなってきた。

つまり「セクハラがバレたら辞職しなくちゃいけないの?」である。もしそうなら世間のかなりの男性社会人は今すぐ辞表を出さねばならなくなる。痴漢したとか汚職だとか公文書偽装とかではないのだ。そもそもセクハラというのは、下ネタやわい談や口説き文句との境目がかなり曖昧、時と場所と相手によって、同じ言葉でも持つ意味が変化してくる。なのにパワハラやいじめに比べてセクハラに対してだけどうして正論まかりとおる、という風潮になってしまうのだろう。ついでに言うなら、新潟の県知事が女性問題で辞めたがあれも辞める必要はないと思う。もちろんセクハラも買春も褒められたことでないのは当然だが、せっかく原発反対という民意を反映した知事を選んだのに、勝手に辞められてしまっては、新潟県民にとっては損失になったのではないだろうか。

フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブは二年ほど前にハリウッドでの行き過ぎたセクハラ批判に違和感を表明して物議をかもした。ところが今これだけ我が国でセクハラの話題が沸騰している時なのに、日本のカトリーヌ、第二のドヌーブのような存在が誰も現れない。日本のマスコミ報道に正論一辺倒の偏りを感じるのは私だけなのだろうか。

週刊誌にはセクハラの王とまで書かれて、もう福田くんは日本中の女性の敵。自分の知り合いが日本で一番の時の人になる、などという機会はなかなかないもの。もうこの先も多分ないだろう、珍しい体感をしたものだと思っている。(弥)

倶樂部余話【354】ふたつの動揺(2018年3月22日)


正直に言います。この一ヶ月あまり、ちょっと仕事をサボった感じになっていました。言い訳になりますが、ふたつの動揺に苛まれていたのです。

ひとつは、ダブルワークの確定に思いのほか時間がかかってしまったことでした。一部の方にはお話しましたが、今回の店舗移転を契機に、自身のダブルワークをもくろんでいたところ、これが当初の思惑通りに進まず、条件等が合わなくてかなりもたつきました。そのことが主な原因で定休日や営業時間がなかなか決められず、一度は一旦決めたもののまたすぐに変更したり、と、この動揺は明らかにお客様にも感づかれたことと想像します。野沢は一体何をしているのか、と不安を感じられた方もいたことでしょう。結局は、毎週の火曜水曜とそれに加えて第一第三の日曜という店休日、と、従来とほぼ変わらない営業体制に戻せることが出来ました。こう決めるのに、実に五週間を要してしまいましたが、もう当分はこれで変えませんのでご安心を。

さてもう一つの動揺、これは全く私的なことなのですが、二月の初めに娘からある人に会ってほしいとの話があり、にわかに花嫁の父という役どころが舞い込んできたことでした。例の、お嬢さんを下さい、の「親父の一番長い日」から始まり、両家の顔合わせ、教会での婚約式、と、怒涛の一ヶ月が、実に慌ただしく、また今までに経験したことのないおかしな感情がおろおろと次々に湧き上がる中であっという間に過ぎていったのです。これで秋の挙式までは一段落というところなんですが、そんな中で変わらずに仕事が進められるほど私は図太い人間ではなかったようでした。

でみんな聞くのです、「一発殴らせろ」ぐらい言えたの、と。んな、とんでもない。じゃ腕相撲で勝負だ、と寸前までそんなジョークも考えましたが、結局は、ふつつかな……、としか答えられませんでした。あー、私は小物だ、情けない。(弥)
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倶樂部余話【353】シンパって死語なのかな(2018年3月1日)


はじめは女子カーリングぐらいしか興味のなかった平昌冬季五輪でしたが、思いのほか熱くなって各競技に見入ってしまいました。そこで浮かんできたのがシンパという一語でした。

異国間のライバルだとか、兄弟や姉妹、恩師と弟子の関係や、先達と後進、歳の近い先輩後輩、など、その間柄は様々ですが、両者は、時には反発し合い、また時には励まし合い、また慰め合いながら、苦しみや悩みを共通体験としつつ、そのうえで、相手の喜怒哀楽を自分のことのように分かち合える、その相手同士にしか理解できないだろう共鳴する感情。友情とか愛情というような簡単な言葉では言い表せない、この濃い感情をなんと呼ぼう、シンパシーsympathyと称していいのではないでしょうか。

このシンパシーを感じ合える同志(シンパサイザーsympathizer)を、日本流に略してかつてはシンパと言ったようです。私よりもふた世代ほど前、学生運動華やかかりし頃に生まれた、主に左翼系思想家たちに好まれた言葉じゃなかったかと記憶しています。ときには親派と漢字の当て字を付けられたりしてます。どうも今ではほとんど死語になっているようで、奴は彼のシンパだからな、というような表現は今ではあまり聞くことはありません。だけど、「彼にはなんとも言えない深いシンパシーを感じるんだよ」ということは時々あります。そうそうテレパシーとかエンパシーというのも同じ語源になりますね。

国家間の政治的思惑が強い五輪として始まったがゆえに、かえってことさらに個人間の関わりが強調されたのかもしれません。そしてメダルを取れなかった競技者(当然そちらのほうが大多数なのです)にも人に知られることのなかった様々なシンパシーな関係があったろうことに思い巡らせてあげたいと思うのです。そして自分のことを振り返ってみます。すると、自分にもシンパと呼びたい人が何人か浮かんできます。さてその彼らは私をシンパだと思っていてくれるのだろうか。自信ないなぁ。あなたはどうですか、シンパと呼べる人はいますか、そしてその人はあなたをシンパと思っていてくれていますか。

こんな思いを起こさせてくれた多くのアスリートに感謝。次は東京です。大丈夫なのかな、すごく心配ですけど。(弥)

倶樂部余話【352】店じゃない店(2018年2月7日)


新拠点での新体制を始めて一週間が経ちました。新しいお店はどこなの、と聞かれるたびに、いや今度は店じゃないんです、と答えていたのですが、何人かの方が不安そうに見えまして、そういうことか、と意を得たようでした。

25坪の店舗を一坪の事務所に凝縮する作業は時間も労力もお金も掛かる大仕事で、恐らく私以外には誰にもできない芸当だったでしょう。もちろん自分で決断したことですし、必要に迫られての作業でしたが、まさに必要は発明の母、マザー・オブ・インベンションですね、いろんな新しいアイデアも次々に湧きました。

でもウインドゥもボディも陳列棚もない、つまり「みせ」ることができない場所ですから、これを私は店とは呼びたくなかったのです。じゃあなんて言ったらいいの、無店舗とは違うんだし、とお客様はさらに困惑した顔をします。うーん、店は英語でshopか、shopには店舗という意味以外にも(職人やアーティストなどの)仕事場という意味(workshop)もあるし、ここは不本意だけど、目くじら立てず、便宜上やっぱり店と呼ぶことは避けられないことだろうなぁ、ということで、観念して、ショップという意味で店と呼ぶことにいたしましょう。はい。

ただこのショップ、実はまだ完成してはいないのです。まず営業日、店休日がまだ未確定なので、不定休という宙ぶらりん状態であります。これは、2月中には固められる予定です。そしてもう一つ、いわゆるリアルショップの方はなんとか恰好がつきましたが、ウェブショップのほうがまだ全く手付かずで今は依然アランセーターしかカタチになっていない状態です。リアルとウェブの2つのエンジンが揃ってのショップであるはずなんですが、片肺飛行でのスタートとなっています。おいおいウェブの方に掲載商品を増やして、チャントしたカタチに持っていかないといけません。

まあ、ともかくもお客様をお受けできる体裁は整いました。どんな感じなの、と様子を見に来ていただくだけでも、新しいショップに一度お越しください。(弥)
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倶樂部余話【351】最後のハガキ(2017年12月28日)


どうにも筆が進まずクリスマスを迎えてしまいました。現店舗からの撤退という大仕事にとても忙しいというのももちろんあるのですが、大きな理由は今話が最後のハガキ通信になるからです。

今はこの文章をWEB上で読んでくれる方も多いのでしょうが、元々は毎月発行するハガキ通信の冒頭雑話として書き始めたもので、開店2年目の年から29年間350回続けてきました。次号からはメールマガジンに切り替えるため、今号がハガキで送る最後となります。ただ届ける手段が変わるだけだよ、と簡単には片付けられないひとしおの思いが私の筆を遅らせるのでした。

ハガキ通信を始めたのは当時最も安価で効果的な販促手段だったからですが、最初のうちは低機能のワープロを駆使し文字数を数えてから段組みをしたりと、フリーペーパー的な体裁を整えることに随分と苦労しました。洋服屋のDMなのにこんなに文字ばかりびっしりのハガキに皆さん面食らったことでしょう。しかし結果的にはモノクロ印刷のハガキというのがよかったのでしょう、これがカラー刷りの封書だったらきっと長続きしなかったはずです。ハガキの持つ効能をだれよりも身に染みて知っているのは私自身に他なりません。

ですがノスタルジーだけで進化を拒むことはできません。商品紹介もWEBに頼っていこうとしている今後ですから、メールマガジンへの切り替えは必然です。思ったんです、ハガキ通信という言葉を英語にしたらメールマガジンじゃないですか。なんだ、私は29年前からメルマガをやってたんですよ。時代の先駆者です。

この数か月ハガキで呼び掛けてきました、ハガキをやめますからメールアドレスを送って下さい、と。それでも今日現在176名のアドレスが不明のままです。きっとその中には、ハガキを続けてくれ、という無言の抵抗を示している方もいるのではないでしょうか。だからあえてここで176名に最後のお願いです、メールを下さい。(弥)

以下、WEB版だけの続きです。

ハガキという手段は、静岡のこの店舗に頻度よくご来店いただける方へ、ということが暗黙の前提で、そうなると当然に、主に静岡県にお住まいの方ということを原則としてお出ししていました。メルマガに切り替える、ということは、その前提も取り払われることになります。世界中の(と言っても日本語のわかる方だけになりますが)方々に配信可能ですので、この機に広くメルマガ購読のご希望を受け付けることにいたします。
メルマガ配信希望の方はHPのフォームから件名に「メルマガ希望」と書いて、ご連絡ください。折り返しこちらから住所氏名などの個人情報の提供を求めるメールを差し上げますのでそれにご同意いただけた方を配信リストに加えます。(弥)

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