【倶樂部余話】 No.208(2006.5.5) よくあるQ&A


 よくあるQへ、よく言うAです。

★Q:綿パンの丈が縮むのは仕方がないの?
A:綿パンのウェストって洗ったあとに履くとキツいけれど、じきに元に戻りますよね。つまり縮んでもお腹の力でまた伸びるんです。丈が縮んでしまうのは、ウェストのように戻す力が働かないからなのです、なので、洗ったあとにパンツの裾をかかとで踏みつけたまま屈伸運動を十回ぐらいやって、強制的に戻す力を縦方向に加えてやるのです。単純なことですが、こうすると丈の縮みが少なくなりますよ。

★Q:タートルネックや帽子の前後はどうやって見分けるのですか?
A:タートルセーターの首の縫い目や帽子の飾りは必ず左側に来るのが決まりです。その昔の騎士は剣を持ち命懸けで戦いました。だから右手の剣の動きを邪魔するような装飾はすべて左側に付いているのです。小銭や懐中時計を取り出す利便性から考案された上着のチェンジポケットやパンツのウォッチポケットは後生考えられたもので、右側に付いている例外的なものです。

★Q:濃紺のスーツにこのネクタイは合いますか?
A:ネクタイがスーツやシャツと合っているかどうか、というのは色や柄だけのことではないのです。私たちが気にする大事なポイントは、むしろ幅なのです。上着の衿幅とタイの幅は同じ、というのが鉄則です。またシャツの衿の空間とタイの結びの大きさやカタチとの納まり具合の相性も大切です。ネクタイはスーツやシャツに比べて自分の趣味嗜好を最も主張しやすいアイテムですから、自分の好きな色柄を自信を持って選べばそう大きくはずれることはないのですが、お洒落をよく分かっている人というのは、どんな色柄のネクタイをしたとしても今述べたようなこういう鉄則をはずさないものなのです。

……と、雑誌やウェブではなかなか教えてくれないだろうこんな話が、店内では日々交わされているのです。こちらから自慢げに知識の押し売りをすることはしたくはありませんが、突っ込んでいただければ答えられることは割とたくさんあるものなのです。(弥) 

【倶樂部余話】 No.207(2006.4.12) 真実の瞬間


 サービスや顧客満足などに関する用語に「真実の瞬間」(Moments of Truth)という有名な言葉があります。二十年も前に北欧のある航空会社の社長が唱えた言葉で、大変粗っぽく要約すると「顧客は接遇を受ける最初の十五秒でその企業の善し悪しを判断する。それこそが真実の瞬間であり、だからその短い十五秒で最大の顧客満足を与えられるように努めなさい。」という意味で、今では略してMOTと呼ばれるほど古典的なマーケティング用語となっています。
 最初のたった十五秒で店のいい悪いが決められてしまうのですから、ちゃんとした教育を受けた店員であれば(おこがましくも、私たちもその中に入れさせていただきますが)、何気なさそうに「いらっしゃいませ」とお客様を出迎えている最初の十五秒の間に、(このお客様にはどういう接客をすれば最も喜んでもらえるのだろうか。)を考え、そのため同時に(お馴染みさんか一見客か、年齢層は、服装の好みはどうか、急いでいるのかゆっくりしたいのか、目的はあるのか冷やかしなのか、愛想はいいか無愛想か、店員と目を合わせるかそらしたままか、気取り屋さんカッコつけ屋さんか否か)などなど、実は思考回路をフル回転させて入店客を観察しているものなのです。だから、目深に帽子をかぶって濃いサングラスおまけにマスク、といった表情が全く読みとれないお客様だと、私たちは大変苦慮するのです。
 時としてこの十五秒がうまくいかないことがあります。例えば、目の合う寸前に電話が鳴ってしまう、見送り客と入店客がかぶってしまう、十五秒経たぬうちに次の入店客が続いてしまう、どうしても手が離せない作業の真っ最中でおかしな姿勢でお迎えしてしまう、など、俗に言う「間が悪い」という事態です。こういうときは間が悪かったことが真実の瞬間なのですから、信頼の修復はかなり困難で、接客は失敗に終わることが多くなります。
 言えることは、たった十五秒で店が判断されてしまうのと同じくらいに、店も十五秒で客を判断しがちだということです。「真実の瞬間」はいいサービスをするためのキーワードですから店の側はかなり意識をしていますが、逆にお客様がこれを積極的に意識してみたらどうなるでしょう。今度はこれがいいサービスを受ける極意になると思うのです。他の人と接遇がダブりそうになったら少し待って間を空ける、とか、どんなときでも穏やかな表情で目を合わせる、とか、一瞬でも帽子やサングラスは外す、とか、始めぐらいはちゃんと敬語を使う、とか、ちょっとだけ同伴者とのおしゃべりを中断する、とか、最初の十五秒だけでいいんです、それだけであなたはいいサービスを受けやすくなるのですから、意識して決して損なことではないと思うのです。当店でも(この人、うまい客だなぁ)と思わせるお客様は、概して「真実の瞬間」が自然のこととして身についていらっしゃる方のように感じます。
 さて、近頃私たちを悩ますのが、花粉用の大きな立体マスク。鼻と口を大きく隠し、しかもあのカラス天狗のような形状はどんな人の顔もむっつりと無表情にしてしまいがちです。花粉防止の効果は抜群なんでしょうが、私たちには花粉以上に大敵なんですね。まさか「ちょっとはずして下さい」とも頼めないし……。(弥)

【倶樂部余話】 No.206(2006.3.4) ないモノ売り


仕入れて売る、というのが普通の商店ですが、当店では、売ってから仕入れる、つまり「ないモノ売り」の比率が年間売上の四分の一を占めます。
 スーツ、ジャケット、シャツ、シューズ、の「誂えモノ」には、日々何かしらのご注文が入りますし、セーターやコートなどの次冬物の長期予約、限定受注の陶器、と、当店の「ないモノ売り」はかなり日常的です。
 目の前にモノがないので、その接客風景は、物販というよりもむしろ、医院の診察室か旅行業者のカウンターあたりに近いものがあります。「ないモノ売り」は売り逃しがないのだから「あるモノ売り」よりも楽なんじゃないの、と言う方もいますが、決してそんなことはありません。まず受注の材料を揃える下準備と受注したあとの事後処理には相当の時間と手間が掛かりますし、ないモノをわざわざ買おうと決断してくれるお客様の購買意思決定のハードルは「あるモノ買い」よりも数段高いので、「この店なら、ないモノを頼んでも大丈夫に違いない」と思っていただけるだけの信頼を勝ち得ていなければお話になりません。何より、仕上がって届いたモノに間違いがあっては許されませんから、発注と検品には慎重にも慎重を要します。私は、「あるモノ売り」だけの方がよっぽど楽な商売だと思います。
 でも「ないモノ売り」には楽しさもたくさんあります。眼前のモノを「コレください」「はいどうぞ」とはいかない売り方ですから、お客様との対話は否応なく存分に楽しめますし、その人だけのためのモノが待ちに待った末に仕上がったときのお客様の喜ぶ笑顔は格別のものがあるんですね。「ないモノ売り」は間違いなく当店のウリなんだと思います。(弥)

【倶樂部余話】 No.205 海外出張報告 (2006.2.2)


恒例一月の海外出張の帰国報告を簡単に。

●十一回目のダブリン(アイルランド)は毎年同じ時期に同じ場所へ行くので、定点観測の如しです。土地の価格は相変わらず上昇の一途のようで、今まさにバブルの絶頂期という感じがします。日本よりもずっと長い期間を堪え忍んできたアイリッシュたちは、ここぞとばかりに好景気を謳歌していますが、一足早くバブル崩壊後の怖さを知る我々には、少々危ういものも感じざるを得ません。
 仕事としては、ヘンリー・ホワイト、ジミー・ホリハン、フィッシャーマン、マッキントッシュ・オブ・アイルランド、オニール、ニコラス・モス、クレオ、そしてアランセーター、と常連のアイルランドのサプライヤーの他、スコットランドからやって来ていたエベレストやジェイミソン、また新たにイングランドの帽子メーカー・オルネイ、と二日半の間に多くの商談をこなしました。
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ニコラス・モス30周年限定モデル。5月に予約を受け付けます。

●わずか1ユーロという激安航空券(空港利用料などの付帯費用を含めても三千円以下!)でエジンバラ(スコットランド)へ渡り、さらにバスに揺られること南へ二時間、田舎町ホーウィックへ。イングランドとスコットランドの国境に位置することからボーダーズ地方と呼ばれるこの一帯は、
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わずか1ユーロのフライトはシートは自由席で、タラップまでケチる?

小川と丘陵に羊が群れるのどかなところで、ゴルフが羊飼いの暇つぶしから生まれたということを実感できる風景がバスの車窓に延々と拡がります。
 英国のカシミアセーターの約九割はこのホーウィックで作られていて、この町はまさにニットの町。二十以上のニット工場が町中に点在していますが、近年は中国製に押され衰退気味で、有名ブランドの工場の閉鎖が相次いでいます。グレンマック、マックジョージ、ブレイモアの三つは同じ経営グループのバリーの工場に統合されましたし、プリングルは大幅に規模を縮小、N・ピールも閉鎖、そして昨年秋にはジョン・レインとダグラスのふたつが操業を停止しました。
 しかし、創業百三十年のウィリアム・ロッキーの小さな工場(従業員百十人)を訪れ、話を聞くうちに、どっこいこの町の彼らは生き延びる術をちゃんと分かっているな、と少し嬉しく思いました。どこかがどこかを出し抜くという発想はなく、資源や人材を互いに融通しあいながらこの小さな町全体を共存共栄させていこうというコミュニティ意識の強さが感じられます。
 工場もつぶさに見学させてもらいました。同じ糸と同じ機械を使えば世界中どこで作っても同じセーターができる、と思ったら大間違いなんですね。もちろんこの工場にもコンピューター制御の日本製最新鋭の編み機が何台も導入されていますが、サンプルづくりは未だに昔ながらの古い編み機で行ってました。
  この古い編み機でのサンプルを新しい機械での本生産に置き換える作業に、長年の経験値が役立っているのです。また、どんなに機械化が進んでも最後にセーターのカタチに形成するリンキング(縫合)作業は人の手によるものですが、この段階でこの町の女性たちに代々引き継がれている熟練技がモノを言うのです。
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リンキングは熟練技の見せどころ

なかんずく、何よりの違いは、水でしょう。すぐ近くを流れるテビオット川は極度の軟水で、私も手を洗ったときにほんの少しの石鹸を付けただけで凄い泡立ちをしたのには驚きました。この水が「ツボミの状態で出荷される(着込んだときに花開く)セーター」を生むんですね。風土、歴史、伝統、経験、これらがホーウィックのセーターの宝なのだと、この目で確かめることができたのは、大変有意義でした。
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町の中心を流れるテビオット川 

●旅の最後はグラスゴーへ移動。産業革命に繁栄した街は、今また芸術創作の都市として魅力に溢れていました。昼は、この街が産んだ偉大な芸術家チャールズ・レニー・マッキントッシュの足跡をたどり、彼の建築やデザインを堪能。夜はと言えば、「ケルティック・コネクション」というグラスゴー名物の音楽祭がちょうどこの時期に開催されていて、方々でケルト音楽のライブをハシゴして回りました。本場モノのギリー・シューズ(スコットランドの伝統的民族靴でウィングチップの原型になったもの)も手に入れることができましたし、短くも楽しいホリディでした。
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古い教会跡を使ってのアコースティック・ライブ

●今回の缶詰ですか。スコットランドのシチューやスープの缶詰をまたまた買い込んで帰りました。(弥)

【倶樂部余話】 No.204(2006.1.1) 追い風に注意


 謹んで新年のお慶びを申し上げます。
 「追い風は早く進むが舵がふらつき不安定になる。むしろ向かい風の方が歩みは遅くとも安定した舵が取れるものだ」と、向かい風の時代に自らを鼓舞するつもりで当報に書いたのは八年前のことでした。
 そして、ようやく昨年あたりから風向きは確実に変わって、どうやらメンズ服飾業界には追い風が吹き始めたようです。その風を享受できるこのときまで淘汰を受けることなく生き残れたことはとても嬉しく感じていますが、そう手放しに喜んでばかりもいられないことでしょう。
 まず、追い風市場には参入者が群がりますから、競争は激しくなるはずです。が、うちの店、他と競い合うようなスタイルの商売は決して得手とは言えないのです。「うちはうち、人の店のことには口を挟まないから、その代わり、うちの店のこともとやかく言わないで」という姿勢をどこまで貫くことができるでしょうか。それから、追い風になると客層が拡大し、店に対する期待度がより高くなってくるので、その期待を失望させないだけの多様な品揃えが必要になりますが、ここで軸がぶれないようにしっかりと舵取りをしなければなりません。
 何よりも、追い風の時に留意すべきは、慢心でしょう。風のおかげを自分の力量と勘違いしてしまう過信です。そして「これでいいんだ」と納得してしまうと、常に新しい商品を探し続ける姿勢も怠慢になりがちとなるので、これにも要注意です。
 おごらず謙虚に、しかし攻めることを忘れずに、この追い風を自らの帆いっぱいに受け入れて進みたいと思います。
 本年もどうぞごひいきにお願いいたします。(弥)

【倶樂部余話】 No.203 吸って吐くのが深呼吸 (2005.12.2)


 吸って吐くのが深呼吸(アルゴリズム体操/NHK教育「ピタゴラスイッチ」)、という言葉が口をついたのは、ダビンチ展(六本木)と北斎展(上野)を立て続けに見たときでした。二人とも長寿で、老いてもなお、とてつもなく膨大な才能を吐き出し続けていました。明らかに吸ったものよりも吐いたものの方がはるかに多く、そこがまさに狂気に紙一重の天才とまで言われる所以なのでしょうが、果たして彼らが、当時とは比較にならないほどに溢れ満ちる情報量を吸うことができる現代においても、その才能をすべて吐き出せたかと思うと、疑問に感じてしまったのです。
 今の世の中、情報は欲しいだけ手に入ります。ひねもすネット検索に費やせば、吸ってばかりの一日も過ごせますから、現代人はどうしても過呼吸というか吸いすぎの状態に陥りがちです。吸った分だけ吐こうとするにはかなりの創造力が必要で、我々凡人にはもはやほとんど不可能とさえ思えます。何しろダビンチの時代と比べて、吸える量は数百倍かに増えているのに、吐き出せる寿命はほんの少し延びただけなのですから。
 無尽蔵な情報の洪水を吸うことに自らの意思で制約をかけ、そしてちゃんと意識をして吐くことを心掛けないと、だらだら吸うばかりの一生で終わりかねないぞ、と、秋の上野公園を歩きながら凡人は思ったのでした。(弥)

倶樂部裏話[10]周回遅れの街・静岡(2005.11.18)


 日専連・静岡(正式には、協同組合静岡専門店会と言います)の組合員である私は、現在、販売促進と街づくりのふたつの委員をやっています。販促の仕事は大体お察しが付くことと思いますが、街づくりの方は何をしているかと言うと、つまりは郊外に計画中の大型SC(ショッピングセンター)と中心市街地との対立を議論しているのです。

 私がこの静岡の地に移り住んだのが22年前。親の実家だとはいえ、今まで住んだこともない土地に骨を埋める覚悟で神奈川・湘南から来た私は、しばらくアンチカルチャーショックから抜け出せませんでした。なかんずく違和感があったのが、他県資本は一切認めないぞ、という静岡商人の姿勢でした。郊外の大手スーパーはおろか街中(まちなか)へのコンビニの進出まで拒み続けていたのですから。私は「栄枯盛衰は世の常。古い店にあぐらをかいて殿様商売なんて言われるぐらいなら、人気のある店をどんどん入れて、もっともっと楽しい街にすればいいのに。」と思っていました。当時の過激な反対運動は、どう見ても、商人のエゴイズムに思え、時代遅れな対応ではないかと感じていました。 もちろん、その後、大手スーパーもコンビニも出来ましたが、しかし結果として全国の地方都市に比べると静岡市の商業は市街地から分散せず郊外化はあまり進まなかったのです。

 さて、時の流れとは不思議なものでかつ皮肉なものでもあります。時代遅れはそのうちに周回遅れとなり、いつの間にか先頭を走っているという場合があるのです。

 近年の街づくりの概念として「コンパクト・シティ」というキーワードがあります。郊外へ郊外へと住宅も商業も図書館も病院も拡大していったのは人口の増え続けていた世の中だから必要だったこと。そのためには道路も整備し上下水道、ガス、電気も敷設しなければならず、その費用も膨大なものでした。今後は、人口も減るし、税収も減る、財政はますます厳しさを増します。それならばもうやみくもに都市機能を郊外へ拡大させないで、逆に中心部にコンパクトに集中させてその密度を高めて行くべきだろう。それこそが少子高齢化社会に対応するこれからの都市の目指す手法となろう、というのが「コンパクト・シティ」の考えです。日本で最も早くそれを実行に移しているのが青森市で、これ以上道路が増え続けると除雪の費用で財政がパンクする、という事情もあったようですが、市長以下のリーダーシップも見逃せません。

 この「コンパクト・シティ」という考え方で静岡の街を見てみると、どうでしょう。わずか約1km2の碁盤の目の街中に、ターミナル、公共施設(役所、病院、ホール、など)、公園、学校、複数の百貨店とそれらを繋ぐショッピングモール(=商店街)、飲食店エリア、ホテル、パーキング、そして周辺には住宅街、と、見事にうまく凝縮されています。かつて米国視察を何度もしている地元の大物社長が「静岡の街中は、自然に出来上がってきたにもかかわらず、アメリカで人工的に作って最も成功しているSCの大きさや構成ととても良く似ている」と言っていましたが、そのとおり、ここには、かなり理想に近いコンパクト・シティが形成されているではありませんか。ある人の調査によると、静岡市のこのコンパクト密度は全国県庁所在地の中でナンバーワンだという結果を出していますし、経済産業省が、地方の大都市で衰退せずに繁栄している中心繁華街、のお手本として挙げているのは、静岡市と鹿児島市のたったふたつだけです。

 事実、私は中心繁華街の構成員の一人ですが、ここで何も商店街活動の自慢話をするつもりは全くありません。確かによその商店街に比べたら格段に情報収集力はありますし、ものすごく勉強もしていますが、まだまだ批判も多いし課題も山積みです。ただ私が思うのは、全国でも奇跡的とも言えるほどにここまで自然形成されてきた密度の高いコンパクト・シティを何も今さら薄めようとすることはないんじゃないですか、ということです。

 郊外の開発がダメだと言ってるのではありません。むしろ郊外に楽しくて面白い店が増えてくるのはいいことだと思います。しかし、都市のヘソとして絶対に「街は要る」のです。ヘソが消えてしまうとどうなってしまうのか、浜松市を見れば一目瞭然です。

 20年前の私を知る人からは、「お前が街づくりをそうやって議論するなんて、野沢も変わったね。」と言われますが、そうじゃないんです。私が変わったんでも歳を取ってきたからでもなく、時代の流れが変わったのだと思います。たとえ周回遅れであっても現在の静岡市は全国から見ればかなり恵まれたいい街であることは確かです。このいい街をもっといい街にしていきたい、思いはただそれだけで、自分としてはその気持ちは20年前と変わりはないと思っているのです。(弥)
 

【倶樂部余話】 No.202 体温・三題 (2005.11.11)


 静岡市の一大イベント「大道芸」も終わり、十一月も半ば、ようやく寒くなってきました。今回は「体温」について三題。

●まずは、我が業界が目下躍起の「ウォームビズ」。こいつはちょっといただけないです。早い話が重ね着のススメでしょ。言われなくたって、みんなお洒落をしたくて寒くなるのを待ち焦がれているのですから、正直、何だか押しつけがましくて、余計なお世話、の感があります。確かにクールビズは、単なる暑がりをファッショナブルな人に持ち上げてくれました。が、逆にウォームビズは、装いを巧く演出している人を単なる寒がりに貶(おとし)めてしまう恐れを含んでいます。私は以前からベストを好んで着ますが、先日ある人から「おっ、早速ウォームビズですね!」と言われ、少々複雑な思いをいたしました。
 恐らくは、業界の早計な独り善がりに終わることとなるでしょう。安易に柳の下の…を狙ったりせず、なぜじっくりと我慢して次夏に満を持すことに心血を注ごうとしないのか。ウォームビズは来年のクールビズ商戦にまでかえって水を差してしまっているように思えてならないのですが、いかがでしょうか。

●店にも「体温」があるように感じます。これは熱の入り方といったもので、規模とも嗜好や波長などとも違うものです。大資本の店の中でも、主張がひしひしと伝わってくる高体温の店もありますが、例えばメーカー直営の採算度外視なアンテナショップなんかは、内装は豪華ですが、体温は概して低いように思えます。
 もちろん客にも体温の高い低いがありまして、低体温の店は低体温の客が得意なわけです。不幸なのは、高体温を志向する当店のような店に駅ビルのチェーン店のようなつもりで入店された低体温の方々でして、我々は彼らの体温が上がってくるまでじっと待つことにしていますが、店の高い体温にうだってしまう方も多いようで、そうなると、会話はおろか目を合わせてもくれないこともあります。
 運良く、店の体温と客の体温とがちょうど合ったときに、たとえ嗜好の違う店だとしても、その店は何だか居心地がいい店、と感じるのでしょうね。

●ダウン(羽毛)の暖かさがこれほどに心地良いのはなぜでしょうか。ダウン自体に発熱作用はないのですから、暖かさの源は自らの体温です。自分の体温に暖まった空気の層を外に逃がさずしっかりと保持してくれる媒体の役目を果たしているのがダウンなのです。不思議なのは、零下30℃も大丈夫のヨーツェンのダウンを摂氏10℃の静岡で着ていても決して暑すぎるとは感じないことです。そう、夏に羽毛布団を掛けても汗をかかないのと同じです。自然のなせる調節機能なんですね。(弥)

【倶樂部余話】 No.201 旅日記/角館と吹屋 (2005.10.7)


 旅が嫌い、という人は少ないと思います。私も結構旅好きの方に属すると思いますが、この一年は某組合の役職に就かされたおかげで、弘前と岡山にのんびりと出掛ける機会に恵まれ、その往復ついでにいくつかのミニ観光が実現できました。その中で特に印象深かった土地が、角館(秋田県)と吹屋(岡山県)でした。

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角館の武家屋敷通り。道路の高さや側溝まで江戸時代当時に復元されている。

 角館の武家屋敷地区の復元と保存は、官民一体で徹底されていて、今にもちょんまげ姿の侍が飛び出してきそうなほど見事でした。またそこに根付く文化もとても分かりやすく公開されていて、万人にお薦めできる「良い観光地」だと感じました。 

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角館にはなぜか床屋さんが多い。

(やたらに床屋さんとパーマ屋さんが多いのに驚き、いろんな人に聞き回りましたが、結局その理由は分からずじまいでした。どなたかご存じないでしょうか。)

 吹屋は、岡山駅から車で二時間の山の中にぽつんと残った江戸時代に栄えた鉱山町で、ベンガラ(鉱物から取れる赤い染料)で財を築いた豪商の館(映画「八つ墓村」ロケに使われたお屋敷)や馬が往来していた当時がそのままに残る街並みなど、まるで三百年前にタイムスリップしたミステリーゾーンのようなところでした。
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これが吹屋のメインストリート。石州瓦とベンガラ色の壁が美しい。
馬のひずめの音が聞こえてきそうだ。

(この一帯では、国道よりも県道の方が広く、さらに一番立派な道は農道(カーナビにも載ってない!)なのです。道路行政の矛盾の縮図です。)

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吹屋小学校。明治42年(1909年)建築。現役の小学校としては日本最古の木造校舎らしい。

   どちらも文化庁の「重要伝統的建築物群保存地区」に指定されているエリアです。私はこういう地区の指定があることを最近になって知ったのですが、古い街並みを残すために一九七六年にできた制度で、北は函館から南は竹富島(沖縄県)まで、現在全国に六十一地区あるそうです。
 雄大な大自然を眺めているよりもこぢんまりとした古い街並みを歩くのが好きな私にはとても興味のある地名ばかりが並んでいますが、交通の便の悪いところが多いため、私が訪れたことのあるところはその三分の一ぐらいしかありません。意外なことに近場の山梨県や長野県にもいくつも未踏地があり、もっと早く知っていれば、今頃は全部を踏破できていたかもしれないと、少年時代に「新日本紀行」や「遠くへ行きたい」をよく視ていた私は、少し悔しく思っています。
 
旅の楽しみは人それぞれでしょうが、敢えて私が挙げるならふたつ。まず下調べ。何しろこれが大好き。交通・味・宿…、想像だけでも旅気分は存分に昂揚します。インターネットの出現はこの喜びを数十倍に膨らませてくれました。そして、もうひとつ。不思議なもので、土地の人とたくさん話をしたところは好印象が残っているのに、運悪くろくに会話のなかったところは記憶が薄れてくるのです。そう、土地の人との会話の印象は、いい旅だったかどうかの判断に大きく影響してしまうものなのです。私が、日本語と英語の通じないところにはあまり行きたいと思わないのは、そのせいかもしれませんね。
 十一月の大道芸以外には観光資源の乏しい静岡市ですが、それでも県外からビジネスや観光でこの街を訪れる方々が当店にも少なからずお見えになります。私たちがお相手したそんな方々に「静岡っていい街だったな」という印象を残せていればいいのですが。(弥)

倶樂部余話【二〇〇】祝!二百話(二〇〇五年九月五日)


遂に二百話の達成です。この記念すべきときに何を書くべきか、一向に考えがまとまらず、ちっとも筆が進みません。
 開店一周年のお礼を兼ねた案内状に第一話を載せたのが88年9月ですから、足かけ丸十七年、三十一歳から四十八歳まで…。ワープロ原稿を官製ハガキにコピーするだけという簡単な体裁を採ったことも長続きの秘訣でした。今思うと、私はアナログな手法ながらすでにメルマガを十七年前から配信していた、ということになります。

久しぶりに古いスクラップ帳を広げ、再び第一話から読み返してみました。三十一歳からの私がいます。苦し紛れに絞り出した駄文もあれば、本当に自分が書いたものかと思うほど惚れ惚れするような名文も少しは見当たります。喜怒あり、泣き笑いあり、いろんなことを書きつづってきたものだと思います。振り返って見てみると、バブル崩壊後の価格破壊がブームになっている頃などは、相当にもがき苦しんでいる様子が分かります。とても懐かしく感じます。

元来は数百通だけのハガキ通信ですが、第百三十話からはホームページにも掲載をしていますので、今では一体自分の文章がどのくらいの数の人に読まれているのやら、想像もできません。しかし、時には「一話から通しで読んでみたい」といった奇特なお申し出も頂戴するので、二百話を機に、何らかの形で公開したいとは思っています。ホントは一番いいのは、誰かが本にして出版してくれることなのですけど…。