倶樂部余話【380】 拝啓 大日本除虫菊株式会社様(2020年6月1日)


(※この文章は、5/29に初稿。6/1に公開しました。)
今朝、朝刊を拡げるまで、この当月の余話には全く別のことを書こうと思っていました。でも気が変わりました。キンチョーのこの広告を見てしまったからです。

広告のweb版はこちらです。

画像が見られない方のために説明しますと、新聞の全面を使った、新しいゴキブリ駆除剤の広告です。「もうどう広告したらいいのかわからないので。」と、コロナ禍で日々状況が変わり先のわからない毎日に、世の中の空気、人々の気分がどうなのか、考えあぐねて、世間の状況に応じた6つのバリエーションを並列し、詳しくはQRコードからスマホで、と誘導します。

毎年夏の前になると、楽しみなのがキンチョーの広告ですが、実は先週あたりから、今年のキンチョーはこのコロナ騒動をどう捉えて広告に取り込むのだろうか、と、思っていた矢先の今日の一面。感動しました。そして、この広告から私の得たもの、それはこんな感想です。

もうどうしたらいいのかわからない。一ヶ月先のことなど誰も見通せない。日々めまぐるしく変わるこの状況下で、みんな不安で不安でたまらない。そうなんです。でもだからといって何もしないでいいわけじゃない。想定されるいくつかの場面に応じてそれぞれに対処できる策を用意しておくことは必要なんです。6つの策を並列したこのやり方は、一見するとひとつに絞れなかったことへの逃げのように見えるかもしれないけれど、そうじゃないです。コロナという原因は同じでも、それがどう人の生活に影響を与えているのか、その状況は人によってそれぞれに違う。その違いに対応するには共通のひとつの策で間に合うはずがない。無理に絞りきらないほうがいいときだってある。それは決して逃げじゃない。様々な変化に笑いながらちゃんと対応していこうじゃないか。

これがこの広告から私の思った感想。殺虫剤の宣伝にこんなふうに考える私はおかしいでしょうか。(弥)

倶樂部余話【379】 世界史の年表に残ること(2020年5月1日)


ずっと前から、ゴールデンウィークなんて必要ない、と言い続けてました。
一斉に長い休みを取るのは、盆暮れ正月があれば十分、だと。
それが何と言うことでしょう、まさかこんなカタチでGWそのものがその存在意義を変えてしまうなんて、思ってもいませんでした。
ステイホームウィーク。今はなんの感想も持ちたくありません。
怒ったり呆れたりしたところでそれは何の意味を持たない、
時が流れるのをじっと感じていよう、とだけ思うことにしたいです。

新聞からコロナの文字のない紙面を探せと言われたら、全面広告ぐらいしか残らないでしょう。
いや広告にさえ営業自粛に触れてコロナの文字が見つかるかもしれません。
コロナ一色の世界。何か他のことを書かなきゃと思っても、今は何も書けません。

大震災のときに思ったことが、ああこれは確実に日本史の年表に載るなぁ、ということでした。
人間の歴史が数千年あるとして、自分たちが生きているのはその数千年の中のたったの何十年だけです。
そのわずか何十年のあいだに年表に残る事実に私は立ち会った。
そして、今度はコロナ。これは日本史じゃなくて世界史の年表にまで残ることでしょう。
親の世代には間違いなく戦争というものが一番大きな年表事項でした。
自分の世代で一番大きな年表事項は一体何になるんだろう。
何百年か先の日本人が年表を眺めたとき、果たしてコロナはどんな意味を持って語られているんだろう。
今想像できるのは、あれは確かコロナがきっかけで変わったことだったんだよね、
という事柄がたくさん出てくるだろう、ということ。
この「静かな有事」が実は歴史の大きな転換点になっているんじゃないか、
その真っ只中に今自分たちは置かれて、そして漂っているんだろう、と、

そんなふうに思う、今年の、今までで一番静かなゴールデンウィークです。(弥)

倶樂部余話【378】[4]patriotism (名) 愛国心(2020年4月1日)


どこもかしこもコロナ、コロナで、ここでもそれに触れないわけにはいきませんが、あちこちで言われていることをここで改めて書くことはやめます。気持ちが落ちるだけですから。ただ、来店客が激減し売り上げを取るのに大変困っているという現状はお伝えいたします。顧客の皆様の協力を乞う次第です。

さて、コロナウィルスに関して各国首脳の演説や会見が、話題になっています。ドイツ、フランス、アイルランド、ノルウェー、ニュージーランド、シンガポール、など。国民を信じ、正しい判断と行動を期待し、団結を呼びかけて、困難に立ち向かおうと熱く語る姿は、感動を呼びます。

ペストやスペイン風邪を経験している地続き同士の欧州と島国の日本とでは事情が違う、という側面はあるでしょうが、しかしそれだけではないように思います。
ドイツのメルケル首相は東側出身の女性物理学者65歳。フランスのマクロン大統領は24歳年上の妻を持つ弱冠42歳。アイルランドのヴァラッカン首相はインド系の血統でゲイを公言する41歳。ノルウェーのソールバング首相は失読症を持つ59歳の女性。ニュージーランドのアーダーン首相は39歳の女性で産休明けの身。宰相の生い立ちとして一番普通なのはシンガポールのリー・シェンロン首相ぐらいか、彼はリー・クアンユーの長男で68歳。

つまり、批判の矢面に立たされてもおかしくないツッコミどころ満載の経歴を持つ彼らなのに、いや社会的弱者の心境を理解できる彼らだからこそ、というべきか、国民の尊敬を集める宰相として、リーダーシップを発揮するのでしょう。
私は久しぶりに愛国心、パトリオティズムという言葉を思い出しました。愛国心に訴えるスピーチ、それこそ宣戦布告なんかもそうなんでしょうが、これで国民が奮い立つのはその宰相や政府が国民の信頼と尊敬を集めているときに限られるのだと思います。
さあ、反対例を考えてみましょう。日本、アメリカ、英国。これらの国の宰相のスピーチは、愛国心という熱情から離れていて、ただ不安と恐怖を国民に植え付けるものでした。これは自分は国民から尊敬されていない、と自身がそう感じているからにほかならないと思いました。

愛国心なんて言葉を50年前に口にしたら、 貴様は右翼か? 赤尾敏か?、と職員室から危険視されたことでしょう。そんなことを考えながら、映画「三島由紀夫vs東大全共闘・50年目の真実」を観ました。前に話したこともありますが、私、小学校高学年のときに東大安田講堂で大人に石を投げて抵抗するお兄さんたちに共感し、ボクも大学生になったら学生運動がしたい、と、ゼンガクレンに憧れたとんでもない子供だったのです。

映画は面白かったです。ただ中身はほとんどちんぷんかんぷんでした。学生側は議論のための議論と言うか一種詭弁をも用いながら三島を挑発しますが、三島は相手を封じ込めるような反論はせず、むしろ三島のほうが思いの外単純で直情的な意見を述べます。そして互いに愛国心を高く持ってリスペクトしあって熱く熱く語り合います。三島は言霊という言葉を残して去ります。右と左は対立するものではなくて、同じ山を反対側のルートから登っているみたいなもんじゃないか、と、思ったくらいでした。ああ、俺が憧れていたのは、ゼンガクレンじゃなくて、ゼンガクレンの持つ「熱情」それ自体だったんだ、と、ようやく気づいて、心地よく映画館を出ました。

さて、表題の[4]patriotism (名) 愛国心、でピンときた人は、私と同世代で受験勉強を頑張った人でしょう。デルタン(=試験にでる英単語。西の方ではシケタンとも言うらしい)です。1ページ目、[1]intellect、[2]conscience、[3]tradition、でその次が[4]patriotismでした。必死で覚えました。いきなり「600番チェリッシュ」と友人に言われて「お前もう600まで行ったのか」と友人のハッタリに焦りを感じたものでした。

こうやって、ああ懐かしいねぇ、と振り返れるときが、コロナ騒動にも必ずやってきます。時が早く通り過ぎてくれるのを祈るばかりです。(弥)

倶樂部余話【377】日本人のおなまえっ!(2020年3月1日)


姓名を逆に書いてしまってトラブルになった経験がかつてあります。航空券を海外のサイトで購入した際にしくじりました。私はYAICHIROという姓になっていたのです。さあ私は飛行機に乗れたでしょうか。

昨年春の余話第366話で触れたように、私の友人が、日本人は英文のときも名+姓にひっくり返さずそのまま姓+名で名乗ろう、という活動を始めました。彼は果敢にも元同僚の代議士を動かし、国会の委員会質問の話題に乗せ、大臣の談話に至り、ついに昨年秋に首相官邸より「来年からそうしましょう」という申し合せ文が出たのでありました。(「公用文等における日本人の姓名のローマ字表記について」)

友人が言い出しっぺであることから、私も海外へ行ったときなどに雑談として、内外の多くの人にこの話題を振ってみました。が、思ったよりも相手の反応が弱いんです。どっちでもいいんじゃないの、好きにすればいいよ、という意見がほとんどです。関心が薄いというか、まあ自分に利害がなければどうでもいいってことなんでしょうか。でもその雑談の中で色々教わりました。
「欧州でもハンガリー人は姓+名で名乗ってるんだよ」 「韓国人がローマ字でも姓名のままなのは、もともと姓の数が極端に少なく、また結婚しても改姓せず、名前も極端に短いため、姓名が完全に一体化していて分解ひっくり返しなんて考えられないんじゃじゃないだろうか」 「女優の浜木綿子(はま・ゆうこ)ね、アレ「浜木綿(はまゆう)」だから姓名の順で言わないと意味ないよね、ユウコ・ハマじゃ芸名の意味ないじゃん」 「リーチ マイケルって、日本に帰化する前はマイケル・リーチだったんだって。ややこしいね」 「日本人だけがわざわざひっくり返してんの、初めて知ったよ。めんどくさいことしてるんだね、欧米に媚びてるのかなぁ、戦争に負けたから?」 「確かに日本人の名刺は、どっちが姓でどっちが名か、判断に迷う時があるね。姓は大文字で、名は小文字、とか、わかりやすくしたほうがいいかも」 「欧米人の苗字の由来を知ってるかい。出身地とか職業だとかが多いんだ。ビンチ村のレオナルド、とか、鍛冶屋のポール、とかね。それと父親の名前の転がし。マックなにがし、オなんとか、なんたれソン、なになにビッチ、みたいな。代々転がし続けると不都合なんでいつしか苗字に固定されたんだ」 「住所と同じだよ。欧米は、宛名、番地、通り、市、州、って小さいところからだんだん大きくなるけど、アジアは、県、市、区、町、番地、って、大から小、だろ。だから名前もそうなんじゃないの」 などなど。
中でも、目からウロコだったのは、この話。「中国人の多くは、英語の名前を名乗っちゃうんです」 なるほど、アグネス・チャンは陳美齡、テレサ・テンは鄧麗君、ブルース・リーは李小龍……。そうか、変えちゃえばいいんだ。あ、そういえば千葉真一もソニー・チバだった。
実際私も海外ではほとんどジャックと呼ばれています。これは自分の名刺に大きく書いてある当社名を多くの人が私の名前と間違えて解釈するからなんですが、確かにNOZAWAもYaichiroも欧米人には発音しづらいようなので、偶然の産物とはいえ、Jackと呼ばれるのは大変重宝してます。最初の頃は、コテコテの日本人の顔してる俺がジャックのわけ無いだろ、バカにされてるみたいで、恥ずかしいわ、って思いましたが、中国人のことを当てはめれば、なんにも珍しいことではなかったわけです。
郷に入りては郷に従え、を貫くなら、姓名の順をひっくり返すだけでは足りず、相手に呼ばれやすい名前に変えてしまう、そこまでやらねば、ということですね。岩倉使節団の中にはそこまで考えが及んだ人もいたかもしれません。つまり、日本名と英文名をふたつ持って使い分ける、という柔軟性も一つの方法ではないのかな、と思います。

さて、冒頭のトラブルです。姓名の逆書き間違いで最も多いのが航空券らしいです。航空券では、たとえ名+姓の国の欧米人でも、姓+名の順に表記されます。搭乗前に逆書きに気がついて航空会社に申し出ても、フライトの変更はできても搭乗者そのものの変更はできない、と言われて応じてくれません。
じゃあ、乗れないのか。いいえ、チェックインカウンターでこう言われるのです。「この飛行機には乗れます。でももし入国審査などの段階でダメと言われても当航空会社は責任を負いません」と。
おそらく、よくある事例なのできっと想定内、なんでしょう。実際、乗れなかったという事例はネット検索しても一つも見当たりません。私も大丈夫でした。ただ、ずっとMr.YAICHIROのまま、帰国便のゲートを通るまでヒヤヒヤのし通しでした。(弥)

 

倶樂部余話【376】ダブリンにて(2020年2月1日)


昨年の三月のこと。アイルランドでアランセーターについての新しい本が発売されたという話を聞き、早速アマゾンから電子ブックで購入しました。
かつてはマイナーな新刊の洋書を手に入れるのにはそれなりに苦労したものですが、時代は便利になったものです。
ざぁっと目を通してみると、驚きました。出てくる写真は17年前に書いた私の本とほとんど同じ、内容も拙著と大変よく似ているのです。それでいて日本についての記述の部分は的はずれな誤りも多く、そこに紹介されている邦書二冊はどちらも拙著を底本にしているもので、肝心の私の本はどこにも紹介されていません。

「まあ、仕方ないか。この二冊も巻末までちゃんと読めば私がしっかり協力していることはすぐに分かるんだけど、なにせ日本語だし、それに拙著が絶版になってもう随分久しいし、この著者が知り及ばなくても当然だろう。むしろ、今アイルランドで書かれた本が17年前に日本で出た本と偶然にも内容が酷似しているということは、私の本が世界的に見ても普遍性を持っていたことが証明されたようなものだから、これは誇りに思っていいんだよなぁ」などと思い直したのです。

しかしです、このまま拙著の存在を著者に見過ごされたままでいいはずはありません。Facebookによると、近々ゴルウェイの大きな書店で出版記念のサイン会と対談があるらしい、しかもその対談の相手は地元ショップのアン・オモーリャ、とある。
早速アンにメールを入れます。「来週の書店でのイベントのときに、あなたに献本した私の本を持っていって、その著者に見せてあげてほしい」と。

しばらくして、著者ヴァゥン・コリガンから直接メールが来ました。驚きと感謝と謝罪が入り混じった、でもちょっと軽めの文章です。今後はお互いに情報交換をしていきましょう、そして今度ダブリンでぜひお会いしましょう、と約束をしたのでした。

そして年が明けて訪れたダブリン。ミーティングの場所に先に待っていた彼女は、思っていたよりもずっと若い、30代かな。驚いた。そして彼女も驚いたと思う。地球の反対側で17年も前に、8年も掛かってアランセーターのことを調べ尽くした男が目の前にいることに。なんと言うのだろうか、ライター同士だけが共有できるシンパシー、というようなものが、お互いの脳を電波のごとくに走りました。

2019年の今になってまたアランセーターの本が出たのは、決して偶然ではないのでしょう。
毎年のダブリンで通訳とモデルを兼ねて私と半日間同行してくれるミワさんは、アイルランドのファッション事情にとても精通している在愛の日本女性ですが、
会うや開口一番「野沢さん、今アイルランドではアランセーターが流行ってるんです」と言います。「アイリッシュツイードも流行りです」と。アイリッシュネス重視の自国主義の現れか、または最もエコロジカルな素材としてウールが再評価されているからなのか、
ともかくこの20年間、本場のアイルランドでアランセーターが流行りになる、なんて聞いたことがありません。確かにそう言われれば展示会場もダブリンの街角も、若い女性のアラン模様の着用率がいつもより高いことがすぐに見て伺えます。
アラン本の著者ヴァゥンが軽い調子で「次はツイードの本を書くの」と言っていたのを、さもありなん、と思い起こしました。

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翌日のミーティングはアン・オモーリャとアランセーターの打ち合わせ。私はまず「昨日、著者ヴァゥンに会ってね…。ゴルウェイの書店ではいろいろとありがとう……」との冒頭の会話を用意していましたが、アンの口の方が早かった。しかも神妙な面持ち。
「あなたにまず伝えなければならないことがあるの。つい3週間前の1月4日に、イニシマン島のモーリン・ニ・ドゥンネルが亡くなったわ」。ああ、ついにこの日が…。イニシマンにモーリンを訪ねたのは27年前。以来、計4度の訪問。思い出が頭の中をぐるぐると駆け回る。涙が止まらなくなってる自分。

1934年生まれ。6歳から編み物を始める。9歳で母を失くし、10歳にして兄の堅信礼のための白いアランセーターを独力で編む。16歳で父が逝き、兄との貧しい生活。
22歳のとき、ダブリンからやってきたパドレイグ・オシォコンに見い出され、アランセーター生産の島のまとめ役を40年間にわたって務める。26歳で地元男性と結婚、3女に恵まれる。
自らも秀でたニッターとして名を馳せ、1981年にアイルランドを訪れたローマ教皇ヨハネ=パウロⅡ世に献上するアランセーターを編んだ。
国内外のメディアにも数え切れないほど取り上げられた、アイルランド一の伝説のニッター。享年85歳。

「アランセーターは私が編んでいるのではありません。神様が私に編ませてくださっているのです。アランセーターは神様の贈り物なのです」
私の本の結びにも記した、忘れられないモーリンの言葉。彼女のこの言葉がなかったら私は神を信じる者の枝にはもなってなかったことでしょう。そして勝手に思ってました、モーリン、あなたは私の第二の母でした。
これを読む方々にお願いします。どうかモーリンの冥福を祈ってください。
2013年1月。これが最後の面談となりました。

この弔意をどうやってご遺族に伝えることができるのか、ミワさんに調べてもらったら、国中の物故者情報をデータベース化したその名もrip.ieなるサイトがあることを知りました(RIPは、ご冥福をお祈りします、の意の慣用句です)。
ここからモーリンの葬儀情報を得ることができ、そのうえ、そのサイトからクレジットカードで献金を寄せたり、遺族にお悔やみのカードを送ることもできるのです。なんと便利で役立つサイトでしょう。
こんなサイトがどこの国にもあればいいのに、と思いますが、葬儀ビジネスが高額高利益の寡占事業化している日本ではおそらく無理なことでしょうね。
そして、今日、このサイトからメールが入り、無事にご遺族にメッセージをお届けしました、との報告がありました。

例年の海外出張報告よりもずいぶん長くなってしまいました。
ダブリン2泊の業務の後、帰りに妻とローマ観光1泊をして
今年もイスタンブール経由で無事に帰国しました。(弥)

倶樂部余話【375】あざやかな場面(2019年12月28日)


アニュアル・イベントと言いますか、年一回の恒例行事が私にも数多くありますが、その中で、ああなんて幸せなんだぁ、と、最高の幸福感に浸っているあざやかな場面が私には三つすぐに蘇ります。自分の姿を別の自分が見ているような不思議な光景が頭の中に浮かびます。

8月の下旬、山中湖での高校テニス部OB/OGの合宿。70代の大先輩から高校出たての若い後輩たちまでが、一緒になってボールを追いラケットを振る。43年前の初参加から毎年変わらぬ光景。テニスコートに立つ私の姿が見えます。ああ今年もまたここでみんなとテニスができる、幸せだなぁ。

12月の暮れ、私の誕生日に大船の居酒屋で催される忘年会。高校一年時のクラスメイト男子4名女子2名の6人がコアメンバー。41年前の出会い以来、家族ぐるみの付き合いになるので、宴には各々の家族や共通の友人などが加わりいつも大賑わいの宴会になリます。人間六十も過ぎればそれなりにいろいろあります、後悔もあれば苦労もある、そして同じ顔が集まり毎年おんなじ話に笑い転げている自分がいる、今年もみんなとこの場面にいて、一年一度酔っ払う。これ以上の幸せは他にない。

1月下旬。アイルランドの首都ダブリンで催される大展示会。その中を忙しそうにちょろちょろ歩き回っている一人の日本人が見えます。あの顔を初めて見たのは24年前だな、しかしまあなんと幸せそうな顔をしているんだ、とその場面を見ている天上の誰かの声が聞こえてきます。2日間で20社近くと商談をしますから、実際は幸福感に浸っているような余裕もないはずなのですが、その時々ふとした瞬間瞬間に、ああ今年もここに立っていられる、幸せじゃんね、と思うのです。時差ボケのせいなのかもしれませんが。

この三つ、今だから言える共通点があります。これらのためには店をも閉める、まあダブリンは海外出張ですから許されるとしても、前者ふたつも場合によっては店を閉めても出掛けます。私にとっては冠婚葬祭以上に大事なイベントなのですから。
人は亡くなるときにいくつかの場面が走馬灯のように頭の中を駆け巡ると、よく言われます。この三つの場面は間違いなくそうなることでしょう。

皆さんはどうですか、一年に一度、幸せだなぁ、と実感するあざやかな場面、いくつぐらい思い浮かびますか。そのために笑っちゃうような子供じみた無茶なわがままを通したりしてませんか。お会いしたときに聞かせてほしいです。

今年一年のご愛顧に感謝します。良いお年をお迎えください。(弥)

倶樂部余話【374】若者はおおむね正しい(2019年12月3日)


今年は人類が月面に初着陸して五十年だそうです。1969年。当時の私、小学六年生の十二歳。今思ってもパソコンもない時代にすごい事ができたものだと感動します。その年の一月、東京大学安田講堂を占拠していた大学生が機動隊に「落城」しました。テレビはその一部始終を中継し、機動隊に引きずり出される学生の姿を見ながら、私はこう思っていました。「大人の権力に向かって石を投げる姿、なんてかっこいいんだろう。自分も大学に入ったら、学生運動に加わりたい」。そう、全学連に憧れた少年だったのです。もちろん小学生ですから思想的な背景などまったく理解していなかったのは言うまでもありません。クラス一の悪ガキで校内の問題児だった私でしたが、ちょうど小学校卒業と同時に杉並から湘南に引っ越すという転機にあたり、自分の過去を知るものが誰もいない真新しい環境で、中学時代はひたすら生徒会活動に没頭、職員室に突っ掛かってばかりいました。かばんには毛沢東語録(読んだことはなかった)、下駄を履いて髪を伸ばして、深夜放送にフォークソング…、まさに反抗期の真っ只中、今思うと大人の手のひらの上で勝手に踊っていただけのかわいい行動ではありましたが、当時は精一杯に気張っていたのでした。

そして、いつも思っていたことがありました。どうして大人は判ってくれない。若者は思いつきで言っているように見えるかもしれないが、本当はとても考えている。毎日毎日大人の何倍も何倍も考えている。対して大人は考えているふりをして実はあんまり考えてなくて、ただ経験でモノを言っているに過ぎないことがあまりにも多すぎる。そうだ、私は誓おう、若者はいつも考えている、そしておおむね正しい、と思おう。自分が将来どれだけ大人になっても絶対にそう思い続けよう、若者は大人が思うよりもずっとずっと考えている、そして大概は正しい、と。

子育てのときには、この誓いを守ることが時に呪縛となるような思いに至ったこともありましたが、その誓いは今でも間違ってなかったと感じています。ただそれは私の中にずっと、大人になんかなりたくない、子供のままでいたい、という甘ったれた感情があったからではなかったか、と振り返るのです。反発できる対象としての大人が常にいたからです。

そのことに気づいたのは、両親を失ってからでした。人は親が生きているうちはいくつになっても子供のままなんです。親を失くして初めて気づく感情、あ、もう私は子供ではないんだ、と知るのです。それでも私はこの誓いを曲げません。若者はおおむね正しい。

香港の学生デモの騒動、大河ドラマ「いだてん」の64年東京五輪への道のり、ローマ教皇の来日。そんなこんなの映像を見ていてたら、昔の話を思い出していました。
幸多き年の暮れでありますように。メリー・クリスマス。(弥)

倶樂部余話【373】三通の招待状(2019年11月1日)


一週間で三回も首都圏を日帰り往復するのは多分初めてかもしれません。予期せぬ招待状が三つ届いたからでした。

日曜日。一つ目の招待状によって、私たち夫婦は新横浜にある巨大スタジアム内のラウンジ付VIP席でラグビーを観戦しました。日本対スコットランド。大一番の大勝利に興奮のるつぼでした。これ以上話しても羨ましがられるだけなので、これはこの辺で。そしてハイネケンをたっぷりと飲みました。

水曜日。二つ目の招待状は、当店がこの六月に移動ショップを行なった島田市金谷「And Wool」の村松氏から。新ブランドの発表会を某大手アパレル企業のサポートを受けて代官山でやります。当日はデザイナー自身が編み物のデモもやるのでいらしてください、との誘い。光あふれるショールームでファッションの先っぽにいる人ばかり、と、場違い感いっぱいの中、村松氏の演出は、静岡の料理、静岡の飲み物、静岡の草花、静岡の作り手、とこちらが恥ずかしくなるほどの静岡づくしのもてなし。
嬉しいじゃないですか。その本拠地、金谷の彼の店に、私は店ごと客ごとまるごと一日移してその魅力を堪能してもらうことができる。何という幸せ。奇しくも次の移動ショップの実施日は11月9日(土)と目前に迫っています。私にとってはこの展示会はそのプレイベントのようなもの。移動ショップに来てくれた人は必ず楽しめるだろう、との確信を持った水曜日の午後。そして風変わりな静岡茶を数杯いただきました。

金曜日。三通目は在日アイルランド大使から。国の通産大臣がファッション企業数社とともに来日するので歓迎レセプションに元麻布の大使公邸までいらしてください、と。更に、ファッション関係者を集めてのセミナーでアランセーターについて短い講演をお願いしたい、という内容。アランセーターの講演は過去に何度かやりましたが、意外にもファッション業界人向けには初めて。60人ほどの聴衆に20分程度の話でこれは無事に済みましたが、本当に私が言いたかったことはその後の司会者との質疑応答の中にありました。
「野沢さん、アランセーターの魅力を一言で言うと?」「静岡の小さな洋服店主の立場では決して出会うこともなかった多くの素晴らしい人達と、アランセーターをやったおかげで私は知り合うことが出来ました。アランセーターは私の人生を変えてしまったセーターです」 そしてギネスをがんがん飲みました。

これら三つはどれも一ヶ月前以内に急に入ってきたインビテーション。ただでさえ入荷ラッシュで休む間もない十月の中旬のこの時期に、一日置きに出掛けていては、当然業務は停滞気味になります。昨年はプライベートに忙しかった(倶樂部余話【361】参照)十月でしたが、今年もこの有様。どうも十月はバタバタと動くのが私に課せられた使命なのかもしれません。(弥)

倶樂部余話【372】百敗しても不敗の民(2019年10月1日)


アイルランドの最大の魅力の一つとして間違いなく挙げられるのが人柄の良さです。しかしいくらなんでもあまりにも人が良すぎる、何も主催国が相手だからって負けてやることはないでしょ、人の良さにもほどがありますよ。
駿府城公園のパブリックビューイングに集まった2万人の歓喜の渦の中、緑色に身をまとった私は、思いも寄らない結果を目の前にして、自分は一体どんな表情をしたらいいんだろう、とわからないままに茫然と周りのハイタッチに手を合わせるしかありませんでした。

アイルランドへ25回も往復している静岡県人としては、静岡とアイルランドを結ぶ架け橋になにか役に立ちたい、と思いながら、具体的なことはほとんど何もできず内心ちょっと残念な思いも抱いていたのですが、もうそんな私の出番など必要ないほどに静岡とアイルランドは大きくつながりを持ちました。アイルランドがどういう国なのか、人の良さはもちろんですが、例えばなぜ北と南の統一チームが実現できているのか、なんていう政治的な事柄も静岡、いやもちろん日本中にですが、かなり知ってもらえるようになったと思います。
そして、アイルランドの人たちにとっては、SHIZUOKAは忘れたくても忘れられない地名として脳裏に刻み込まれたことでしょう。今までは「東京と名古屋の中間で、富士山のふもとの海辺」といちいち説明しなけりゃいけなかったのが、これからは、お前「あのSHIZUOKA」に住んでるのか、あれはいいゲームだったな、とアイリッシュのみんなから称賛されることは間違いありません。

日本のアイルランド通の人たちがしばしば引用することでよく知られた文章があります。司馬遼太郎「街道をゆく〈31〉愛蘭土紀行 2」からの一節で「アイルランド人は、客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だと思っている。教科書がかれらにそう教えるのではなく、ごく自然に、しかも個々にそう思っている。たれが何といおうとも、自分あるいは自民族の敗北を認めることがない。ともかくも、この民族の過去はつねについていなくて、いつも負けつづけでありながら、その幻想の中で百戦百勝しているのである。」

はい、試合には勝てなかったけど、そのおかげで日本人の心に強い印象を残すという点では他の18チームのどこよりも負けてはいない、と思っていることでしょう。さあ、かくなる上は、日本もアイルランドも決勝まで進んでもう一度接戦を演じてもらうしかないですね。それでこそ百敗の民の面目躍如でありましょう。(弥)

倶樂部余話【371】何も書けなくて9月(2019年9月1日)


カレンダーでは一年後半のスタートは7月1日ですが、感覚的には9月1日を折り返し点と感じている人はわりと多いんじゃないでしょうか。昔から夏休みが終わって二学期の始まりですし、季節はちょうど夏と秋の変わり目です。また当社も長いこと8月決算でしたから、8月末の深夜に棚卸しを終えて寝不足で迎える翌朝は防災訓練の交通規制にはまって遅刻する、というのが毎年恒例になっていた9月1日は、また新しい半年が始まるんだ、と気分をリセットする日でありました。

ではとても清々しい晴れやかな心持ちで9月を過ごしているかというと、決してそうではないのです。何しろ私の店の場合、年間売上の半分以上が9月10月11月の3ヶ月で決まってしまいます。商品は海外からちゃんと届くだろうか、客は期待通りに来てくれるだろうか、お金は回るだろうか、もうその心配に追いまくられる毎日なわけです。

そのプレッシャーがどこに現れるかというと、ここに出ます。「『倶樂部余話』が書けない」。普段は仕事に関係あることもないこともわりと平気でつらつら書いてますけれど、9月の倶楽部余話は、読む人を必ず買う気にさせるような文章を書かないと、と、思ってしまうと、何を書こうかどう書こうか、何をどう書いてもきっと気が急いて売る気満々に伝わり、引かれてしまってたらどうしよう、と、考えれば考えるほど、何も書けなくなってしまいます。

しかも今年の9月は例年に増して、未知のことが多すぎます。ブレクジットはどうなるのか、例外の多い消費増税、キャッシュレス決済のポイント還元、海外送金も新たな方法を考えないといけないし、と、不安要素が増します。

でも去年の同時期、売り場もなくし在庫も極端に減らして、本当にこんなんで秋冬は大丈夫なのか、と思っていたことを考えると、うん去年よりはずっといい、なんとかやっていけそうだよ、という自信は付いてきました。

そんなこんなで迎えた32年目の9月が始まりました。800字を超えたので今話はここまで。(弥)