注意書きとかお触れ書きの類いというのは、読まなくても済む人は読んでくれるのに、読んで欲しい人には伝わらないものです。
当店の入口に「ご来店のお客様へお願い」という小さな掲示をして十年近くになります。お読みいただいた方もいらっしゃるでしょう。同じ文章はHPにも掲載していて、そこにはその理由も述べていますから、HPで読んだという人の方が多いかもしれません。(こちら(ずっと下の方)です。)
そこには、挨拶をしようよ、とか、両手ポケットはやめようね、とか、商品引っ張るな、とか書き並べていて、要は、余話【165】(2002年10月)で述べているように、自分の店は自宅と同じ、客だから何しても勝手というわけではなく、ホスト(=店)がホストとしての礼を尽くすように、ゲスト(=客)にもゲストとしての礼儀があってしかるべきだろう、ということなのです。
別に宣伝することでもないし、お客様が自然に覚えていってくれればいいわけでして、今までこれをことさらに取り上げることはなかったのですが、十年経ち、思えば昨今うちのようなタイプの店がこうも減ってしまってはお客様が経験する場もなくなってしまうだろう、ということで、啓蒙というと偉そうですが、今後は少しこんなことにも触れていこうと考えを改めることにしました。これからはちょっと強めに言いますので、どうかご理解の程をお願いいたします。(弥)
投稿者「jack」のアーカイブ
【倶樂部余話】 No.287 俄(にわか)や擬(もどき)を本物に (2012.10.01)
ブリティッシュがトレンドらしいのです。五輪の余波なのか、景気後退の閉塞感からの原点帰りなのか、イタリアよりも知性派向きだからなのか、理由はいろいろ挙げることはできるでしょう。
加えて、アランセーターにも追い風が吹いています。糸井重里氏が気仙沼で仕掛けているプロジェクトの影響もあるのかもしれませんが、近頃の取材申込の状況からも、今年は「来てる」気がします。
それなら万々歳じゃないですかと言われそうですが、今までの経験では実はそれ程喜んでばかりもいられないのです。
俄(にわか)ブリティッシュやアランセーター擬(もどき)の人たちには、当店のように流行関係なく主義を貫いた店は敷居が高いのでしょうか、やはりトレンドとして俄や擬を扱う店に走りがちです。それだけならまだいいのですが、以前からの俄や擬ではない本物の方までもが、流行りモノと一緒にされるのはイヤだからしばらく遠慮しとこう、と、へそ曲がりな気を起こしてしまうのです。
なので、ハヤリとカブるときは要注意、が今までの教訓なのですが、ネットの時代、小さな情報でも確かな情報なら伝わりやすいという世の中になって、ちょっと変わるかなと思っています。俄や擬から本物に転向する比率は従来よりも格段に高くなるのでは。そんな期待を持って迎えた今年の秋冬なのであります。(弥)
【倶樂部余話】 No.263 セヴィルロウは背広の語源?(2010.10.23)
背広の語源はロンドンのセヴィルロウという地名に由来する、と、そう信じて私は約20年前にこの店名を付けたのですが、この説について、文明開化当時からの資料を紐解き、検証を試みた一冊があります。「福沢諭吉 背広のすすめ」(出石尚三著・文春文庫・2008年12月)。
150年前の服装では、きちんとした格好というのはフロックコートであって、今でいうスーツはそれよりも格下のカジュアルな服でした。フロックコートというのはモーニングや燕尾服と同じく、胴回りを細く絞るために、肩の後ろから背の両脇にダーツを入れて作られたので、こういう服を「細腹(さいばら)」な服と呼びました。(今でも仕立ての世界では、前身頃と後身頃の間の脇下のパーツを細腹と呼びます) それに対して、細腹ではない服すなわち背の広い服、ということで「背広」な服という言葉が職人仲間の符丁として生まれたのではないか、というのが筆者の推論です。
それを記録に留めた最初の人物こそがどうも福沢諭吉らしいというのです。福沢は「経済」や「演説」などの訳語を創った造語の達人、きっと「背広」の語感はその感性にマッチしたのでしょう。
さらに福沢は自ら「西洋衣食住」というイラストブックを著し西洋服のコーディネートを指南、そればかりか慶應義塾内に「衣服仕立局」なる洋服屋まで開いていたのです。この店が丸善の服飾部門の前身となります。
セヴィルロウと背広は発音が似ていて何か関係があるのか、と言われ始めるのはそれから60年も経った昭和初期のことで、これは全くの偶然のようです。なーんだ、そうだったのか。(弥)
【倶樂部余話】 No.260 再び「スーツは年収の1%」説を… (2010.7.18)
「スーツは年収の1%」(余話【194】05年3月)は紛れもなく私が言い出しっぺの持論ですが、そう自らが唱える当店のスーツの裾値は約八万円です。しからば当店のお客様はすべからく年収八百万円以上なのかというともちろん決してそんなはずはなく、年収五百万円から七百万円のお客様には1%以上の負担を強いざるを得なかったわけです。仕立て代の安い某工場を知ってはいましたが、そのクオリティは合格点を付けるにはいささか疑問が多く、結局のところ、五~七万円台のスーツ提案の必要性を感じてはいながらも、私はそれを怠っていたのです。
しかしようやくそれが実現することになりました。第三のファクトリーとしてM社との取引を約十年振りに再開することにしたのです。このM社のことは事情があり詳しく書けないのですが、現在当店でメインのA社のレベルには及ばないものの、私は一応の合格点を与えました。81点といったところでしょうか。かつては百貨店向けのお堅い高級ブランドスーツを中心に縫っていましたが、近年は関連企業で首都圏を中心に全国で約三十店舗を展開するオーダースーツのチェーンストア(ここで名前を明かせないのがツラい…)からの注文をほぼ一手に引き受け、技術力に加え「感性」度が飛躍的に上がってきているのです。当店ではこのM社の縫製を「バジェット・ライン」として導入を決めました。
年収一千万円以上の方にはお勧めしません。しかしバジェット(予算)の限られた方には五~七万円台のスーツもご用意できるようになり、ようやく「年収1%」の持論に現実味を付与することができたということであります。(弥)
【倶樂部余話】 No.224 パクられてもパクることなかれ (2007.9.5)
宮沢喜一元総理の死去の際、静岡新聞の「大自在」(朝日新聞で言うところの天声人語の欄)が、ウィキペディア(ネット上の百科事典)の記述を裏も取らずに無断引用し、大恥をかいた、という事件がありました。
このホームページの私の文章も実に方々で参照されているようです。最も多いのは、やはりアランセーターについての記述で、くだんのウィキペディアにまで紹介は及んでいます。またマッキントッシュに関する考察なども業界内では少なからぬ影響を与えているようなのです。
ネット以前の時代ですと、田舎の一商店主がDMのハガキにワープロで書くようなモノと大新聞に書かれた記事とでは、その信頼度には明らかな差があったものでした。ところが、面白いことに、ネット出現以降は、同じような内容の記述に出くわしたとしても、どれが初出の本家モノで、どれが他人の文章のパクリかは、つぶさに記述を読むと比較的容易に判断ができるようになったのです。
このことは、たとえ無名で小規模だろうと、マス媒体以上に説得力のある発信ができる時代がやって来たという朗報であり、また、決して安易に他人の記述をパクったりせず、いつも内容を咀嚼して自分の言葉で書くことを心掛けるべき、という教訓でもあります。
もうひとつ、私が言い出しっぺなのが「スーツは年収の1%」説なのですが、これが過日業界紙に某百貨店の男性バイヤーのコメントとして載っていたのにはいささか驚いてしまいました。
ついでに今回はこんな持論も披露しておきましょう。「スーツは食卓で決まる」。スーツをどの店でどう買うのか、の裁定は、実は店内ではなく、夕食の団らんの家族の会話ですでに決まっているのではないか、というのが私の勝手な推測なのですが、いかが感じられるでしょうか。(弥)
【倶樂部余話】 No.223 バイヤーの憂鬱 (2007.8.3)
最初から売れないと分かってるモノを仕入れるバイヤーなんていません。「コレは売れる!」、バイヤーはいつもそう信じて数を出すのですが、すべてが思惑どおりに行くはずもなく、どうしても売れ残りという困ったモノが出てしまいます。
普段は売場全体に紛れ込んでいるそういった残りモノが浮き彫りになって現れてしまうのが夏のこの時期でして、今月の店内はさながら一年分の残りモノ品評会のようで、無能ぶりをさらけ出しているバイヤーは悲しくなるやら情けないやら、いささか憂鬱になる八月です。
「在庫は宝なんだよ」と私はかつてある名物バイヤーから教わりましたが、今多くの経営者は「在庫は罪だ」と説きます。宝なのか罪なのか、私はどちらも正しいと思います。中身と量と時期の問題ですし、バイヤーと経営者という立場の違いもあるでしょう。そして、宝だと強気に言うバイヤーの私と、罪だと堅気に言う経営者の私が、いつも自身の中で葛藤しているのですが、この時期は明らかに後者の私の方に軍配が上がってしまうわけです。
つまり、かつての宝も八月には罪。なので涙を飲んで、恥ずかしながらの価格を付けても、思い切った罪減らしをやらないといけません。それにはお客様皆さんのご協力が必要であります。暑い中ですが、ご来店いただければ嬉しいです。(弥)
【倶樂部余話】 No.217 伊愛英、出張報告です (2007.2.7)
欧州とんぼ返り二往復の出張報告をいたします。
●伊フィレンツェ、紳士服の祭典「ピッティ・ウォモ」へ、積年の望みがかない初の視察に三泊五日、実質丸二日間だけのイタリア行。
世界のメンズブランドが何百社と出展しているし、来場者ももちろん世界中から来ているので、もしテロリストがこの会場を一網打尽に全滅させてしまったら、世界のメンズファッション業界は一瞬にして停滞してしまうことだろう、とさえ感じさせる。当店が現在扱っているところだけでも十五社、過去に当社で扱い実績のあったところを数えたら三十五社もあり、これを合わせると五十社になった。これがひとつの会場で一日か二日で見て回れるのだから、展示会のデパートといった状態で、バイヤーにとってこんなに便利な場所はない。
日本のバイヤーの数も、多いだろうことはある程度想像はしていたが、それにしても異常な多さで、正直「世界のいろんなブランドを多種揃えています、というような店構えをしていても、なーんだ、みんなココで買い付けしてたのね。」という気持ちも感じざるを得なかった。これだけの規模になると、この場所で、誰もまだ知らない自店だけの逸品を発掘する、という業は不可能に近く、むしろ私がアイルランドあたりで足で探してくる商品の方がレア度は高いかもしれないな、との思いも強く持ったのだった。
毎年行きたい行きたいと思いながら売り場を持つ身としてはその日程からなかなか渡欧がかなわなかったピッティに、今回「行くぞ」と決心したのは、ふたつのことに背中を押されたからだった。ひとつは、この二年ほどバイイングしていて仲良しになっているミラノ在住の船橋さんご夫妻が初めてピッティに出展されると聞いたこと、そして、もうひとつが、今回これに合わせて同時期に特別展「ザ・ロンドン・カット/セヴィル・ロウ・ビスポーク・テイラーリング」がピッティ宮殿の王宮の間で開催される、と聞いたからであった。
ロンドン・セヴィルロウのビスポーク・テイラーたちが二百年の間、いかに世界の歴史や文化と密接に関わってきたのか、そして現代の紳士服にいかに大きな影響を与えているか。数々の紳士服の複製や写真が昔のままの王宮の間に美しく陳列され、大変興味深く鑑賞した。
何でも見たがり出たがりの私は、今回この展覧会のオープニングにあたってカクテルレセプションがあることを聞きつけ、つてを頼ってこれに参加潜入することに成功した。実は、日本のアパレルや百貨店、ジャーナリズムなどもきっと大勢いるのだろうと思ってのことだったのだが、行ってみると日本人は私を含めてたったの二人しかいなかった。こんな素晴らしい機会にどうして…、と思うと、優越感になど浸ってもいられず、このエキジビションをちゃんと日本に紹介しなければ、という使命感にかられてしまった。私もジャーナリストではないのでうまく取材できたわけではないのだが、別項にレポートをまとめたので、ご覧いただければ幸いである。
一晩ぐらいトスカーナの伝統料理を贅沢にしっかり食ってやるぞ、と事前調査のレストラン・リストを片手に街歩き。満席だよ、と三軒断られて、四軒目、一人だったら空いてるよ、と案内されると、偶然にも隣りのテーブルではネクタイのドレイク氏一行六人が食事中ではないか。誘われるままにパーティに混ぜてもらい、結局飲み食いは楽しく深夜まで及んだ。食したリボリータ(パンのスープ)とビスティカ(ステーキ)が美味であったのは言うまでもない。
●一週間を挟んで、今度は四泊六日、実質丸三日の仕事に渡欧。まずはダブリン。数えたら今回が十二回目で、もう慣れたもんだ。
例年の業務に加え、ツイードのシャツジャケットや帽子などにも新しいメニューを加えられそうだ。また、ニコラス・モスには開店二十周年の当店限定柄の製作も依頼し、ニックがデザインを起こしてくれて夏には実現できそうな見通しとなった。
クレオにも二年振りの新作となるハンドニットのジャケットを頼むことができて、ほぼ満足な成果を上げられた。小腹が空いたと、定宿の近くのタイ料理屋に入ったら、アイルランド政府商務庁のKさんとばったり。同席となり、トム・ヤム・ガイ(鶏肉スープ)とパッタイ(焼きそば)を「ごちそうさま」になりました。美味でした。
●未明のダブリンから五ユーロの飛行機で英マンチェスターへ飛ぶ。うっすらと雪化粧の山々を見せる西ヨークシャー、ハダースフィールドへ列車は走る。今日は一日で四ヶ所を回る紳士服地の工場巡りの旅だ。
最初はスコフィールド&スミス。シルク使いのジャケット生地などが得意なところだ。駅に迎えに来てくれたマネージャーで後継者と目されているサイクス氏は、幹線を走らずわざわざ景色の良い田舎道を遠回りしてくれて、小高い丘にある工場まで案内してくれた。
近年ハダースフィールドでは、古い服地工場をリストアして賃貸住宅に転用することが市の政策となっているらしいのだが、昨年になってこの工場にもその話がやってきたそうだ。となると、これから事業を継承していく彼にとっては、工場の移転や従業員のリストラ、という難題を解決しなければならず、きっとひとりでかなり悩んでいるんだろうな、という様子がうかがえた。
二軒目は、テイラー&ロッヂ。百を超えるハダースフィールド周辺の服地工場の中でも恐らく最も高い知名度を持つブランド服地だと言えよう。スーパー120’s&カシミアなどの細番手のスーツ生地はイタリアや日本でもファンが多い。
案内してくれたのはマネージャーのヘイグ氏。ウィスキーと同じこの名前はもともとフランスからの移民の姓だという。ここで私は彼を質問責めにした。「数ある英国の毛織物産地の中で、なぜハダースフィールドはこれほどに繁栄したのでしょうか。ある人は水質の違いだと言っていますが…。」「ニッポンの客人よ、とてもいい質問だ。確かに水の違いはあるがそれだけではない。ハダースフィールドには、産業革命のずっと以前からフランス人が移り住んでいたのだ、つまり私の先祖だがね。要は(アングロサクソンが持ち合わせていなかった)フランス人の織物への造詣の深さとセンスの良さがこの土地にだけはあった、ということなのだよ。えっへん。」
「それでは、次の質問。数多あるこのエリアの紳士服地の中で、なぜテイラー&ロッヂは一番優れているという評価をもらっているのでしょうか。」「富士山の住人よ、それはさらにいい質問だ。服地の製造というのは、機織りのようなドライな作業と洗浄のように水を使うウェットな作業に分かれている。かつてはどこの工場でもその両方を一貫して行っていたのだが、近年はウェットな作業は外注へ出すところがほとんどとなってきた。じめじめと寒いところでの仕事だから、労働環境が厳しく、また設備のメンテナンスにも費用が掛かるからだ。しかし、当社は未だに洗浄や縮絨などフィニッシングといわれるウェット作業まで一貫して社内で行っている。木製の洗濯機は未だに現役だし、ペーパープレスという紙で服地を挟み押さえて仕上げる伝統技法を行っているのはもう当社ぐらいだろう。服地に掛けるそのプライドが、違いと言えば違いだろうかね。えへんえへん。」私の質問は彼をいたくいい心持ちにさせたようだった。
三番目は、エドウィン・ウッドハウス。ヨークシャーの丘陵を小一時間ドライブした、リーズ市の郊外にある。
ここはブランド力こそないが、マーケットに即したトレンディな服地をタイムリーかつリーズナブルに供給することで定評がある。当店でも「エアウール」は夏の定番服地として人気が高い。糸を撚る段階からのスピニングの設備まで自前で持っている。若き後継者ウィリアム・ゴーント氏は、例えばイタリアと日本と中東では好まれる色合いが全く違うのだが、当社はその世界各国のマーケットに細かく適応した商品開発にいつも心を砕いているのだ、と熱っぽく語ってくれた。
最後は、リーズにあるアームレイ・ミルズ産業博物館。ここは運河沿いにある古い織物工場跡を再生し、織機や蒸気機関などの産業遺産を展示し体験学習する施設として近年オープンしたところ。冬の平日の夕方では客は私だけだったが、普段はきっと近隣の小学生などが体験授業に多く訪れているところなのだろう。自分たちの街の歴史や遺産を後世に語り継ぐことが郷土愛をはぐくむ上でどれほどに大切なことか、欧州の人たちは当たり前のように意識しているように感じる。
夜ホテルに戻ったら、S&S社のサイクス氏がロビーで待っていた。「地球の裏からはるばるうちの工場を訪ねてくれたんだ、晩飯ぐらいおごるよ」と。ポテトとリークのスープ、ススギのベーコン巻き、どちらも(英国のレストランにしては)うまかったっすよ。
●ひとりで七泊したにもかかわらず、ひとりぼっちの夕食はたったの二夜、あとの五夜のうち四夜が「ゴチ」という、とても食事運に恵まれた旅でありました。当然帰ったときには体重増となっておりました。(弥)
倶樂部余話【一九七】石津謙介さんご逝去に際して(二〇〇五年五月二九日)
アイビールックの仕掛け人と呼ばれた、ヴァン・ヂャケット(VAN JACKET INC.)の創始者・石津謙介氏が5月24日に93歳の天寿を全うされました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
思い起こせば、70年代前半、中学・高校と、着ているものは全部VANでした。当時の私は特にファッションに興味のあるような「ませガキ」であったわけではなく、単にVANなら父に頼むと店から買い与えてくれたので、自分の小遣いを減らさずに済むという理由からでしたが、結果的に私は十代をVANの純粋培養で育ったわけです。当社の黎明期を知る静岡の五十代男性にとっては、いまだに「呉服町の野澤屋」=VANショップ、の印象が残っていることでしょう。何しろ、父が当社を設立した頃には、VANからの出資を仰いでいたほどの強い結びつきがあったのですから。
78年の倒産はまさに青天の霹靂(へきれき)、当時売上の八割をVAN一社に頼っていた当社も存亡の危機でしたが、氏とのお付き合いはその後も続き、87年の「セヴィルロウ倶樂部」開店に際しても、ご丁寧な長文の祝辞を頂戴いたしました。ずっと初夏にお届けしていた新茶への達筆なる返礼も、近年は代筆となっていたので、長患いが続いているのだろうな、と思っておりました。明治44年生まれとは思えないほど、いつも柔軟な思想を持ち、ダンディという言葉のふさわしい方でした。
メンズファッションの分野に限らず、衣食住遊のライフスタイル全般にわたり、石津御大(おんたい)の薫陶、影響を受けた戦後世代は数限りなくいることでしょう。みんな「VANが先生だった」(ポパイ78年6月号の名タイトル!)のです。近々催されると聞いている「お別れの会」には、そんな各界の生徒たちが一堂に会することになるはずです。不謹慎だと言われることを承知で言うならば、私にとってはこれほど楽しみな気持ちで待つお別れの会はかつてありません。御大が命と引き換えに集めてくれた素晴らしいメンバーたちの一大パーティとなることと思います。私自身は、偲ぶというよりも「改めて感謝したい」という気持ちで末席に臨めることを願っています。
こちらに内容を掲載しています
倶樂部余話【一八七】靴を再開します(二〇〇四年七月一四日)
紳士靴の展開休止という苦渋の決断をしたのは二年前(「余話【164】」参照)。昨今は「紳士靴バブル」と揶揄されるほどの空前の高級靴ブームで、それに踊らされずに済んでいる幸いに、自らの判断の正しさを確信しつつも、やはり正直、多少の悔しい思いは感じていたのでした。
実は、休止した当時から、紳士靴を再開するなら「(スーツと同じように)自店ブランドによる国内工場でのパターンオーダー」以外にはあり得ないだろう、と考えていました。洋服屋として、格好良さもさることながら、まずサイズを合わせる、というのが絶対に譲れないことだったからです。それを目指して、つてを頼ってはいくつかの靴工場に「服でできることがなぜ靴でできないんだ」と掛け合いましたが、どこも「そんなこと、できっこない」と本気で取り合ってはくれませんでした。「俺の考えは空論なのか」と、半ば諦観を抱いてもいました。
しかし、天啓あり。この不可能を可能にしたファクトリーがあったのです。その情報を得るやいなや、私は山形県赤湯(南陽市)の宮城興業へ飛んでいきました。70年の歴史を持ち、某大手トラッドブランドから新進の個性派デザイナーものまで、英国ノーザンプトン・バーカー社仕込みのグッドイヤー製法の技術を駆使し、製造の名黒子役であったこの工場が、将来への生き残りを懸けて、二年間の試行錯誤と職人達の意識改革の末に、ついに完成させた注文靴のシステム。これはまさに私の求めていたそのもの、いや、その期待を遥かに越えるレベルのものでした。静かにしかし熱く語る高橋社長と会談していくうち、私はうれし涙がこみ上げてくるのを感じていました。(自分と同じ思いを抱いていた人間がここにいたじゃないか。ようやく出会えたよ。)
溢るる自信と喜びを持って、紳士靴、二年ぶりに堂々の当店再開です。
倶樂部余話【一六四】靴をお休みします(二〇〇二年八月二六日)
かなり悩んだ末の苦渋の決断です。紳士靴の取扱いを当面の間お休みすることにしました。「えっ、どうして?」という声がすぐに聞こえてきそうですが・・・。
※まず、服ならば普通にできるフィッティングサービス(寸法直しなど)が、靴にはほとんどその余地がない、という靴特有の宿命的ジレンマです。どんなに気に入った靴だとしても、フィッティングが合わなければそれまでです。 「履いてるうちに伸びますよ。」などと無責任な嘘もつけません。結果、親身にお相手すればするほどに、「欲しいのに買えないなんて」とお帰りいただくケースが増え、喜ぶ顔を見たくて商売しているのに、悲しい思いをさせてしまうとは、と次第に自己矛盾を感じるようになってきました。仮に品揃えを数倍に増やせば、このジレンマは解消されるでしょうが、残念ながら、資金もスペースもままなりません。
※服は着てなんぼ、靴は履いてなんぼ、です。当店は、服バカのための服を扱いませんし、同様に、靴マニアのための靴も扱えません。しかし「A社とB社は買ったから次はC社が欲しい」といった渡り鳥的コレクターの来店が増えているのも事実です。一線を画すためには、ここらで一旦引き出しを閉めるもまた一策かと、いう気がし始めたのです。
※もちろん、永久停止ではなく、これという商品と売り方を探り当てるまでの休止です。また、取り寄せや修理は、引き続き承りますのし、婦人靴は変わらずに取扱いますのでご安心下さい。
私自身、靴好きで、知りたがり教えたがりの質ですから、靴談義は全く拒みません。ご相談も大歓迎です。
ご理解の上、倍旧のご愛顧をお願いします。
※オーダー靴という形で靴の展開を再開するのはこの二年後でした。余話【187】参照。