被災地へ。日本人としてそこで何が起こったのかを現地へ赴き知っておかなければ、とこの六年間ずっと願っていました。ようやく山形出張がらみでその機会が訪れ、朝の何時間だけですが、石巻と女川へ行ってきました。ここでその感想を書くつもりでしたがこれが意外に難しい。というのも、ふつう旅行記は、楽しかった面白かったおいしかった、と書いていきますが、被災地観光はそれとは趣旨が違います。そもそもこれを観光と呼んでもいいものなんでしょうか。

震災前とその直後の様子の画像を事前に幾度も観て脳裏に焼き付け、それと眼前の景色の3つの光景を頭の中で重ね合わせながらその土地を実際に歩きます。道中、三人の人とゆっくり話をしました。まず乗客が私だけという空っぽの石巻発女川行き路線バスの運転手さん。沿線を事細かにガイドしてくれました。降車して向ったのは津波の最先端が襲った谷あいの集落。海も見えないほど奥まったところです。そこからは海側に向かって思いっきりかさ上げされた茶色い造成地がだだっ広く延々と続きそこにトラックが何台も行き交っています。ギリギリのところで流されずに済んだ民家で洗濯物を干していたおばちゃんからは、生死の境目が目の前にあったことを聞きました。石巻の日和山公園で隣に立っていたおじさんは眼下にあった自宅を失った方でした。「津波てんでんこ」がどれほどに大切な言い伝えなのか、教わりました。

三人ともから「来てくれてありがとう」と言われました。そうか行くことだけでも感謝されるんだ、ならば「被災地観光」は不遜なことではないんだね、行ってよかった、そして誰もが一度は必ず行くべき観光地だ、と感じた、「いい旅」でした。(弥)
投稿者「jack」のアーカイブ
倶樂部余話【344】応援したくなる値上げとは(2017年6月1日)
日本から外国にハガキを出すと世界中どこへでも60円(船便)です(航空便は70円)。また香港から日本へは航空便一通約53円です。ところが日本国内はこの6月から一枚52円から62円に上がります。海外と国内の料金が逆転しました。なにしろデフレで喘いでいるこのご時世に19%も値上げとはふざけた話です。近頃のハガキ通信の大半は法人需要なはずですから、値上げしなくてもあの特殊な糊で三重にも四重にも貼り合わせた、DMや請求書などの「脱法」ハガキを規制すれば事足りると私は思うのですが、そこは野放しにしたまま、しかも年賀状だけは据置など不可解な例外を設け、旅先からの思い出の絵ハガキなど個人のささやかな楽しみからも搾取するなど、もう弱い者いじめの狙い撃ちです。
悔しいかな、それでも抵抗できないのはこれが独占事業ゆえですが、この郵政事業の規制に長年果敢に挑み続け、世界でも類を見ない宅急便のシステムを創造してきたのがヤマト運輸です。今回そのヤマト運輸も10月から値上げをします。増えすぎた荷物に対処しきれないことが理由ですし、値上げするにあたりプレス発表や広告などで最大限に利用者への配慮をしていることが素人にもよく分かりますから、こちらについては怒りの声はなく、逆に、日本郵便にもアマゾンにも負けるんじゃないぞ、頑張れヤマト、の応援の世論が醸されています。値上げさえ応援したくなる会社なんてそうそうありません。すごいことです。(それに引きかえ、ヤマトの値上げに乗じて、うちも一緒に上げちゃおう、と追随する他の宅配便業者の情けないことと言ったらありません)
と、ここまで書いたところで困った知らせが入りました。主力のスーツ工場から「工賃を7月から値上げしたい」との要請です。21年間も据え置きだったのである程度やむを得ないだろうとは思っていますが、それにしても1万円以上の値上げを余儀なくされることになります。さあ、果たしてこの値上げ、そっぽを向かれるのか、応援してもらえるのか、30年やってきたこの店の真価が問われているような気がして、実は今とってもびくびくしています。(弥)
倶樂部余話【343】ずっと続けるって言ったのに…(2017年5月1日)
客「こないだ作ったアレに合わせて…」 店「こないだ、っていつ頃?」 客「二、三年前かな…」。 って、調べてみると実は八年前…。この時間感覚のズレはある程度仕方のないことで、店はお渡しした時点でその商品から手を離れますが、客はそれを手元で使っているうちは時の経過がとてもゆっくりになるものなのです。ついちょっと前、が、十年前だったりすることもざらで、それだけ愛着を持って使い続けてくれた証拠なんですから、ありがたい誤解です。
このように、買う側の人の時間感覚は売る側が考えているよりも案外とても長くて、売る側は毎年毎年どうしようかと刹那的に一年単位で品ぞろえを考えてしまうのに対し、お客様の方は、来年これ買おう、再来年はこれで、あれは三年後にして、と複数年の購買計画を組むのを楽しみにしている人も思いのほかいらっしゃいます。
そんなことの中から申し訳ない事態が生まれます。いつまでもあると思われている商品がなくなることです。定番として長く続けますから、という仕入れ先の言葉を信じて扱い始めたのに、たった一年で廃番になったり、急に取引条件が厳しくなって仕入れができなくなったり。「ずっと続けるというから買うのは一年待ったのに、だったら去年無理してでも買っとけばよかったよ」などと言われると、約束を守れずウソついたことになっちゃってごめん、というすまない気持ちになります。
この事態は、モノ溢れと徹底的なコストダウン傾向の昨今、以前よりもますます顕著になっている気がします。なので月並みですが「来年あるかどうかわかんないからモノがあるうちに買っといて」というほかありません。決して押し売りをするつもりはないのですが、後の祭りになってしまっては元も子もないのです。
総理大臣は衆院解散だけはウソをついても許されると言われています。私にも継続定番の廃止にはそんな特権がもらえないものかと思います。(弥)
倶樂部余話【342】服飾を学問のように語る人(2017年4月1日)
この倶樂部余話の第一回は29年前の1988年9月。開店一周年企画として出来合いのDM裏面の余白にプリントごっこで印刷した簡素なものでしたが、実をいうと楷書草書云々の文章の内容も天声人語風のその体裁もあるところのパクリでありました。その元ネタこそグレンオーヴァーであり、そこの大ボスが赤峰幸生さんでした。当時の当社にとってグレンオーヴァー=赤峰さんは、主力仕入れ先という実務面ももちろん精神的にも柱になっていた存在で、彼ほどに紳士服飾を学問のように語れる人を私はいまだに知りません。何度か参加した赤峰教室、懐かしいです。
亡くなった父は彼がまだ20代のころからその力を大層評価していて、私もずっとこのハガキを送り続けてきましたから、かれこれ当社とは50年近くの付き合いになりますが、昨年の5月突然に電話がありました。私の手術入院をご心配いただいた見舞いの電話でしたが「実はね、グレンオーヴァーを復活させる計画があるんだよ」との話。20数年前に経営の蹉跌から消えたブランドですが、それが復活するとは、うれしい話でした。その話から一年が経ちようやく商品の姿となり、先々週には東京で久々に赤峰節の学問的レクチャーを直接受けてきました。(還暦なんてまだまだひよっこだぁ、とはっぱ掛けられました) そしてコートやジャケット数点が店に届いたのです。
今どきノスタルジーだけではモノはなかなか売れませんし、過去の成功ブランドの復活が必ずしもうまくいく例ばかりではないことは重々知っています。決して楽観はしていませんが、当社の古くからの顧客にとってもこいつは面白い話だろうと、ここでお知らせせずにはいられなかったのです。(弥)
倶樂部余話【341】季節感を否定してみるという発想は?(2017年3月1日)
石頭にならないためにたまには常識を見直してみることも大切です。
例えば季節感。この商売ではことのほか季節感を強調することが肝要と言われます。この季節にはこれを着ましょう、という提案ですね。ところが売場で演出する季節感と実生活で感じる季節感にはズレがあるなぁ、と日頃から感じるのです。大ざっばに言うと、すなわち、春は思ったよりも寒い、夏は思いのほか暑い、秋もまだまだ暑い、冬はなかなか暖かい、と常にずれている様な感覚があります。「この季節にはこれ、って売る側はそう言うけどさ、そう言われても実際の気候がこれじゃあね、……」というセリフを一年中顧客から聞いているような気がするのです。
ならば逆に、季節感を否定してみる、という発想もアリなのかもしれません。季節感の演出は最低限にとどめ、反対に、春秋だけでなく、夏も冬も一年中使えますよ、という品揃えを強調してみる、という店があってもいいのかなぁ、と漠然と考えました。それで売場がつまらなくなってしまったら意味はないですが、その発想でも楽しい売り場が作れて、売り上げが取れればそれを肯定されることもあり得るだろうと。
いつも三月は売場づくりに腐心するのですが、この発想が反感を買うのか、共感をもらえるのか、不安の中で今年は店を作ってみようと思うのです。(弥)
倶樂部余話【340】年下の男の子が止まらない(2017年2月1日)
困りました。毎年この時期の当話は海外出張報告の類なのですが、わざわざ書くような面白いネタが見つかりません。起きたトラブルと言えばブルーモスクで右の手袋を落としたことぐらいで、あまりにすべてが順調すぎて、最後に荷物が出てこない、なんて言う大どんでん返しがあるんじゃないかと怖くなったくらいです。

行きの長すぎる乗り継ぎ時間を利用して早朝のイスタンブールの街を散策。ホントにここはいい街ですよ。でも戒厳令の出ている国、テロに遭ったらそれまで。さすがに今回だけは補償無制限の旅行保険を掛けました。街は思ったほどの物々しい警戒もなく、逆にこのユルさじゃいつどこでテロが起きても不思議はないですね。

2泊3日のダブリンはほとんど展示会場に缶詰め。一晩だけお気に入りのパブで生演奏を聴けたのがせめてもの息抜きでした。アイルランドの一番の敵対相手は英国、そして最大の仲良しは米国。なので、会う人会う人話す中身は、ブレクジットとトランプ・ショック、こればっかり。さながらこの二つの事柄のアンケート調査に日本からやってきたという感覚でした。
いつものようにニコラス・モスのサンプルを割らないように慎重に抱えて帰国したのですが、ブルーモスク以来「年下の男の子」がずっと頭の中で止まらない。片方なくした手袋…。(弥)
倶樂部余話【339】探してます、人の死なないミステリー。(2016年12月24日)
英国やアイルランドに興味が深いと、じゃファンタジーもお好きでしょ、とよく言われるのですが、私はファンタジーが大の苦手。「千年が経ち、一人は石になり、もう一人は木になりました」と一行で片付けられるこの大変化に私の想像力はついていけないのです。
全く多読家ではないのですが、それでも読む小説はミステリーが多いです。で、何年か前に「十数時間の長いフライトの中で読むのに適した本は何かないか」と図書館をうろうろしていたところ、見つけたのが、いわゆるアンソロジーとかオムニバスとか呼ばれる、当代人気作家たちによるミステリーの短編集でして、何しろ数ページ読んで合わないと思ったらどんどん次に移れるのでとても気楽です。年末のこの時期はそういうアンソロジーの新刊がよく出るので、この数年買ったり借りたりして読んでいます。

ミステリーにも好みがありまして、とにかく人がどんどん死んでいくのがダメです。だって現実にはそんなに次々と人は死んだりしないでしょ。ストーリーの中盤以降に重要人物が口封じのためにあっけなく殺されたり、第二第三の殺人から墓穴を掘って犯人が浮かんだり、そういう見え透いた展開は興ざめなんです。死ぬ人はできるだけ少ない方がいい、最初の一人は仕方ないとしても、できることなら、一人も死なない、というのが理想です。はい、そうなんです、実はずっと追い求めているんです、人が一人も死なないミステリーの傑作。どなたがご存じでしたら教えて欲しいんですよね。
倶樂部余話【338】ショップのショールーミング化が進化する(2016年12月1日)
国内50近くのアパレルなどのファクトリーを一つのブランドで串刺しし、高品質な定番アイテムの集積をネット販売する、というのが、ファクトリエです。4年ほど前の立ち上げ時から、目の付け所はなかなかいいぞ、と感じていました。しかも商品をチョイスするストライクゾーンが私の選択眼と割と近いので、こういうモノが自分でも仕入れられたら面白いんだろうけどまあ難しいだろうし、もしかしたらこういったところが将来のライバルになってくるのかもしれないなぁ、と漠然と思っていたのでした。
そんな矢先、10月のとある日、そのファクトリエからコンタクトが。「いま各県ごとにフィッティングサンプルを置いて対応するエリアパートナー店を募っているのですが御店で静岡県を担当しませんか」という誘い。あれれ、ライバルからパートナーに大転換です。面白いじゃないか、と急いで先方へ伺ってほとんどの商品をチェックした上で、この話に乗ってみることにしました。
単に新規ブランドを導入するのと大きく違う点が二つ。まず、自分が仕込んだのではないものを売るということ。ただこれは先述のように選択眼が近いので意外に抵抗がないのです。もう一つは、店にあるのはサンプルで、実際の売買は店頭のiPadでネット決済して後日配送する、という形態をとるということ。店ではモノを見るだけで買うのはネット、という「ショップのショールーミング化」が近頃顕在化してきていますが、それを逆手に取るというか、積極的に肯定します。いわば究極のお取り寄せ形態であって、今は珍しくても、将来は当たり前になる時代が来るんじゃないかと感じています。
シーズン途中からのスタートなので、品揃えがまだまだ不完全ですが、そろそろと12月から、新しいこと、始めます。(弥)
倶樂部余話【337】ハロウィンにあたって(2016年10月31日)
ハロウィン。元来は古代ケルトの風習で、死者の霊を呼び覚ます、いわば「お盆」のような祝祭です。
さて、日本人の八割は子供なんだそうです。両親ともに見送った私は二割の少数派の方に属しますが、間もなくもっと少数派になりそうな事態を迎えることになります。同じ酉年で二回り違いの母は24年前からずっと58歳のままなのですが、もうすぐ私はそれを上回るのです。親の歳を超える。ここから先の道にはもう母の轍(わだち)はないのだなぁ、と思うと、ちょっとさみしいような怖いような、妙に不思議な気持になります。
自分の母親はこんな歳で逝ったのか、さぞや悔しかったろうなぁ、なんて思っていたら、ショックなことが起きました。ある人からレジェンドと呼ばれたのです。えっ、レジェンドって、普通ならとっくに引退してもいい歳なのに第一線で現役を張り続けている人、って意味だと思うんですけどね。敬称の様なので多分褒められたんでしょうけれど、スポーツ選手ならいざ知らず、50代でレジェンドってそりゃないだろう、と思いませんか。ミュージシャンや俳優にはバリバリの80代だってたくさんいるじゃないですか。確かに私だって販売担当者としては上から数えたほうが早くはなりましたけど、まだまだ…。ええぃ、父の歳を超えるまであと23年、そうなったら晴れてレジェンドと堂々呼ばれてあげましょうとも。(弥)
倶樂部余話【336】ノーラさんの息子が亡くなると…(2016年10月1日)
「ノーラの長男が急死したのよ」とアイルランドのアンからメールが。それは一大事です。どう一大事かというと、ノーラおばさんは当社のために毎年十数枚のアランセーターを編んでもらっている大切な編み手なんです。今年もすでに数枚が届いていますが、残りの分がなかなか届かないので催促のメールを入れまして、その返信が冒頭の知らせでした。「残りは彼女の気分が良くなってから引き取りに行ってくるから、そしたら送るわね」とアンが書き添えています。ああ、待ってる人も結構いるのに困ったなぁ、しかし無理を承知で頼んでいるセーターです、待つよりほか仕方ありません。
そんな時シェットランド島のピーターからもメール。「今年は熟練の編み手がみんな引退しちゃって、作業が全然はかどらないよ」との言い訳です。
多分他人からはよくそんなんで商売になりますね、と言われることでしょう。確かに全くビジネスライクではないです。仕上がってくる品物にもばらつきがありますから、売るのだってひと苦労です。
でも、だから愛おしい、だから魅力がある、だからやめられない。しかし一人の編み手の子供が亡くなっただけで急に当てが外れてしまう、そんな脆弱な基盤の上でかろうじて成り立っている、というのもこれまた事実。こりゃもう意地というか信念というか、はい、ビジネスを超越した心持ちであります。(弥)




