倶樂部余話【九十七】クリーニングと環境問題(一九九七年七月一三日)


クリーニング業界が揺れている。ドライクリーニングに使われている石油系や塩素系の溶剤が、環境破壊を及ぼすとして使用禁止や規制の流れにあり、最も規制の厳しいドイツでは廃業が相次いでいるという。業界では水洗いの見直しを進めているそうだ。

これに呼応し、家電&洗剤業界では、ドライマーク製品が洗える洗濯機や洗剤の開発に躍起である。

日本のアパレル産業は、縮みや色落ちの怖い製品には、安易な責任回避とも思えるほど「水洗い×・ドライ○」表示を付けてきたが、今後は積極的に水洗いに対応したモノづくりを余儀なくされるだろう。

海の向こう、アメリカ南部では、綿栽培の薬害汚染が深刻な環境破壊問題となっている。汚れなき真っ白を求めてきた結末が汚れた水の問題とはなんとも皮肉なものだ。

消費者団体の生活排水に対する意識も高まっていて、特に「石鹸」には高い関心が払われている。(これは私も大変興味があり、ただいま勉強中)少ない水量で洗える欧米型のドラム式洗濯機が日本でも売れ始めている。

エジプトのスフィンクスは青々とした緑の中に作られたそうだ。ところがスフィンクスを作ったために周辺の環境が激変し始めた。文明とは自然を破壊することで発展してきた。だから環境問題は難しい。考えれば考えるほど矛盾をはらんだ複雑なテーマなのだと思う。



倶樂部余話【九十六】「いらっしゃいませ」が言えなくて…(一九九七年六月四日)


新刊「現代人の作法」(中野孝次・岩波新書)にこんな話がある。

「いらっしゃいませ」は英語で”May I help you?”だと言われるが、これは疑問文だから、言われた客も”Hello!”とか”Just looking, thank you.”などと笑顔で答えないと間が持たない。ところが日本語の「いらっしゃいませ」だと返事を求められないので、日本人はこれを無視してむっつりと無表情のままだ。だから海外の店で日本人客は不気味に思われるのだ、と。

さて、十五年以上も前の話だが、私には寝言で「いらっしゃいませ!」とうなされて叫んだ経験がある。

某紳士服大手へ新卒で就職したばかりの私は、毎週末ある地方百貨店の紳士服売場に立っていた。そこには信じがたいルールがあって、一番最初に「いらっしゃいませ」と声を掛けた販売員だけがその客を接客できる、というのだ。一日中目を凝らして、通路のはるか遠くから来る客を狙うわけだが、百戦錬磨のオバサン販売員の中、なかなかチャンスは得られない。誰よりも早く「いらっしゃいませ」が言えなければ仕事にならないのだから、何しろ焦る。口に出せないその一言が頭の中でぐるぐると渦を巻き、喫茶店で休んでいても入口のドアがカランコロンと鳴っただけで条件反射のように「いらっ…」と思わず口に出てしまう。寝言で叫んだとしても無理はない。深夜にあまりの大声で母親が心配して私を揺すり起こしたのだった。

つまり百貨店の「いらっしゃいませ」は、実は客のことなど全くお構いなしで、店員同士で客を奪い合う合図に過ぎなかったのだ。

きっと日本人はそんな大型店の対応に慣れてしまい、「いらっしゃいませ」はBGMのようにしか聞こえないのかもしれない。しかし、呼び込みの「ェラッシャィ」は無視しても、知人宅の「いらっしゃい」の出迎えを無視する人はいない。

私はその基準がドアではないかと思う。店でも家でも、ドアの内側は私的な空間として相手を尊重し、多少とも緊張感を持って挨拶を交わしたいと思うのだが…。

ドアが開く、ゲストを迎える。「(ようこそ私の店へ)いらっしゃいませ!」。これがまるっきり無視された瞬間の、私の落胆ぶり、「あなたのために役に立ちたい」という意欲が瞬時にどれほど減退してしまったか。ああ、きっとこの人は分かってはくれないんだな…。



倶樂部余話【九十五】英国外交は紳士的か?(一九九七年五月一二日)


英国で十八年振りの政権交代。英国気質を標榜する当店としても関心が高いが、この紳士の国も外交においては極めて「非紳士的」な歴史の足跡を残している。
 
★この七月の中国返還に沸く香港。もともとはアヘン戦争の戦利品だ。いくら紅茶が好きだからって、茶葉と麻薬を交換するとは。
 
★イスラエルを巡る領土戦争。これもアラブとユダヤの双方にいい顔をした英国の二枚舌が一因。
 
★かの大英博物館には、七つの海からの略奪品をこれでもかと並べている。石造建築までバラしてイカダで運んだのだから恐れ入る。ギリシャやエジプトは絶えず返還を要求しているが、倫敦は決して首を縦に振らない。
 
★クロムウェルと言えば清教徒革命のヒーローと教科書では教わったが、アイルランドでは国賊扱い。カトリック弾圧に教会の焼き討ちや市民の虐殺など、大蛮行を繰り広げた。
 
★北アイルランド問題もしかり。全島一括独立のはずが、調印寸前で利権の大きい北部地方だけは渡さないとゴリ押しした結果。ブレア新首相はクリントン米大統領(アイルランド移民の子孫)と親交が深いらしい。好転を期待したい。
 
 我が国の歴史上の失策を鑑みるに、どうもこういう性質を「島国根性」と称するのかもしれない。かくして日英関係本日も良好なり。



月刊【ツーリスト】 ボツになった原稿


前掲の原稿が実際に掲載されたのですが、これは一晩で急いで書いたものでした。と言うのも、実はその前に一度提出してボツになり、差し戻された原稿があったのです。私としては、かなりの調査時間を割いて書き上げた原稿だったので、自信はあったのですが、編集者に「あまりにマニアック」と言われてしまったのです。ついでですので、ここに載せることにしました。

 

幻の原稿【セヴィルロウ物語】

 

▼十九世紀後半の文明開化の頃、ある日本人と英国人の会話。

日「おぬしのその服は何と称するものか?」

英「オー、ユーにもこのスーツの素晴らしさが分かるのか!何と嬉しいことよ。こいつはナ、そんじょそこらのスーツとはわけが違う、わざわざセヴィルロウで誂えた超一流品だ。どうだ、スゴいだろう、セヴィルロウだぞ!」

日「承知した。セ・ビ・ロ、だな。」

 かくして「背広」は日本語になったと言われている。

▼ロンドンの銀座通りともいえるリージェント・ストリートとボンド・ストリートの間に通るわずか二百メートルばかりの小径、ここが「背広」の語源となった「セヴィル・ロウ」である。よくファッション雑誌などで、セヴィルロウ・ストリートと書いたものを見かけるが、「ロウ」とはストリートよりも小さくて真っ直ぐな道という意味なので、この言い方は間違い。もっとも、このセヴィル・ロウが初めて文献に現れる一七三三年三月十二日付デイリー・ポスト紙は「バーリントン家の敷地内に新たな屋敷街が完成。その名は、セヴィル・ストリート」と報じているから、いつの間にかストリートからロウに格下げになってしまったらしい。ちなみに「セヴィル」は当地の領主バーリントン伯爵三世の妻の名から名付けられた。

▼この小さな通りとその周辺には約六十軒のテイラーが名を連ねており、まさに「仕立屋横丁」と呼ぶに相応しいのだが、残念ながらメンズショップがズラリと並んだ華やかな光景はここでは見ることができない。最も南寄りの一番地にある「ギーブス&ホークス」は、いつも華やかなウィンドゥディスプレーで、店内には既製服やアクセサリー、カジュアルウェアも豊富に置いてあり、観光客でも比較的気楽に買い物が楽しめる店であるが、こういった「ショップ」となっているところはむしろ稀で、「ヘンリー・プール」も「ハンツマン」も「キルガー・フレンチ&スタンバリー」も、その多くはいわゆる「ショールーム」で、ウィンドゥには一、二体のボディと巻いた服地が少々のディスプレー、室内にはバンチと呼ばれる服地のサンプル帳と大きなソファ。つまり商談応接室で、客のいないときは電灯すら消えているところもある。とても「ジャスト・ルッキング」と冷やかせる雰囲気ではない。

▼中にはショールームも持たず、ビルの階上にオフィスと工房だけといった小規模の仕立屋も数多く存在している。彼等は年に数回欧米に出張して顧客からの注文を採って回っている。多くは、元来、王室や陸海軍の指定を受けた御用職人で、儀礼服や乗馬服などの製作に携わってきた。今もそういった注文は決して少なくない。顧客層は、各国の王室皇室、政財界人、軍人はもちろん、ハリウッドの俳優やロックスターなどもこの街のカスタマーである。

▼セヴィル・ロウの仕立屋の多くは「ビスポーク・テイラー」と呼ばれる。一般のオーダーメードは標準型紙を元にして顧客ごとに修正を加えるのが普通だが、ビスポーク・スーツは型紙そのものから顧客一人ずつに作られ、何ヶ月もかけて顧客と話し合いながら(be-spoken)一着を仕上げていく、完璧な「誂え服」なのだ。その価格は最低でも五百ポンド(約十万円)、ほとんどは千ポンド(約二十万円)以上はする。これを高いと見るか安いと考えるかは、その人の価値判断だ。

▼世界中の紳士達の身だしなみを支えてきたこの静かなセヴィル・ロウが、時ならぬ大音響に包まれたことがある。一九六八年六月二十二日、ザ・ビートルズの会社「アップル」は、セヴィル・ロウ三番地にあった旧アルバニークラブを買収し、オフィスを構えた。以降、一九七二年のアップル解散までの約四年間、この街はジョン、ポール、ジョージ&リンゴに一目会いたいと願う少年少女たちで溢れ、通りの様子は一変したという。映画「レット・イット・ビー」のラストで繰り広げられる、あの壮絶は屋上ライブの舞台はこの三番地のビルの上で、文字通り上を下への大騒ぎ振りがフィルムにも描かれている。その後、このビルはしばらく服地卸のウェン・シェルが入居していたが、一九九五年に隣のギーブス&ホークスが所有し、売り場として増床している。

▼いっとき時代から取り残されたかのように見られていたセヴィル・ロウが、今また熱い注目を浴びている。その旗手は、伝説に化石化した老舗ブランドではなく、ポール・スミスやジェレミー・ハケットが主張してきたような、化石を現代に蘇らせるコンセプトを踏襲した新しいメンズ・デザイナーたちである。一九九二年にセヴィル・ロウに店を構えたリチャード・ジェームスもその一人。彼の店にはビスポーク・スーツを注文に来る二十代の男性が後を絶たない。彼等は誂えの細身のスーツを着てナイトクラブへ出掛けるのだそうだ。

▼「背広」の言葉は確かに誤解から生じたかもしれない。しかし、偶然にしては出来過ぎと思わせるほど、我々を背広のルーツへ、英国紳士の神髄を知る旅へと誘ってくれた、ありがたき大誤解だったと、私は感謝している。
(一九九七年五月)

月刊【ツーリスト】への原稿


近畿日本ツーリストが優良顧客に発行していた「月刊・ツーリスト」という雑誌がありました。そこから、ロンドンについて何か書いてくれ、と原稿依頼があり、それがその五月号に掲載されました。

 

「ロンドン・私流ウォッチングの旅~路地や広場を歩けば出会える英国の素顔」

 

2階建てバス、ビッグベン、バッキンガム宮殿……お上りさん的イギリスの旅から始まって、紳士服店の経営者として度々訪れたロンドンを歩いて目にした“英国の素顔”……こんな旅もまた楽しさなのだ。

文・野沢弥市朗


 英国気質を謳ったメンズ・ショップのオーナーという仕事柄、私はお客様から英国の旅についてのアドバイスを求められることも少なくない。

元来、男というものは、ショッピングなるものが苦手、と言われていて、私自身も決して得意とは言えないが、しかしロンドンだけは例外だと思う。恐らくロンドンという街は、パリやミラノなどの他の欧州の大都市と比べてみても、男性が存分にショッピングを楽しむには最適の街ではないだろうか。数多の英国紳士を支えてきた古くからの専門店が男のモノごころを刺激して止まないのだ。

「背広」の語源と言われる「仕立屋横丁」のセヴィル・ロウから、二〇〇年続く小さなショッピング街・バーリントンアーケード(ボタンから銃や剣の店まである)を抜け、ピカデリー(馬具、傘、喫煙具など)を渡って、ジャーミン・ストリート&セント・ジェイムス・ストリート(シャツ、靴、帽子など)までの僅か一.五㎞のコース、これが私のお気に入り「英国紳士を知る、男の服飾早分かりコース」だ。一体このルートにいくつの男の店があるのか、数えたこともないが、丸一日をこのコースに費やしても足りないほどの充実感があると思う。大英博物館に一日を潰すよりもよっぽどロンドンが分かる、と言っても言い過ぎではない。いつ通っても変わらぬ光景だろうに、何度通っても新しい発見がある。これが歴史の重みだろうか。

なんて、今ではひとかどの英国通のような顔をしている私であるが、初めて憧れの訪英を果たしたときは、どんな観光客よりも舞い上がっていた。思い出すと恥ずかしく、しかし、懐かしい。

初めて降り立ったヒースロー空港から、朝もやの中の住宅街を縫うようにウインザーまで向かう路線バスの車窓に映るなんの変哲もない眺めさえ、最初は大はしゃぎしたものだった。お決まりのロンドン市内観光バスでも、二月の寒空にオープンエアーのダブルデッカーの二階席に陣取って、テムズ川・ロンドン橋の上で、おのぼりさんよろしくチーズでパチリ。それでも寒さを感じないほどに浮かれていた。

その後、ロンドンには何度か訪れて、そんなに舞い上がってしまうことも少なくなったが、それでも忘れられない出来事がいくつも思い浮かぶ。

ソーホー地区の東、グリーク・ストリートという小さな通りにある、これまた小さな酒屋「ミルロイ」。スコッチウィスキーのシングルモルトの品揃えではロンドン一と言われる店で、見たこともない幻のボトルがズラリと並んでいる。私はこの日朝一番の客になった。「この酒は何?」と訪ねると、太っちょのミルロイさん「この酒は……(延々と講釈)……、ちょっと飲んでみるか?」とテイスティング・グラスにたっぷりと注ぐ。幻のスコッチだ、願ってもない、とこっちも一滴残さず飲み干す。次のボトルを指さす。また、「これは……で、ちょっと飲んでみるか?」と再び惜しげもなく注ぐ。こっちから尋ねた酒だ、残すわけにはいかない。こうして、私は十杯近いスコッチのストレートをたて続けに一気飲みする羽目に陥った。もちろん、これだけ飲ませてもらって、タダでは帰れない。ご自慢のボトルを十二本も購入し、空輸を頼み(ケースが六本入りだから六本単位でしか送れないのだ!)、巨額の支払いを終えて店を出たのは良いが、目が回る、足はふらつく、まだ昼前だというのに、ヘベレケ状態。予定をすべてキャンセル、昼間からホテルのベッドで酔い冷まし。まったく、タダより高いものはない、を地で行くような体験だった。

アスコットの競馬もいい思い出だ。ギャンブルをやらない私の目的はファッションウォッチング。紳士のモーニング姿の実例をつぶさに観察したいがための、アスコット行きだった。ところが、競馬場はカメラ持ち込み禁止で、入り口で没収。しかも場内は正装エリアと平服エリアが柵で分けられている。私はと言えば、柵の縁から、正装の紳士淑女を双眼鏡で覗いては、必死でメモを取る有様。おまけに土砂降りの雨。観衆がトラックの馬たちに大騒ぎする中、私一人あさっての方角を向いて、雨合羽姿でメモを取っていたわけだからずいぶん変な奴と思われただろう。

「金曜日の朝のバーモンジーの蚤の市が面白いよ。ただし観光客が増える八時すぎからは値段が段々高くなるからね。行くんだったら夜明け前だぜ。」との情報に、懐中電灯持って朝の四時から行ったはいいが、慣れない物をゆっくり物色しすぎて、結局買ったのは九時を回ってた、なんて笑い話も思い出す。

 ところで、東京と日本が違う以上に、ロンドンと英国はまったく違うと言って良い。英国の旅をロンドンだけで終わらせてしまうのはいかんせんもったいないことだ。何としてもカントリーサイドへ出てみることをお薦めする。イチ押しは、三泊四日ロンドン発着の英国一周バスツアーで、私は皆に薦めている。四日も取れないという人も、せめて二日でもロンドンから離れて、郊外へ旅したい。英国人の暮らしぶりはカントリーサイド抜きには語れない、きっとそのことが実感できると思うからだ。
(一九九七年五月)

倶樂部余話【九十四】私の筆についての喜怒二題(一九九七年四月七日)


◆喜の巻。初めて原稿料をもらえる執筆依頼がありました。近畿日本ツーリスト「月刊ツーリスト」五月号「英国特集」に掲載の予定です。ロンドンでの旅の思い出を、という依頼で、気合いを入れて数週間悩んで仕上げた第一稿が、堅すぎです、という編集者の一言で敢えなくボツ、少し面白おかしく第二稿を慌てて一晩で仕上げ送稿しました。

毎月の当通信はこちらがコストを払いしかも顔の見える数百名だけに伝わればいい、極めて独断的私文であるのに対し、今回はカネをもらった上で不特定多数にさらけ出す文章なわけで、この違いは予想以上のプレッシャーでした。
 
 筆で飯を食っている人はさぞや図太い神経の持ち主なのだろう、と感心した次第です。

◆怒の巻。私のライフワークのひとつが、本物のアランセーターの日本での啓蒙普及。そのために四年前、私が心血注いで綴った小冊子、その私の文章が、こともあろうにニセモノの大量販売のために無断盗用されました。相手は大阪の大手通販会社S会。一昨年来私はこの会社から、たとえ少量でも世界一の本物だけを会員に紹介したい、という強い意向を受けて、いろいろと協力をしてきたのですが、昨年末、企画自体がボツになったと報告を受けました。ところがある筋から私の元に届いたカタログは「本物中の本物」と銘打った豪華なもので、明らかに読者がニセ物を本物と錯誤するように誘導していて、私の文章はあたかもそのお墨付きのように使われているではありませんか。これはもう完全に読者をナメた悪質な確信犯です。この裏切りは決して許すことができません。
 
 どのように抗議するか、現在アイルランド政府商務庁と相談中ですが、なんとしても本物と信じてニセ物を掴まされる数百人を救済しなければいけないと思っています。

◆「ペンは剣よりも強し」か。ホント両刃の剣だもンな。

倶樂部余話【九十二】アムステルダムの休息(一九九七年二月八日)


「滑走路凍結のため二日間の足止め」と知ったのはダブリン空港でアムステルダムへの乗り継ぎ便に搭乗するわずか十分前のことでした。

とりあえずの緊急対処を講じた後、私はすっかり落ち込みました。多分ワーカホリックの典型的症状なのでしょう。一人異国で二日間の拘留。これは働き過ぎにバチが当たったのだと神すら恨みました。それほどにぽっかり空いた休息、というのが私にとって縁遠いものだったのです。

乗り継ぎするだけのつもりでなんの予備知識もないアムステルダムの街をあてもなく散歩。繁華街から住宅街へ入り込んだあたりで、塞ぎ込んだ仕事人は徐々に旅人になっていきました。凍て付く運河、マッチ箱のような傾いた石の家々、生鮮品の並ぶ広場のマーケット…。十七世紀と何ら変わらない絵のような風景の中に、ヨーロッパ独特の歴史の深さ、文化の貴さ、生活の厚みなどが心に染み入るように感じられたのです。

ようやく私はこの休息を楽しめる気持ちにななりました。きっと体をこわす前に神が与えてくれた恵みだったのだと、私を旅人にしてくれたアムステルダムの街に感謝しています。

災い転じて福と成すのお話。

倶樂部余話【九十一】セールをするのは店の都合(一九九六年一二月二五日)


「セール」と聞くと色めき出す人もいれば、「セールならば行きたくない」という人も意外に多い。

確かにモノが安く買えることは魅力だ。しかしそれがためにかえって不愉快な思いもする。混雑する売場、山積みの安売り用追加商品、買わなきゃ罪悪とばかりに迫るぞんざいな店員の態度…。つまりサービスが低下して、楽しい買い物ができないなら行きたくない、ということなのだろう。

いまだに売る側の多くは「セールなのだからサービスが悪くなるのは当たり前だ。その分値段を下げれば客は喜んで買うさ」と思い込んでいるようだ。しかしはっきり言いたい。セールをするのはあくまでも売る側の都合なのである。なのにその都合を客に押し付けてはいないだろうか。考えてもみよ、安売り航空券で乗ると機内サービスが悪くなる航空会社など、私は聞いたことがない。

私たちはこう考えます。セールは新しいファン客を増やす絶好のチャンス。自店の魅力をもっともっと知っていただける最良の契機なのです。だから、いつも通りの接客、そのままの商品(セール専用の安売り品を追加しないのが原則)、変わっていいのは値段だけです。

あなたのご来店を心よりお待ちしています。

 

※この一文は初めて出した新聞広告の一部として公開掲載した。変わったセール広告を見た、といって来店された新規客も何人かいました。



倶樂部余話【九〇】先祖詣で(一九九六年一二月三日)


ケネディやクリントンを始め二千万人といわれるアイリッシュに向けてアイルランド観光庁が発行している雑誌がある。こんなモノを定期購読している日本人は私ぐらいだろうと思うが、中に「あなたのご先祖お探しします」という広告が載っている。私は四年前のあの一夜を思い出してしまう…。

六月、私はスコットランド巡り四日間のバスツアーに参加した。同乗客には初老の米国人夫婦が多い。エジンバラに着き、ホテルの宴会場で毎夜催されている「スコティッシュナイト」という観光ショーへ。名物のハギスを食べながら、ステージではタータンチェックの男女数人が躍ったり歌ったりで、私はすっかり観光気分に浸っていたが、突然目の前の席の米国婦人がワッと泣き始めたのである。「この歌、祖母がよく歌ってくれたのよ…」。

そうか、この人たちの旅は「先祖詣で」なんだ、自分のアイデンティティを血のルーツに求めに来ているんだ、と感動したのも束の間、次に奇妙な孤独感が襲ってきた。この聴衆はみんな血のつながりのある米国人やカナダ人、オーストラリア人など、その中にいる全く無関係な日本人の私はまさに異邦人じゃないか。ショーのフィナーレはスコットランド民謡「蛍の光」の大合唱。一人日本語で大声張り上げて歌う私の姿はきっと奇異に映ったことだろう。

深夜、ホテルの部屋へ帰り、テレビをつけると、NHKの衛星放送、雅子様が笑顔で手を振ってパレードしている。部屋の窓からは眼前に拡がる見事なエジンバラ城の夜景、テレビの中では皇太子ご成婚パレードの生中継。この夜味わったカオスは、少しばかり飲み過ぎたスコッチのせいばかりではなかったろう。メリークリスマス。

倶樂部余話【八十九】ディテールには由来がある(一九九六年一一月一四日)


背広上着の後ろの裾にある割れ目、ベントと言います。背広のルーツは軍服などの儀礼服ですから、元来は割れ目はなく、だからフォーマル服は今でもノーベントです。狩猟などで野山にしゃがむ必要から両脇を割ったのがサイドベンツ(左右二つなので複数形)、乗馬のために真ん中で割ったのがセンターベントです。

上着の右の脇ポケットの上にもうひとつ小さいポケットを付ける、これチェンジポケットと言い、チェンジ(小銭)を入れるのに付いたのが始まり。更に脇ポケット全体を斜めに付けることがあり(スラントポケット)、これは乗馬の際の前傾姿勢でもポケット動作がしやすいようにと工夫した結果です。

スラックスの右腰の前にも小さなポケットが付くことがあり(ウォッチポケット)、懐中時計を入れます。その懐中時計の鎖を留めるのが、ベストに付いている縦の穴で、チェーンホールと言います。

ほんの一例。このように単なる飾りのように見えるものも、必ずその由来があるわけで、極力その由来に忠実たれ、というのが英国服の基本姿勢だと言えます。例えば、脇ポケットを乗馬が由来のスラントポケットにするならベントも呼応してセンターベントであるべきですし、ベストにチェーンホールを付けるのならばスラックスにはウォッチポケットが付いてて欲しいわけです。

これらを万事心得て、理にかなった背広を提供するのがプロとしての私の仕事です。背広のオーダーを受けるというのは、単に寸法を合わせることだけではないのです。私が受けて私が付けたお墨付き、それがSavile Row Clubのラベルの意味だと思うのです。

 

※雑誌「ラピタ」(小学館)別冊付録でアイルランド特集。私が全面協力し、アランセーターなどが通販で大変よく売れた。