倶樂部余話【八十八】秋のロード(一九九六年一〇月一六日)


昨年同様にこの時期に長期で出店を留守にすることが増え、すでに松江と山口のフェアを終えました。ブルートレインの寝心地にも少し慣れました。

「オーナー店主のくせに、この秋の一番楽しいときに店を空けるとは何たることか!」といったお客様の反発もあるかなぁ、と心配もしましたが、あに図らんや、多くのお客様が、この静岡の小さな店から日本中に様々なジャブを発信し、小さいながらも少しずつ評価をいただいていることを、自分のことのように喜んでくれて、おまけに「あんまり働き過ぎんなよ」と身体まで気遣っていただいて、本当にありがたい限りです。

お客様の都合もあるだろうに「この日はダメよ」という私のスケジュールに合わせて客の来店を制約するなんて、思えばずいぶんわがまま放題な店主で、その甘えに寛容でいていただけるお客様を嬉しくそして大いに誇りに思いたいと、改めて感じております。



倶樂部余話【八十七】秋の最初に買う服(一九九六年九月一五日)


 

ある期間が首都圏200家族を対象にした調査によると、一家族(2.8)が保有する衣服(肌着を除く)の平均保有枚数は337枚。うち過去一年間に着用したものは59%。残りは「着るつもりでいて結局一度も着なかった」非着用品(24%)と「着るつもりはなく保管している」退蔵品(17%)なのだそうです。

皆さんの実感と比べていかがでしょう。300枚と言っても、単純に一人あたりで120枚、春夏と秋冬で60枚ずつだから、そう驚くこともない数字に思えます。

気になるのは、一度も袖を通してもらえなかった、かわいそうな服たちがその4割をも占めるという事実。礼服や晴れ着、思い出の服、などはともかくとしても、当店の服はなるべくこの4割には入って欲しくないな、と思います。特に我々の商品には、使ってみて更にその良さを体感する、といった類の品が多く、「こないだ薦められたアレ、思いのほか役に立つね。重宝してるよ」というお声は何よりの励みになります。

不幸にして非着用品に入ってしまった当店の服は、嫁ぎ先でうまくいかない嫁のようで、仲人にも責任があります。できるものなら何とかしたい、私が悩み相談所になりましょう。

高名な女流服飾評論家曰く「秋の初めに最初に買う服、この選択はとても重要でしかも一番わくわくするときです。なぜなら、これから先一年の自分のオシャレが成功するかどうかがその服で決まってしまう場合が多いからです」

秋本番、最初に買う服、もうお決まりですか。



倶樂部余話【八十六】開店10周年を迎えて(一九九六年八月二二日)


1987年9月1日開業の当店は、いよいよ10度目のシーズンを迎えます。もう10年か、あっという間だな、と思っています。開業当時をご存知の方で、10年後の今の店の姿を想像できた方は一人としていないことでしょう、私自身を含めて。

それほどに、私自身成り行き任せで好き勝手にやらせてもらってきた感が強いのですが、それでも振り返れば、いくつかのターニングポイントらしきことが見当たります。中でも、バブル崩壊・価格破壊・低成長経済でメンズショップ自体の存在意義が大きく変化、当店も徐々に中心ターゲットを、当初の親子二世代狙いから、戦後生まれの夫婦客に絞り変えていったことが、今の店作りにかなりの影響を与えています。

また93年秋に横浜そごう・アイルランドフェアで、初めて店から出てアランセーターを販売したことは、当店を全国区レベルの店として認めてもらえるようになっていく契機でもありました。ミニイベントを次々に開催した時期もありましたね。この告知が「倶樂部余話」の月例化になり、今のメンバーズ制度に続きました。

品揃えに関しては、その時代時代に自分なりにベストを尽くしてきたという自負はあります。その結果で「○○ならこの店だよね」という「ならここ」商品の分野はかなり持ち駒が増えてきたように思います。

「こんな店は静岡で成功しない」「モノになるまで何年かかるやら」と言われ、意地でも10年は頑張るぞ、と誓ったその10年目の秋冬、かつてないほどに自信ある「ならここ」商品を集積しました。ざっと分野別にアピールさせていただきます。
 
☆メンズ・オンタイム分野…スーツとシャツは、オリジナルのオーダー受注を強化。価格帯も生地も選択の幅を拡げました。試着見本も充実させて既製服並みの安心オーダー。靴は当店だけの英国製別注チャーチに初挑戦。
 
☆メンズ・オフタイム分野…英国調のセーター&アウターコートの二分野にかけては、当店の内容は全国に誇ってもいいと思います。
 
☆レディス分野…バランスのとれたトータルな品揃えをあまり意識せず、得意なモノ他にないモノをぐいぐい押していくことにします。三本柱は、ニット、コート、ケープ&マフラーの纏いモノ。ほとんどが直輸入モノです。

仕込み万全、当然、過去最大の売上予算を組んでます。気合いの10年目、どうぞ大いにご期待下さい。

倶樂部余話【八十五】徒歩通勤をしています(一九九六年七月二一日)


暑中お見舞い申し上げます。

往復6㎞の徒歩通勤を始めて一ヶ月、最初はマンホールのフタばかり気にしていましたが、このごろようやく視線が上を向いてきて、様々な季節の微妙な変化にも目が付いていくようになりました。同時に、草花への知識のあまりの乏しさを恥じ、また草木を愛でる習慣のなかったことを悔いている毎日です。なんでも今最も人気の英国ツアーはガーデン巡りだそうで、私も向学のために今度の休みに蓼科の英国式庭園へ行ってみることにしました。

と、夏真っ盛りのこの頃ですが、店内は今月からいよいよ冬に向かって始動しました。正直今は何を置いても売れない時期。ならば鮮度の落ちた夏物を無理に引っ張るより、期待の大きい冬物をいち早くご紹介した方が喜んでいただけるだろうとの判断です。

セールも一段落。入店客も減って、人恋しくなっています。冷たい麦茶飲み放題、どうか涼みにご来店下さい。

 

※日経流通新聞1996年7月4日付「元気な商店主」で私が写真付きで紹介されました

倶樂部余話【八十四】店は冷やかし客のためにある?(一九九六年六月一八日)


同じ「買う」という行為でも、仕入れはバイイングと言いますが、一般の買い物はショッピングと呼ばれます。つまり、shop + ingで、原義は店歩き、買う行為ではなく店を冷やかして回ることを指しています。

テレビやカタログなど、店ではないショッピングの場合、一般商店よりも圧倒的に冷やかし客ばかりでしょう。テレビなどでは95%以上はただ視ているだけだと思います。しかし彼らは、買う客買わない客の区別なく、同じだけの情報を確実に提供してくれます。

私たち商店の人間は、つい「どうせ買わない冷やかし客だから…」と思ってしまって、カタログのように、顧客と同じレベルまで与えてあげられる商品情報やサービスの提供を怠ってしまいがちです。

近頃自分自身にややその慢心があったことに気が付き、「これではいけない!」と自省している次第です。



倶樂部余話【八十三】お手荷物は置いて、と言われたら…(一九九六年五月一四日)


「どうぞこちらにお手荷物を置いてご覧下さい」と店員に言われたら、どう感じますか。

「どうもご親切に」と喜んでくれる人もいるでしょうし、「押し売りされるのかな」と警戒する人もいるかも知れません。しかし私たちにはまったくそんな意図はなくて、ただ単純に「商品を両手で大切に扱って下さい」という切なる「お願い」なのです。

のっけからこんな話をしてしまったのは、先日、片手に大きな袋を三つほど持ちながら、もう一方の手で商品を強引に引っ張るように見ているアベック客がいまして、「お荷物を…」と三度ほどお願いをしましたが、聞き入れていただけないので、思わず堪忍袋の緒が切れて、語気を強めて注意してしまった事件があったからなのですが、それでも彼らはキョトンとしていましたから、こちらも呆れるやら、がっかりするやら…。

通販、スーパー、コンビニや百貨店と私たち専門店との決定的な違いは「会話」です。当店で会話なしに売り買いを済ますことはまず不可能でしょう。そして究極の専門店の在り方とは限りなく「家」に近いものではないでしょうか。例えば、ホストの「いらっしゃいませ」の招きの言葉に、ゲストが目も合わさずに、家の中を無言で歩き回って、何も言わずに出ていったとしたら、あなたはこの人を客人として歓待できるでしょうか。

決して冷やかし客を非難しているのではありません。どんな上顧客も初めはみんな冷やかしだったのですから。冷やかし客ほど大事な潜在顧客はいないのです。だから、とても上手な冷やかし方をする人に会うとこちらも嬉しく思いますし、逆に、下手な人には「損してるょ」と言いたくなるときがあるのです。

「店員の分際で何をほざくか」というそしりは覚悟の上、わたしとて人の子なんですから…

倶樂部余話【八十二】シーアイランドコットン(一九九六年四月一五日)


シーアイランドコットン(直訳で「海島綿」)を販売するにあたり、手元の「コットンの世界」(88年・馬場耕一著・日本綿業振興会刊)を再読した。綿の最高峰といわれる海島綿が果たしてどのくらいスゴいモノなのか、宣伝媒体でない文献で確認しなければ、と思ったからだ。

まず、この奇妙な名だが、19世紀までの生産地がジョージア州フロリダ州大西洋沿岸のシー諸島であったことに由来する。

カリブ海地方の特殊な気候でないと育たないため、経済性が悪く、しばらく絶滅の危機に瀕していたが、英国の援助のもと、今はカリブ海西インド諸島の小さな六つの島のみで生産され、英国西印度諸島海島綿協会(総裁はエリザベス女王)が一切の品質管理と販売権・価格決定権を握っている。

綿の品質で最重視されるのは繊維長で、繊維が長ければ長いほど細くて強い糸を紡げる高級綿になる。一般的な綿が27㎜、エジプト綿が38㎜に対し、海島綿は平均49㎜と1.8倍、マスティック島の英王室専用綿にいたっては実に2.4倍の64㎜と、驚くほどの長さだ。ロウ分も多く、白さと光沢、シルクのようなしなやかさも大きな特徴だ。吸湿性、耐久性は言うに及ばず。

おまけに生産量が極めて少ない。高級綿とされる35㎜以上の超長綿(これとてすべての綿の4%)のうち海島綿はわずか0.07%、しかも天候にデリケートで毎年の生産量も不安定という塩梅。

つまり誇大表示でなく、まさに「ずば抜けた」最高峰、希少価値モノで、高価格もむべなるかな、と納得した次第。

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倶樂部余話【八十一】勉強机(一九九六年三月一一日)


さて、其ノ二です。

自分の息子の勉強机に大変立派な木製の机を買い与えた先輩がいました。「子供にそんな高価な机なんか…」という周囲の反対にその先輩は主張しました。「どんな安物だとしても、勉強机は捨てられないで残る。どうせ残るならいいものを残してやりたい」と。

確かに、私の机も日本地図が印刷された安物でしたが(私は地図が大好きなのでした)、少し前まで家の片隅にありました。思えば、その机の上では若き日の喜怒哀楽の数々が何度も繰り返されてきたわけで、言うなれば、子供の勉強机というのは主婦の台所みたいな存在なのだなあ、と、この先輩の話にいたく感動したのでした。

この春、上の娘が小学校に上がることになり、かような思いを持つ私は、娘と一緒に勉強机を作ることにしました。と言っても、鋸やカンナの技術は持ち合わせていないので、当店でカタログ販売している米国製のキット家具(一階でサイフなどを陳列しているガラスケース、あれは私が塗装、組立した見本です)で、ロールトップデスクを取り寄せました。

二月に取れた久々の連休。天気は上々、いよいよ制作です。一日目、すべてのパーツを庭の芝に広げ、サンドペーパーで磨くこと、延々半日以上。それからオイルを塗ってまた軽く磨き十二時間放置。二日目、二度目のオイル塗りの後、さらにワックス塗り、そして念入りに磨く。夜になってようやく組立開始。とうとう深夜二時、ジャバラのついた立派な机が完成しました。

六歳と三歳、二人の娘は手伝ったというか邪魔したというか、それでも「ここはあたしが塗ったところ」「このクギも自分で打ったよ」と、大変ご満悦。ピカピカのランドセルを乗せて、じっと机を眺めているところを見ると、少しは愛着を感じてくれてはいるようです。

春は名のみ、つかの間の休日の出来事でした。

倶樂部余話【八十】アイルランドからの訃報partⅡ(一九九六年三月一一日)


二月号が出せなかったので、今回は合併号で二本立てです。まず其ノ一。

前号で、九十才で急逝したアイルランドのおじいちゃんの墓参りに「行ってきます」と飛んだ、帰国報告から。

ダブリン郊外の丘陵中腹の墓地にある翁の墓は、ほかの墓と違って、古代のストーンヘンジさながらに、自然の石を積み重ねて墓石にしたユニークなものでした。大戦で長男を亡くしたときに翁自身のアイデアで作ったとのこと。土葬のため、真新しい土が掛けられ、花に埋もれたその下に、大恩人のお爺ちゃんが横たわっているかと思うと、止めどなく溢れ出る涙を押さえることができませんでした。

翁の後継者として従来から実務全般を担当してきたご子息ルーリィ氏とは、今後の対策などを徹底的に議論しましたが、彼は、翁の父が大英帝国議会のアイルランド代表の議員だったこと、そして若かりし日の翁がアイルランド独立運動の論客戦士だったことなど、初めて話してくれました。

また、たまたまダブリンのパブで隣になった青年は、アラン島から出稼ぎに来ている漁師で、「島の者で彼の死を知らない人間は一人もいないよ。彼が島の人々の生活を支えた功績は誰もが知ってる有名な話だからね。」と教えてくれました。

更に、先日お会いした文京女子短大のマッケルウェイン教授は「彼はケルト文化の研究者としてもとても名の知れた男だったんですよ」と語ってました。

死して初めてその故人の本当の偉業を知る、ということは往々にしてあることですが、これほどの功績のある翁が最後まで息子に譲らなかった日本でのビジネス。私はそのパートナーとして死の一ヶ月前に権限を任命されました。私には、運命的としか思えない、その意義と重責を心に命じ、翁の遺志を守る決意を固め、帰国したのです。

倶樂部余話【七十九】アイルランドからの訃報(一九九六年一月一三日)


昨年暮れ、ちょうど前号の原稿を仕上げた直後でした。一通のファックスがアイルランドから入信しました。あの「アランセーターのおじいちゃん」パドレイグ・オシォコン翁の訃報、九十才の大往生でした。

今まで何度か当報で翁の紹介をしていますが、彼は私の人生を変えるほどの大恩人でした。彼との出会いがなければ私がここまでアランセーターに心血を注ぐこともなかったでしょう。

四十年程前までアランセーターは家族のためだけに編まれていたに過ぎないものでした。アラン諸島の経済は大変貧しく、またセーターの伝統の灯も消えかかっていたようです。これを憂いていた若い政府職員が翁に相談したのがきっかけで、彼はそれまでの弁護士の職を辞し、アラン諸島へ乗り込み、家々をおかみさんたちの説得に回りました。「私が注文を出すから、セーターを編んでくれないか」と。一九五七年のことです。

また、歴史家としてアランの風俗習慣を熱心に調査し、数冊の著作も残しています。島の貧困を救い、伝統工芸を守ってくれた彼の功績に島の年寄りたちは今でも彼に感謝しています。アイルランド国内ではアランセーターのための特殊な編み糸を確保するために奔走し、また出来たセーターを抱えて世界各地に売り込みにも行きました。

とても日本が好きで、この二十年来、年に一~三回のペースで来日していました。亡くなる二週間前にも東京と大阪に数日間、私と一緒に滞在し、私とのアランセーターの日本代理人契約に喜んでいた矢先の出来事でした。

アランセーターの復興と普及に自らの後半生を賭けた尊敬すべき頑固なアイリッシュの冥福を祈り、その遺志を日本で何としても守り続けていく私の決意を墓前に伝えるため、急遽ダブリンへ飛ぶことになりました。しばしの不在をお許し下さい。行って参ります。