倶樂部余話【一八二】海外出張報告(二〇〇四年二月五日)


恒例の海外出張報告です。今回は、ダブリンとロンドン(&グローヴァオールの工場見学)というシンプルな旅でした。

私たちは見知らぬ土地へ行くと、ついその土地らしさを観察したがり、その発見に感動したりするものですが、今回は何度も訪れた二都市だからでしょうか、逆にその「らしさ」が消えて行くような印象を抱いて帰りました。

ダブリンは、いよいよ先進国の仲間入りを果たしたアイルランドの自信に満ちた勢いで溢れています。この十年で三倍に急増した観光客は、従来から皆が抱いている古いアイルランドを求めて訪れているのに、 ダブリン自身はそのイメージを打ち消したがっている、というのはやや皮肉めいています。若者がギネスを飲まなくなった、という話も聞きました。でも、きっとあと何年後かには、 ヨーロッパのどこにもない新旧の魅力に溢れた街になるんじゃないかな、という期待も大です。

 ロンドンは、随分東京みたいになったな、という印象でした。昨年はミラノでの英国趣味の強さを感じましたが、どうやら逆にロンドンは今イタリア趣味を甘受しているようです。二百年も続いていた老舗の店が目抜き通りから消え、その跡に巨大メゾンブランドがやたら明るく無機質な店を構えています。 かつては薄暗かったセヴィルロウも今はきれいな店がずらりと並びました。良くなったことといえば食事。コンラン系のレストランばかりハシゴしましたが、どこも美味でした。ある意味これも東京っぽいとは言えますけどね。 

倶樂部余話【一八一】値段は誰が決めるのか(二〇〇四年一月九日)


海外で買い物をすると、同じ品物でも専門店の方が百貨店よりも高い値段が付いている、ということは決して珍しくないことです。 その代わり、専門店は、品揃えが良く、接客も丁寧で、お直しも無料でしかもその日にホテルまで届けてくれたりと、その差額を補って余りあるほどのサービスが付加されてくるのです。

さて、今回の話は、値段は誰が決めるのか、ということです。経済学者ならそれは市場(消費者)が決定する、と言うかもしれませんね。実際、欧米では小売店が自由に設定しているのに対して、日本では(独占禁止法という法律があるにはありますが)代理店や卸し元が小売価格を「希望」するのが常になっています。

さて、この四月から、消費税法の改正で値段はすべて税込みで表示するように義務付けられます。将来の増税への布石でしょうが、内税方式の導入自体はかねてからそうあるべきだと考えていたので、 私は歓迎してます。 今、流通業界は980円1,029円になったんじゃ売れないょ、と大騒ぎしています。999円で売れるように951円に値下げせよと問屋に圧力をかけている大手量販店もあるようです。

私なら、980円はそのままにして、他のモノで50円上げるなりして利益を調整することでしょう。それでも人はこれを便乗値上げだと非難するでしょうか。

 私は思うのです。この内税方式への変更は、価格を決める裁量権限を小売店が取り戻す、千載一遇のチャンスなのだと。希望小売価格などに捕らわれず、自店の付加価値を考慮して、各自が独自に売れる値段を付ければいいだけのことだ、と考えるのですが、果たしてこれは暴論でしょうか。 

 

倶樂部余話【一八〇】静岡の店です(二〇〇三年一二月一日)


当店のホームページに「お客様からの声」という欄があります。これを読んだある方が言いました。「遠くから来てる人が多いんだね。ひょっとしてお店は県外のお客の方が多いんじゃないの」

いえいえ、それは誤解です。ここにはメールで寄せられたご感想などを転載してますので、どうしても遠方の方の比率が増えてしまうのです。なぜって、何度も店内でお相手をしている静岡のお客様であれば、 そのつど直接に充分話し込んでいますので、わざわざメールでご感想をいただくまでもないからです。当店の顧客は圧倒的多数が静岡県内の方ですし、今後もその軸はぶれません。

かなり前に「この店の本店は東京かどこかですか」と聞かれたことがありました。つまり、その方は、この店が静岡の単独店であるはすがない、と思い込まれた様でした。 さすがに開店17年の今はそういう声は聞かれずに、逆に「こんな店、東京にもないね」との声も稀ではなくなりました。 私は答えて「いいえ、ないのではなく、できないんだと思いますよ。東京ではこういう店は作れない、私だろうと誰だろうと…。この店は静岡という立地だからできるんです」

遠くからお越しの方の会話の中で私が一番嬉しいのは「この店へしばしば通える静岡の人が羨ましい」という一言です。

HPの効果で、今後も県外の方の来店は増え続けることでしょう。それは取りも直さず、当店が静岡にしっかりと根を下ろしている店、ということへの評価にほかならないのだと思います。  



倶樂部余話【一七九】サイズの話(二〇〇三年一一月七日)


私たちはどうしても知りたいことなのに、お客様はあまり積極的には教えようとしてくれないこと、それがご自身のサイズです。

もっとも、わざわざお聞きしなくても、一度お目にかかれば、すぐにその方のサイズは大体分かります。私たちは店内の商品をほとんど自分たちで試着した上でその大きさを把握していますから、目の前の方に一番ふさわしいサイズのものをプロの目で選び、お薦めすれば良いのですから。

そのようにいかないのが、電話やメールでのお問い合わせの場合です。あたかもその人が眼前にいるが如くに、その方の体格を頭に思い描かなければなりません。ですから、失礼とは思いながらも、その方のサイズをしつこいぐらいにお伺いすることになります。

ところが、お客様からの返事は極めて曖昧で、Mです、とか、9号です、とか、また、性別すら不明というメールがあったり、さらに、ご自分の体型も伝えないでおいて「大きなサイズはありますか」といった、答えに窮する質問もあります。

はたまた、英国のAブランドは38で伊のBなら46を着てます、と、持ち物自慢をしてるの?という返事もありますが、これは鮨屋でアガリとかムラサキとか言って通ぶっている無粋な客と同じじゃないでしょうか。

こちらはビジネスとして聞いてるんだから、どうして、みんな、一番分かりやすい万国共通のセンチcmで教えてくれないのかなぁ、と思ってしまうのです。

そういえば、昔に読んだホイチョイの恋愛指南書に「靴のサイズを聞いて、cmでなく36とかの欧州サイズで答える女には要注意。見栄っ張りで、高くつく恐れ大」ってあったよな。

倶樂部裏話[7]早すぎるクリスマス(2003.11.10)


 今年はなかなか寒くなりませんね。今日(11月7日)は夏日(25℃超)を記録したとか。街ではまだまだ半袖一枚の人さえ見かけます。もっとも、暖冬ということでは、ここ静岡はいつでも暖冬の地ですから、他の寒冷地に比べれば、その影響は少ないだろうと感じていますが。
 そんな陽気なのに、デパートでは早くもクリスマスの装飾が始まりました。クリスマスも前倒しのようで、さすがにこれにはいささか呆れます。一年12ヶ月のうちの約二ヶ月も、つまり一年の六分の一がクリスマス・ディスプレーになるということです。まさか、12月になったらお正月を前倒しして門松を立て、年の暮れには早々にバレンタインでも始めるつもりでしょうか。
 いうまでもなく、クリスマスはイエス・キリストの聖誕祭で、元来は欧州の習慣です。英国のクリスマス・シーズンはまず11月半ばの日曜日に家族全員で行うクリスマス・プディングの仕込みから始まるようですが、一般にクリスマスの期間というのは12月1日からアドベント(降臨節)が始まり、徐々にキリストの降誕を待ちわびる気持ちを盛り上げていきます。そして、クリスマス当日は、お店もレストランもバスも電車もみんなお休みして、教会や家庭で静かに過ごす。そこから新年までがクリスマス休暇で、クリスマスの装飾も新年までそのまま飾られています。ある年、一月の中旬にアイルランドの家庭を訪れたら、おばあちゃんが作ったというクリスマス・プディングがまだあって、ごちそうになりました。本場のクリスマスは、あとまであとまでずぅっと尾を引いているものなんですね。
 なにもすべてを欧州に習うのがいいことばかりではないでしょうが、日本の小売業は、商売本意に11月の頭から人の気持ちの盛り上がりはお構いなしにクリスマス騒ぎを始め、それでいて、クリスマス当日の夜には大急ぎでお正月に模様替え、というのも、なんだかねぇ、と思いませんか。
 もっとも、流通業に身を置く者としては、クリスマスを前倒しにする魂胆が読めなくもありません。たぶん、12月に入ったらすぐに価格訴求品の売り出しに取りかかりたいからなのでしょう。つまり、セールを前倒ししたい、という意図が見え見えなのです。
 でも、皮肉なことに、お客様の方はどんどん後倒しになっているのです。これは私が8月に倶樂部余話【177】で指摘したとおりです。まして、今年は残暑と暖冬が続いているのでその後倒し傾向に拍車が掛かっています。お客様の気持ちは、シーズンが来たら慌てずに買おう、となってきているのに、売る側だけの都合で、早く買って、と叫んでも、効果が薄いことは目に見えています。それは、値段が高い安いの問題とは別の次元です。それが分かっていてもそうせざるを得ないのは、「先んずれば人を制す」という競争心理に他ならないのですが、それはすなわち、自分の店はよそと同じようなモノを売っている、という、品揃えの同質化を自ら認めてそれにおののいているということではないでしょうか。自分の店の商品に自信があるならば、(確かにお客さんの動きはいつもよりも遅い。でも、売れないのではない、ただ遅れているだけだ。)とは考えられないのでしょうか。「せいては事をし損じる」だと思うのですよ。
 早すぎるデパートのクリスマスツリーを眺めながら、そんなことを考えました。(弥)  

倶樂部余話【一七八】大人の服という意味(二〇〇三年一〇月一〇日)


大人の服と若者の服をどう分ければいいでしょうか。スーツが大人でジーンズが若者、という話ではないのです。若者しか着れないスーツもあれば、老人が着てもカッコいいジーンズもありますから。

ここで触れなければいけないのは、日本の特殊事情でしょう。若者がファッションリーダーだなんていう国は日本ぐらいだからです。本来は、欧州のように、ファッションは大人になればなるほどに楽しめる分野であるべきなのですが、日本では大人が着た方がはるかに似合うような洗練された上質の服までもを、若者がわれ先にとこぞって買い求めてしまうので、ほんとは大人の服なのに若者向けと勘違いされてしまう現象がしばしば起きるのです。

当店も時々同様な思い違いを受けているようです。ふらりとご来店されて店内をサラッと一回りしたご年配の方に、帰り際に「ここは若者向けだね…、僕のモノはないみたいだ…。」などと呟かれたりします。確かに当店には、一般に知名度の高い、百貨店対応型欧米ブランドマーク入り有名ライセンス国産品の類は置いてませんが、それゆえだけで若者向け、とはいささか早計なご判断のように感じます。

大人の服とは、ご自分がさらに歳を重ねたときに今よりもっと似合うようになってくる服、のことだと思って、そんな品々を選び店に集めているつもりです。もちろん、それを若者が少々背伸びして買い求めることを否定はしませんが…。

だからといって化石のように変化しない服を売っているわけではありません。「変わらないからいいのだ」という標語は80年代にトラッドブランドという一ジャンルを売り込むために作られた宣伝文句に過ぎなかったのです。もし、未だにそう思い続けている人がいるとしたら、そんな妄想は早く改めるべきです。なぜなら、ファッションである以上、それは変化するのが宿命なのですから。変化というのに抵抗があるなら、進化と言い換えてもいいでしょう。確かに百年変わらず同じモノを作り続けている、という商品があることも知っています。でもその料理の仕方は百年ずっと同じではないはずです。よくファッションは螺旋階段だと言われます。同じ場所に戻っているようでいて実はひとつ高い位置に進んでいるものなのです。

ついでに言うと、「一生モノ」の服という表現も、大げさすぎてあまり好みません。丈夫で長持ちだけが取り柄の服、のようにも聞こえます。強いて言うならば、生涯その価値を失わない服、という意味と捉えればいいのでしょうが、実際に一生どころか十年着続けられる服ですらそうはないはずです。極論すると、一生着続けられるなんていうのは、ファッションを超越してしまったアランセーターぐらいのものでしょう。

さてそれでは、そもそも何歳が若者と大人の境界なんでしょうか。いえ、それは決して年齢ではないはずです。S・ウルマンの「青春」のように、「心の様相」なのだと思います。そろそろ大人の服が着たいな、という気持ちを持った人が大人だということではないでしょうか。そんな大人の方々と出会えた数々の喜びに支えられて、17年目の秋を迎えたセヴィルロウ倶樂部です。この秋冬もどうぞよしなに。  

 

倶樂部余話【一七七】前倒し、後ろ倒し(二〇〇三年八月二二日)


こんなに寒い終戦記念日は初めてでした。今年の記録的な長雨と冷夏は、方々に大打撃を与えているようです。もっとも、当店に限ってはむしろ夏場までスーツやジャケットの需要が途切れず、まんざらでもなかったのですが。

夏がダメならいっそ、ということか、今年はどこも秋物の立上がりが早いようです。七月からウールのコートや厚手のセーターがウィンドウに並んでいる店もあります。いわゆる前倒しですが、これも度が過ぎると滑稽ですらあり、 早く見せればそれだけ飽き(客も店も)も早い、というオチが分かっているだけに、気の毒にさえなります。

他の店で買われる前に早く売ってしまいたい、というのが前倒しに傾いていく店側の思惑でしょうが、逆にお客様の方は、慌てることなく全部見てから決めたい、という心理を年々強くしています。つまり、皮肉なことに、買う側は後ろ倒しになってきているのです。

で、私たちはと言えば、この秋もいつも通り、ゆっくりと順序良く品揃えを進めるつもりです。婦人は実需期の二ヶ月前までに、紳士は一ヶ月前までに、を原則に、「時期が来ればちゃんと揃っている」ように首尾よく整えますので、どうぞご安心下さい。

 

倶樂部余話【一七六】自腹で買う(二〇〇三年七月一七日)


展示会での仕入発注の際、お客様の名前が出てくるのは、私たちには珍しいことではありません。「Aさんの好みの色はこれ」「Bさんが好きそうだからこのサイズ」と、何時間もかけて全身全霊を傾け、わずかな数を出していきます。その我々の傍らを、大手の若いバイヤーが通り抜け、ろくに試着もせずに、わずかな時間で我々の数倍の数をあっさりと付けてさっさと帰っていきます。きっと彼(彼女)らはこう考えているに違いありません。(何億買っても払うのは会社。売るのも自分じゃない。売れ残っても御殿場(アウトレットの意)に回せば済むし。)

プレス(雑誌編集者)になるとさらに選択眼は甘くて、彼らは仕入れすらせずに、ただ目新しいモノを借りていくだけですから、値段や耐久性などにはとんと無頓着となるのは、もはや致し方ありません。

金額の大小を問わず、品選びに一番真剣に悩むのは「自腹を切る」ときです。そしてお客様のお買い物は常に自腹なのです。限られた自腹予算の中で最大価値のいいモノを真剣に探しているのが、お客様であり、私たちのような小さな個人商店なのです。

自腹で買う奴が一番偉い、と私は思います。そして、バイヤーは、常にお客様から、自腹という最も厳しい審判を受け続けている、ということを、肝に銘じて仕入れをしなければ、と思うのです。

倶樂部余話【一七五の二】講演の顛末。後日談です(二〇〇三年七月一七日)


私の講義を聴講いただいたA学院大学の学生諸君へ

去る627日は、私のつたない講義を聴講していただき、ありがとうございました。

3週間が経ち、本日、諸君が提出したレポートが私の手元に届きました。私が採点するわけではありませんが、87枚のレポートを大変楽しく読みました。

話をした私自身、初めての経験という緊張と、しかも、時間の超過も許されず、じゃあ続きはまた次回に、という繰り延べもできない、という、大変時間に追われた状況もあり、しどろもどろの話になってしまったことに、そのあと、いささか自己嫌悪を感じていました。が、レポートを拝見し、私の話を最初から最後までしっかりと聞いてくれてある種の感動を覚えてくれた学生が少なからずいたのだ、ということを知り、大変嬉しく思っています。


 
実は、私は諸君にひとつの仕掛けを施しておきました。それは、全員にお配りしたレジュメです。このレジュメには、「アランセーターの伝説」の数々を、いかにも真実のように具体的に列挙しておきましたが、講義のかなり初めのうちに、「これらの伝説は実はほとんどが嘘で、良くできたセールストークだと考えます。」と、まず否定をしています。


 にもかかわらず、多くのレポートに、「柄が家紋になっていて、溺れた人の身元が分かる、とは、なんてすごいことだ。」などなど、書かれていて、ああこいつは講義途中から遅れて入ってきたんだな、とか、ははーんこいつはホントは私の話は聞かずにレジュメだけもらってそれを元に書いたな、とか、そんなことが容易に想像でき、諸君の作文創作能力の巧拙がうかがい知れ、何度か大笑いしてしまいました。(心配しなくてもいいですよ、担当教官には、そんなことは言いませんから。)

しかし、約25人のレポートは、大変秀逸で、二重丸を付けてあげたいぐらいです。私の言外の思いまで汲み取ってくれた人もいます。 本気かお世辞か、「今までの11回の講義の中で、今回の話が一番パワーがあった。」と書いてくれたY君、「話からアランセーターへの愛が伝わってきて、つい聞き入ってしまった。」というAさん、本当にありがとうね。

80枚の画像を使い、パワーポイントなどという不慣れなパソコンソフトを操作しながら、正直何度も何度もリハーサルをして、緊張しまくりの中で行った初めての講演でしたが、こういう滅多にできない経験ができ、今は、お話をお引き受けして良かったなぁ、と、感じています。

一期一会の機会でしたが、講義を聴いて下さった諸君には、感謝いたします。何年か先、「実は私、あのときセーターの話を聞いた学生ですが、あれからこのセーターがずうっと気になっていて、ようやく買いに来ました。」という人が一人ぐらい現れないものかなぁ、と、密かに願っています。

 

それでは。

倶樂部余話【一七五】講演の顛末(二〇〇三年七月一日)


講演(アランセーターの話)を頼まれたのは初めてで、しかも二日で二会場連続。かなりの準備とそれなりのリハーサルをし、同じ内容で臨んだが、結果は天と地ほどに明暗が分かれた。

初日は、都内某大学の三、四年生約百人が対象。興味のある者だけが聴講する公開講座の類いかと思っていたら、何と年間の正規授業のひとつだという。週替わりで服飾業界の講師を迎え、出席取りを兼ねた簡単なレポートを提出させ担当教官が単位を与えるらしい。人気授業だというが、そうだろう、だって学生にとってこんな楽勝科目はないはず。 講演直前にそれを聞かされて、なんだか悪い予感がしたが、もう後の祭り。案の定、静寂の中、淡々と90分は進み、互いに(ミスキャストじゃない?)と感じながらも、自己嫌悪に陥った私だった。

翌日は、アイルランド愛好者たちの小さな集い。それも少額だが有料だ。熱心にメモを取る老夫婦などもいらして、話は予定を一時間も超過するほどヒートアップ。ほぼ満足のいく出来だった。

やはり、自分は百貨店向きでなくぞっこん専門店タイプの人間なんだな、と今更ながら実感した次第。ともかくも大変いい経験だったことは間違いない。