倶樂部裏話[15]ユニクロにピークは来るのか (2009.11.6)


 過去最高の好決算を出したユニクロ(会社名ファーストリテイリング)の柳井社長が、記者会見でこんな発言をしています。(「日経MJ」2009年10月12日付記事より)
 「(低価格でいうとファストリ傘下のジーユーが)990円のジーンズを発売したときは新しい価値創造があった。(他社が出した)880円や850円の商品は価値を生んでおらず(そんな状況だと)最後は無料になるのでは」
 つまり、ジーユーの990円ジーンズはちゃんと利益の出る「商品」だけど、他から出ている安いジーンズは、利益を無視した客寄せの目玉品に過ぎないから、そんなことなら最後はタダになっちゃうよね、ということだろう。安くて価値あるモノを作らせたら、我々に敵うところはそうそうないのだから、うちに戦いを挑むような無駄なことはしないで、それぞれの得意な分野で得意な価値創造に努めた方がいいんじゃないですか、というような、なんと自信にあふれた発言ではないか、と私は受け取りました。
 続く発言はさらに刺激的で
――デフレについてどうみるか。
 「消費者は毎日990円のジーンズばかり履いても楽しくない。日によって3,990円のジーンズも1万円を超えるジーンズも履きたいだろう。990円に集約されるわけではない。」
 ファッションジャーナリストが言うなら当たり前ですが、これがユニクロの社長自身の言葉なのですから、なんと自虐的と、驚きました。そして、同時にこの人はファッションというものを分かってらっしゃるとも感じました。きっと近い将来、何万円もするジーンズも自ら手掛けることだろう、という予感がします。
 将来の売上げ目標は今の6倍以上の5兆円、日本で1兆円海外で4兆円取るつもりだそうです。そんなに売ってどうすんの、とも思いますが、そうしないと海外の他社との競争に負けてしまうという考えなのでしょう。これからいろんな会社を買収して規模を拡大していくのでしょうが、実は国内外のファッション業界で、限りなく拡大をし続けているという企業というのは滅多にありません。多くのファッション企業は、平家物語のごとく、盛者必衰ですし、また、生き残っている会社は拡大期を過ぎたところで衰退させずにうまく安定軌道に乗せることに成功した企業です。
 こんな言い方は大変失礼なのですが、私はここがどれだけ売上げを拡大するかと言うことにも興味がありますが、ピークを迎えた後にどう収れんさせていくのか、それはいつ頃なのか、ということにも感心があるのです。果たして私が生きているうちにそのときがおとずれるのかは分かりませんが、そんなことを楽しみにしているなんて、そりゃひがみ根性だよ、と言われても仕方ないことなんでしょうかね。 (弥)

【倶樂部余話】 No.250  一生モノって何だろう (2009.11.1)


 「こだわる」という表現はあまり好きじゃない、と五年ほど前に書きました(余話No.183 2004.2.26)が、もう一つ、やたらに使って欲しくはないな、と思うのが「一生モノ」という言葉です。
 一生モノの財布が欲しいんです、とか、このダウンは一生モノですよね、などと二十代の若い人から言われると、確かにそれらはロングセラーだし長持ちもしますから、大事に愛着を持って使ってもらえると嬉しいです、と願う反面で、だけど君の一生は多分あと五十年はある、その五十年ずっとこれを使い続けて買い換えもしないというわけではないだろう、と、言いたくなってしまうのです。
 自分の身の回りで若い頃から30年以上使い続けているモノを見渡してみると、ホチキスや定規などの何でもない文房具だったり、服ならダンガリーのシャツとかブランドも忘れてしまったスウェットパンツだったりなど、単に継続の結果としてこれからも一生付き合うんだろうなぁ、という他愛のないモノばかりです。死ぬまで使うぞ、など気負った意識で買ったモノなど残っちゃいません。体型も生活環境も流行も、みんな変わっていくのですから。もちろん使わないけど思い出や資料として保管してあるモノはあります。でも、モノは使ってなんぼ、でしょ。 どうも今の「一生モノ」という言葉には、「これ以上のモノはないよ」と他人が言うのなら、という他力本願的な依存心や、「もうこれで打ち止めにしてモノは買わないぞ」という消費への消極性が見えるような気がするのです。長く使いたい、という気持ちはとっても嬉しいのですけれどね。
 かつて、これは間違いなく一生モノだろうと思い、我がアランセーターの恩師故パドレイグ・オシォコン氏にこう尋ねたことがありました。「アランセーターは一生涯死ぬまで使えますよね」 その答えはなんと「ノー」。続く言葉に私は驚きました。「三世代は着られるよ」(弥)

【倶樂部余話】 No.249  選択肢の多寡 (2009.10.1)


 私は食べ物屋でメニューを選ぶのが大の苦手。ランチ選びはせいぜい五種類が限界で、十種以上になるともうお手上げです。また、こういう仕事をしているのにデパートでモノを選ぶことができません。よくあんなたくさんの中から自分の一着を探すことができるものだ、とデパートで洋服を買える人に私は尊敬の念を抱きます。 選択肢は多い方がいいのか、少ない方がいいのか。売る側は、販売機会のロスを防ぐためには選択肢は多いにこしたことはない、とつい考えがちですが、買う方から言うと、選択肢が少ない方が簡単に選べて後悔もしないのでより幸福感が味わえる、という心理学者の説に軍配を上げたくなります。
 モノが溢れて豊かな時代になり、ネットも普及すると、選択肢は無限に広がり、そこから何を選ぶかはもう自分一人では手に負えず、何かの力に頼らざるを得ません。だからアマゾンの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という誘い言葉に、余計なお節介すんなよ、と文句言いながらも、それに頼ってしまいます。自分だけのために選択肢を絞る手助けをしてくれる(機械的でなく)リアルな人や店が存在してくれたら、どんなにありがたいことか、と思います。
 店のお客様には、常連もいれば新参の人もいて、職業も様々。年輩の方も若い方も、大きい人も小さい人も見えます。だから店はいろんな選択肢を用意しますが、決して多ければ多いほどいいのが当然、と思っているのではないのです。たとえどんなに多くの品数があったとしても、お客様は自分の欲しい最小の選択肢がありさえすればそれでいいのですから。最大限の顧客に向けて最小限の選択肢を提案する、これが品揃えの理想でしょう。
 秋冬物が入荷しました。今年の品揃え、あなたにとっての選択肢は、さて多いでしょうか少ないでしょうか。(弥)

【倶樂部余話】 No.248  全部踏破 (2009.9.1)


 今から約40年前のこと、中学生だった私は大阪の万博に一週間通い詰めて、全パビリオンのスタンプを集めました。また同じ頃、鎌倉のあらゆる寺社や史跡を日曜日ごとに一年以上掛けてすべて回るというようなことをしていました。
 こういう「全部踏破」は人によってジャンルに偏りがあるものです。日本百名山を踏破中という方もいらっしゃるでしょう。文学や映画で、ある人の全作品の踏破というのは女性にも多いようです。音楽の「全部踏破」は比較的楽なのではないでしょうか。ビートルズのイントロクイズなら私だってもしかしたら全問正解できるかもしれません。
 50年経ってもまだ達成できないのが、47都道府県の全部踏破です。現在44で愛媛、高知、沖縄の3県が未踏なんですが、これは慌てて達成してしまうとつまらなくなりそうで、老後のためにとっておこうと思っています。意外にも47全部踏破したという人にお目に掛かったことがないのは不思議です。
 「全部踏破」の欲望をにわかに抑え難くなってしまうのが、食のジャンル。特に困るのがバイキングというやつです。浅ましく、つい全部に挑戦してしまい、いつも胃薬の世話になる羽目に陥ります。
 この「すべてをチェックしたい」という心理はどんな人間にもある欲のようで、どういう人がどんな全部踏破の経験を持っているか、きっとその人の隠れた一面が発見できるような気がしますので、これからいろいろと聞いてみたいと思っています。あなたの全部踏破はなんですか。(弥)

【倶樂部余話】 No.247  下取りとリペア (2009.8.1)


 世の中「下取りセール」なるものが盛んです。スーツ、靴、鞄からゆかた、はては鍋や炊飯器まで…。そして、下取り代として受け取るのがその店で使える三百円や千円の商品券なのですが、聞けば、ある会社ではこの商品券の使用率が三割以下だというのです。さすが消費者は消費のプロだなぁ、客は店側の思惑を超越するもんだ、と私は感心してしまいました。要は、下取りです、エコです、モッタイナイです、節約です、などと謳うのは店側で、客はスーツが欲しかったのではなくて不要品を無料で簡単に引き取ってもらいたかったのでして、「捨てる」という罪悪感からの解放であったわけです。受け取る商品券は換金せずとも充分に免罪符たり得たのです。
 方や、雑誌ではリペア(直し)やメンテナンス(手入れ)の特集が目立つようになってきました。これは、広告主の激減で新製品紹介の提灯記事でページが埋まらなくなったという出版界の事情かなと勘ぐったりもしてますが、流行りモノをホッピングする浮ついた買い物よりも自分にあったモノを大事に長く使い続けることに労力を費やそう、というこの傾向は悪くないと思います。靴磨きも今はシューシャインと呼ぶそうで、これが趣味にしても職業としてもちょっとした流行りでして、当店でもレザーケア用品はこのところとてもよく売れています。
 捨てるようになる品には手を出さずに、数は少なくても愛着を持って手入れしながら使い続けられる実用性の高い品を慎重に吟味して買う、という性向は今後ますます強くなります。これはなかなか当店らしいんじゃないかな、と感じているのですが。(弥)

【倶樂部余話】 No.246  靴とセーター、作ろう! (2009.7.1)


七月の「作ろう!」特集は、紳士靴とカシミアセーターの二枚看板。製造のパートナーは、靴が宮城興業(山形県南陽市)、ニットはUTO(本社・東京都港区、工場・山梨県中央市)ですが、さてさて余話ではどっちのファクトリーのことを書こうかなぁ、と悩んでいた矢先、宮城興業から一通のメールが入りました。「昨日UTOさんが見えました」 えーっ、両社に交流があったなんて話は知らないけどなぁ…。聞けば、双方初対面にもかかわらず、誂えモノという共通項から、当店のことを肴にしつつ話は弾んだ、とのことでした。えーい、それならこっちも二社をまとめて書いてしまいましょう。
思えばどちらも最初は知縁も紹介も全くないところから手探りで始まった取引でしたが、オーダー靴は五年間で五百六十足、昨年から始めたオーダーニットも一年で六十枚、と、今では欠かせない大事な取組先となりました。製糸工場を改造した古い靴工場とブドウ畑の真ん中にぽつんとある小さなニット工房、と、2社の生い立ちも規模も違いはありますが、私はどちらも当初から「このファクトリーは世界でもどこも真似のできない、世界でココだけのすごいことをやっています」と吹聴し続けてきました。私ごときがそう叫んだところで眉唾程度にしか思われなかったでしょうが、近頃はNHKの番組(BSの「経済最前線」で宮城興業が登場)でも紹介されたりして、私の発言もまんざらホラではなかったことが実証されつつあります。
この二社の特色を語り出すといろいろと出てくるのですが、なかでも特筆すべきはその価格でしょう。まるで展示会サンプルのように一つずつ違うものを短納期で作り続けるのだから普通は市販品よりも割高になるはずなのに、どちらも「ホントにこれでいいの?」という値段を出してくれます。もっともそのために誤解も受けるようで、「あそこは三万円代の靴しか作れないんだ、と言われたのが一番悔しかったですね。十万円の靴はうちでもよそでも作れます。でもどこがこのレベルの注文靴を三万円代で作れますか。」その通り、だから日本だけでなく、ミラノの展示会に出展したり、ニューヨークや上海のお店にまで販売を拡げることができるんですよ。
UTOにしても、カシミアの原産地・内モンゴルまで直接に原料手配に出かけたり、糸の仕入れ方法に独自のアイデアを産み出したり、と、小規模ゆえのメリットを最大限に発揮させています。
同じ「作ろう!」でも、紳士靴とカシミアセーターでは、嗜好はかなり異なります。この二つを同時開催するときっと何かしらの相乗効果が現れるのではないかと楽しみなのであります。(弥)

※UTOの取り扱いは2010年に休止しましたが2024年に再開しました。

【倶樂部余話】 No.245 ベルトの話 (2009.6.1)


 六月から新たに東京のベルト屋さんと付き合うことになりました。社内に熟練の彫金師を擁し、バックルにも革にも独自の技と気概が込められている、ほとんどハンドメイドの、ちょっとユニークなベルトで、東京柳橋の小さな工房で作られます。
 ベルトというのは、革製品の中でも靴や鞄よりも控えめな存在ですが、実は最もぜいたくな革取りを必要とされます。長さ約百㎝の細長い帯状の形態を、伸びたり曲がったりしないように真横の向きで、キズのある箇所を避けながら、しかも着用時は両端が重なりますから、うんと離れている両端の革の見栄えが全く同じでなくてはならず、と考えると、原皮の中でも一番おいしい部分をスコンと抜いて持っていってしまうのがベルトなのです。
 さらに、ベルトは、体のど真ん中の目立つ場所にいるにもかかわらず、でも目立ちすぎてはいけない。常にスラックスのお供扱いで、しかも靴や鞄とも色合わせなどで仲良くしなければいけません。ベルトレスやサスペンダーという手もあるので、ドレスコードとして必ず付けなければいけないというものでもない、という微妙なポジションにあります。
 六月は当店で一番ベルトが売れる月。上着を脱ぐ機会も増えて「そろそろ買い替えようかな」という気が起きるのでしょうね。この夏はいつもよりも少しベルトを気にしてみてはいかがでしょう。(弥)

【倶樂部余話】 No.244 昼下がりの客かぶり (2009.5.1)


 「昼下がりの客かぶり」がなぜか当店では最近顕著です。一日約九時間の営業で、実際にお客様が在店している時間はその半分程度でしょうか。平日なら来店客が十人を越えることも稀で、本来は二人のスタッフで充分に手が回るはずです。ところが、近頃きまって昼下がりのある時間帯に来店客が重なるのです。二組まではお相手できますが三組四組と短時間にかぶりますと挨拶もろくにできないうちにお帰りになってしまいます。「相手ができなくて、ごめんなさい、また来て下さいね。」の声すら掛けられないこともあります。重なった方には(いつも客のいる繁盛店だな)と思ってもらえたかもしれませんが、実はそういう日に限ってそこから夜八時までずっと閑古鳥が鳴いたりして、(ほんの十五分だけでもずれて来てくれると良かったんだが…)と願ったところで仕方もありません。
 私は予約制というのがどうも好きではありません。一人一人のご来店には思い思いの理由と事情があり、お客様にはご自分の都合で自由に来ていただきたいのです。が反面、迎える私たちとしてはなるべくなら重なることなくご来店機会を分散できるにこしたことはありません。
 この話をここで披露した理由、それはこれを読んだお客様がどうご来店されるか、もしかしたら何らかの変化が現れて、それで「昼下がりの客かぶり」が幾分かでも解消されるのではないか、と期待したからなのです。いかがでしょう。(弥)

【倶樂部余話】 No.243  セヴィルロウが店名の理由 (2009.4.3)


 ビスポーク・テイラーとは、顧客ごとに個別に型紙を起こし、裁断から縫製までのほとんどを手作業で行い、数度の仮縫いの後にじっくりと作り上げる、英国スタイルの最上級スーツを仕立てる店を指します。もちろん価格もそれなりで、最低でも二、三十万円はするでしょう。ロンドンのセヴィルロウには昔からそういう店が集中しています。ですから最近は、セヴィルロウスタイルとかセヴィルロウ仕込みという言葉からビスポーク・テイラーと結びつけて話題にさせることが多くなりました。おかげでセヴィルロウというこの小さな裏通りの知名度はこの数年で格段に上がりました。
 しかし22年前、セヴィルロウという名は、背広の語源の一説ということすらまだほとんど知られていない、一般には実に馴染みの薄いものでした。当時はバブルの真っ盛り、イタリア調のゆったりとした、いわゆる「ソフトスーツ」が流行し始めた頃でしたが、そこに英国調のカチッとしたメンズショップを作ろうとしたので、その店名に英国男性を象徴するキーワードとしてサビルローの名前を冠することを思いついたのでした。(ちなみに、サビルローやセビローでは、さびれる、せびる、につながるので、それがいやで、セヴィルロウという表記を考案しました。) もちろんオーダースーツは開店当初から店の重要な柱のひとつではありましたが、しかし当店はスーツ専門の仕立屋を目指してこの店名を付けたわけではなかったのです。
 今さらわざわざ言うのもお恥ずかしいようなことなのですが、当店のオーダースーツは、パターンオーダーであってビスポーク・テイラーではありません。また将来もビスポーク・テイラーへ進む方向性は持っていないのです。このことは、ちょっと店内を一回りしてその様子や価格帯を見ていただければ、あるいはウェブで店の姿勢をご覧いただければ、すぐに分かっていただけることではあると思うのですが、近頃はこの店名からそういう誤解を受けることが少々増えてきましたので、ホントに全く自慢するようなたぐいの話ではないのですが、改めてここで申し上げておくことにした次第です。(弥)

【倶樂部余話】 No.242 「これでいい」「ここがいい」 (2009.3.5)


 かつては「わけあって安い」が売り物だった無印良品、その現在の商品コンセプトは「これいい」なのだそうです。「これいい」ではなくて「これいい」、含みのあるうまい表現だなぁと思います。例えば私はあるお菓子の包装に「日本一おいしいラスK」と書いてあると、押し付け感を覚えてしまうのですが、つまり「これいい(のだ)」にはちょっと自分本位なエゴな匂いがするのに対して、「これいい(でしょ)」は少し理性的な感じがします。決して「これでいいや」と妥協しているのではなくて、「これ」の「」の感度と精度を極めよ、というメッセージなのだと思います。
 極論すると、世界中のすべての品を使い比べでもしない限りは「(世界で一番)これいい」と断言はできないのですから、実はどの店にしても、当店も含めて、その品揃えは「(うちの店には)これいい」なのです。もちろん無印良品と当店ではその「」は判断の指標が全く異なります。それがその店の性格の違いであり、品揃えのフィルターが多様であればあるほど店ごとの面白さが生まれます。
 要するに、モノを決める前に店を決めるという取捨選択があり、その選別に際して、店というのは「ここいい」ではいけなくて、絶対に「ここいい」でなくてはならないのです。
 モノも大事だがそれより先に店が大切、「ここいい」という店で「これいい」というモノを手に入れる、というのが理想の姿ではないでしょうか。(弥)