倶樂部余話【一三三】流行28年周期説(二〇〇〇年五月二四日)


売れてる雑誌に変化がでてきたそうです。

最新トレンド情報を毎回これでもかこれでもかと紹介する雑誌にかげりが見え始め、代って、古くから変わらずに続いている職人モノを発掘して紹介する本が部数を伸ばしているという話です。例えば、「サライ」を読む20代、30代が急増しているらしいのです。

私も20代前半の頃は、ひたすら流行を追いかけたものでしたが、現在のスピードはその七倍速とかで、ドッグイヤーとも呼ばれる程に目まぐるしく変化して、「ハヤる前にスタれる」という奇妙な感覚を覚えます。

少し前なら流行遅れだが、ずっと前ならレトロでカッコいい、ということでしょうが、では一体何年ぐらい昔がその一線なのでしょう。

ある人は、流行28年周期説を唱えています。それによれば、厚底サンダルやベルボトムが28年振り。アロハ柄ペイズリー柄の復活もそうだと言います。(フィッシャーマンセーターも!)

男の世界では、もうすぐ「ピーコック革命」でカラフルさが復活し、「華麗なるギャツビー」でクラシックな装いが戻るだろうし、女性界では、もうまもなく、ハマトラ、ニュートラが一大トレンドになるだろう、と予測しています。

さて、28年前は一九七二年。あさま山荘、沖縄返還、札幌オリンピック。とすると、カラオケで「虹と雪のバラード」を歌い、「笠谷のジャンプ」を宴会芸で披露する四十男は流行の最先端を行っている、と言うことになるはずですが......

 

倶樂部余話【一三二】国会図書館でメンクラを調べる(二〇〇〇年五月一日)


 卒論以来、20年振りに国会図書館へ。アランセーターの日本での初見を探すため、雑誌「メンズ・クラブ」を創刊号(1954)から順に延々と頁をめくる。

当時VANの御用雑誌として、唯一の男の指南書だっただけに、誌面からはトップギアフルスロットルの日本の60年代の勢いがぐいぐいと伝わる。

56年...「マンボに代わるリズム~チャチャチャ」モデル菅原文太、高倉健。

57年...「ニットウェアーの新しい傾向~メリヤスの流行」モデル高島忠夫。

59年...「テニスセーター~流行のプリンスルック」(現天皇陛下ですね!)

60年...シェットランドセーター、ボタンダウンシャツ、ブルックスブラザース初見。ジャンボーニットなる新語。

63年...「ジーパンのすべて」。名物「街のアイビーリーガーズ」第一回。

65年...「アイビー特集号」。TPO

66年...「ピザ~イタリアで生まれアメリカの若者が育てたアイビーな味覚」「ジーパンはリバイス」。対談「アイビーとコンチとモッズ」。バミューダ。

67年...ツイスターゲーム。MG5。ピーコック。「アイビーVSトラッド」。

68年...サイケ。カントリールック。

いやはや、楽しい調査でした。ちなみに、フィッシャーマンセーター(アランセーター)の初見は651月号、そして我が社「野澤屋」の巻末特約店リスト加入は665月号でした。

倶樂部余話【一三一】お直し代について(二〇〇〇年四月一日)


このたび、補正工料を無料にすることにしました。

この業界の「非常識な常識」のひとつが「お直し代」ではないでしょうか。どうもこれは我が国特有のものらしく、欧州などではどんなに直しても店が負担するのが当然らしいのです。反対に、日本の一部の百貨店では、掛かった費用はメーカーに負担させておいて、その上さらに客からも徴収する、という二重取りも見受けられると聞いています。

考えてみると、元々、服はあつらえるものだったので、寸法が合っているのが当たり前だったわけです。それが、やがて既製服主流となって、モノ不足、高度経済成長の過程の中で、お直し代は客の負担に、という悪しき慣習が定着したのではないかと思われます。

言うまでもなく、服とは、着る人の寸法に合って初めて使える完成品と言えるのですから、店はサイズぴったりの服を提供する義務があるのだと思います。現実には人の体は様々で、特に手足の長さに関してはそれこそ千差万別ですが、しかし、そこで直しが発生するのは、客のせいではなく、ジャストのものを揃えていなかった店の責任だとは考えられないでしょうか。

ということで、パンツの裾上げはもちろん、袖丈詰め、ウェスト出し入れなども、正しいフィッティングのための補正は今後すべて無料で承ります。(但しお客様の都合による体型変化の補正や他店品持込などは従来通り有料となります。)
小さな変化ですが大きな改革だと確信します。

倶樂部余話【一三〇】ステッキ専門店(二〇〇〇年三月九日)


沈丁花が咲き木蓮の蕾が膨らんで、もう春ですね。

インポート品が主体の当店ですが、これはまがい物でない主張あるホンモノを集め続けた結果であって、何もやみくもに舶来崇拝主義を貫いているわけではありません。国内にも主張を持ったモノづくりを目指している品物は数多くあり、このところ、尾鷲の傘、鹿沼の箒(ほうき)、鯖江の眼鏡、柿渋染めの鞄など、日本の伝統工芸に裏付けられた品々を少しずつご紹介できるようになってきました。その候補はそれこそ星の数ほどで、京都や江戸だけでなく日本全国に存在しているのでしょうが、まずは「コレをウチで紹介したい」という私の衝動的直感がピピッとくるかどうかを単純な判断基準にして、これからも発掘し続けていきたいと思っています。

その候補のひとつがステッキだったのですが、先日、渋谷のステッキ専門店へお伺いしたときの話です。ここは日本で唯一のステッキだけの店で、狭い店内には何百というステッキが揃い、それだけで私の直感アンテナはピッピッと反応を始めました。しかし、お店の方と話を始めるうちに、私の考えは変化したのです。

聞けば、女性オーナー自身が子供の頃からステッキを常用せざるを得ず、お洒落なステッキがあまりに少ないことにずいぶん寂しい思いをしたのが開店のきっかけとか。そして、身長はもちろん、年令、体格、症状によって、ふさわしい一本が決められるらしい。見渡すと、床にはコルクが貼られ、立ち方を試すために何種かの椅子も用意されている。ノコギリも数種類。つまり、ステッキを選ぶ客の立場に立った環境がすべて揃っている。こうして販売してこそ使う人の満足を得られるに違いない。単なる売買だけでなく、この店にわざわざ来ないと買えない価値がここにはある。これぞ本当の専門店の姿だろう。

売りたい、でも私が売ってもここまではできない。ならば自分で売らずにむしろこの店に顧客をお連れすることを考えるべきだろう。こうして、私はすがすがしい気持ちでステッキ販売を断念したのでした。

いやぁ、専門店とは何と面白いものだろう。

倶樂部余話【一二九】ロンドンの専門店(二〇〇〇年二月七日)


無事欧州より帰国しました。徹底取材のアラン島紀行はいずれ大作にまとめるつもりですので、今回はたった四時間だけ滞在のロンドン巡りについて。

目指すは二軒の専門店。まずは筆記具の「ペンフレンド」。世界一のビジネス街シティのど真ん中、しかもBBCのビルの中に位置するだけに、ダークスーツのエグゼクティブたちが入れ替わり立ち替わり来店している。でもほとんどの客が修理の依頼で、それもそのはず、この店はもともと万年筆の修理で名を馳せた工房なのだ。その経歴から集めたビンテージ・ペンのコレクションは素晴らしく、私は幻の英国製万年筆コンウェイ・スチュワートの1940年代製二種を購入した。

地下鉄を乗り継いで急ぐはナイツブリッヂ。ハロッズの裏手、眼鏡枠の「アーサー・モリス」。北アイルランド・ベルファスト出身の初代から三代に亘り、英国内でアンティークの眼鏡フレームの収集を続け、その膨大なストックの中から少しずつリストアしながら販売している。昨年創業三代目が急死したが、勤続二十年近い女性が権利を買い取り、営業を続けている。山のような在庫から迷うことしばし、都合五本を選び出した。

どちらも観光ガイドにも載らない小さな店だが、世界中の客がやってくる唯一無二の店。やはり真の専門店での買い物は楽しい。

新名物テムズ川の大観覧車をかいま見る暇もなく、ヒースロー空港へ直行。我が搭乗機は私の到着を待っていたかのように直ちに離陸した。

 

※このころ、品揃えの幅を拡げようと、筆記具や眼鏡枠など、男の持ち物を中心にいろいろと候補にしていた。

 

倶樂部余話【一二八】私、四二歳です(二〇〇〇年一月九日)


あけましておめでとうございます。大騒ぎしていたY2K問題が大事にならず、ちょっと肩透かしの気分でいる私はやっぱりひねくれ者でしょうか。

当店の名簿には毎月二十~四十名の新しいメンバーズが加わっています。このところ顕著に目立つのが、五〇代の方と二〇代後半の方の増加で、ちょうど団塊世代と団塊ジュニアに当たります。二〇代後半の方はいわば自然増と考えられますが、注目しているのは社会増とも言うべき五〇代の皆様です。

毎日様々な世代の方々とお相手していて感じるのは、もはや五〇歳に見える五〇歳、六〇歳に見える六〇歳、七〇歳に見える七〇歳、という人はいらっしゃらない、という事実です。ここのところを多くの人が分かっていないように思います。「長持ちするいい物しか欲しくない」と彼らは一様に口にします。

何も今後シニア向けのショップを目指そうというつもりはありませんが、これら年長の世代の目から見てもちゃんと評価していただける商品、サービス、店づくりを目指していきたいと考えます。そうすれば、若者も自然についてくるはず。団塊親子のどちらにも違和感なく対応でき、子は親に服装を学ぶ、そんな理想が垣間見えてきてます。

ところで、暮れの紅白を視ていた一〇歳の長女がポツリと「ねえ、南こうせつサンってお父さんより若いよね?」ガーン、何を言うか!」ムッとして「テレビのこのオジさんはもう五〇歳だよ!」

今年もどうぞごひいきに。よろしくご愛顧下さい。

 

※地下街の「ニューヨーカー」(旧KENT店)を閉めた。

 

倶樂部余話【一二七】名バイヤーとは(一九九九年一二月二四日)


バイヤー(仕入れ担当者)とはなかなか褒めてもらえない仕事で、売れないものを仕入れれば当然ケチョンパだし、かといって売れすぎれば今度は足りないと怒られ、ぴったり売れてやっと当たり前としか評価されず、つくづく損な役回りだなと思います。しかし、百貨店なら売れ残りを返品することもできますが、当店の仕入れのほとんどは「買い取り」ですから、バイヤーの責任も重く、だからこその醍醐味もひとしおに感じます。

かつて聞いた名バイヤーの談。曰く「売れないと思って仕入れるバイヤーなど一人もいない。だが人間のすること、全部が思惑通りに売れやしない。どうしても残る。しかしその残り方に上手下手が出る。最後の一点まで売れるためにはどう残ったらいいのか考えて仕入れる。これがうまいバイヤーなのだ」この話は目からウロコでした。

さて、果たしてこの冬の私はうまいバイヤーでしょうか。我ながらいい残り方をしている冬だな、とは思うのですが…。「ファン感謝ディ」で存分にご評価下さい。お待ちしています。メリー・クリスマス!よいお年をお迎え下さい。



倶樂部余話【一二六】我が街・しぞーか(一九九九年一二月二日)


今までのこの余話で意外にも一度もまともに取り上げていない話題です。セカンド・ミレニアム最後のお代は「我が街・しぞーか」です。

家業はこの静岡の地で77年を数えますが、私自身は東京生まれの湘南育ちで、静岡へ移り住んでまだ17年に過ぎません。こちらへ来て二年ほど経った頃、「私もようやく静岡の人に慣れてきましたよ」とある親戚に言ったところ「そうじゃない。回りがおまえに慣れただけだ」と諭されたのを、なぜだかよく覚えています。

ずっと感じていたのは、静岡の人は自分たちの住んでいる町をあまり自慢しない、むしろ卑下することが多い、ということ。あまりに暮らしやすい環境は郷土愛を育まないのでしょうか。それから、地元の情報であっても、東京発でフィードバックされないと信用されないという東京指向も感じていました。また、新し物好きが過ぎたのか、観光資源たりえた古いモノをあまり大事にせずどんどん壊してしまったのは、先人の失策だったと思います。

正直言うと、私が静岡を「我が街」として誇りに思うようになったのはここ数年のことです。まず街の大きさがちょうどいい。商圏人口百万人というのは、あらゆる商売が過当競争なく成り立つ最適規模です。そして街のヘソとして中心商店街がデンと存在している。平日にこれだけ人の溢れる地方の中心商店街は、仙台や熊本以上だと思います。一一月の大道芸も市民の我が街自慢を高揚しています。きっと「静岡おでん」もそのうち日本一の評価を獲得するでしょうし、来年の大河ドラマ(葵徳川三代)は市民の郷土愛をより増長することでしょう。静岡は全国に誇れる自慢の街になり得るか、その可能性は充分にあると感じます。

転勤で去られるお客様から「この店に通えなくなるのが寂しいよ」と言われると、たとえお世辞とは分かっていても「この人にとってうちの店が静岡のひとつだったんだ」と嬉しく思います。そうか、静岡の隠れた名物・セヴィルロウ倶樂部、なんて、言われる日が来るといいなぁ、なんて自惚れちゃいますね。





倶樂部余話【一二五】イギリスとアメリカ(一九九九年一一月一日)


コーラやハンバーガーを改めて持ち出すまでもなく、戦後五十年、私たちはアメリカの影響を強く受けてきました。

しかし、忘れがちなことですが、約百三十年前、明治維新の頃から日本のお手本はイギリスでした。今とは比べものにならないほどの少ない情報量の中で、明治人は英国を学びました。

このイギリスとアメリカ、一口に英米と言ってしまいますが、この両国の性格にはかなり違いがあります。倹約家VS浪費家、古い物好きVS新し物好き、金より地位VS地位は金で買う、あるがままにVS見た目こそ大切、フェアプレイVS結果がすべて、歴史に優越感VS歴史に劣等感、旧宗主国VS旧植民地…、枚挙に暇がないほどです。

そしてこの対比は、まるで我が国の、明治大正VS昭和平成、だとも思えます。私も二十代の頃はかなりの米国大好き少年でしたが、今になって思うとかなりアメリカに洗脳されていたな、と感じます。今さら教育勅語は御免ではありますが、しかし成熟期となった日本は、米国一辺倒の呪縛を解いて、もう一度英国をお手本にし直してもよいのではないでしょうか。「戦争を知らない子供たち」は、案外と、質素で厳格な明治の人たちをカッコよく感じてはいないでしょうか。