倶樂部余話【一八九】正しい英国式朝食の食べ方(二〇〇四年一〇月六日)


「英国で良い食事をしたいなら、朝食を三度取ればいい。」と言ったのはサマセット・モームだとか。確かに、英国でのブレックファストは旅の楽しみのひとつである。そしてそれはアイルランドへ行くと、さらに豪華かつ美味になる。田舎のゲストハウスなどでは一皿ずつ順にサーブされることがあるが、近頃は一流ホテルでもほとんどがバイキング方式で、そうなると多くの日本人は、もう食べ方がてんでチグハグになってしまう。で、今回は私が「正しい朝食の食べ方」をご伝授差し上げようという次第。

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まずスターターは、ジュース、フルーツ、そしてヨーグルト。フルーツはシロップ漬けもあるがやはりフレッシュがいい。バナナやリンゴを器用にナイフとフォークで食べている外人さんには目を見張ってしまう。最初に果物を食べるのは栄養学的にも理に適っていると聞いた。ヨーグルトにも、チョコ入りナッツ入りやファッジ(キャラメル)入りなどいろいろあって楽しい。

お次は、シリアル。ケロッグのコーンフレークだけじゃなく、これも種類がライ麦やフスマなど様々で、ミルクで浸し、あとは好みでプルーン、レーズンなどのドライフルーツを入れる。私のお気に入りはあつあつのポリッジ(オートミール)で、これにハチミツをかけて一口すすると、腹の底がじわぁっと暖まってくる。

ようやくメインディッシュ。暖かいお皿の上に所狭しと載っている。まず卵。オムレツもいいが、一度試してもらいたいのがポーチドエッグで、トーストの座布団に載った温泉卵、という感じ。そして、ベーコン、ソーセージ、焼きトマト、マッシュルーム。ハッシュドポテトが付くことも。さらにアイルランドで必須は、ブラックプディングとホワイトプディング。これは決してプリンではなく、豚の臓物に穀物、ハーブ、スパイスを混ぜた腸詰め(ソーセージ)をスライスして焼いたもので、血合い入りがブラック、血抜きがホワイト。濃い味で後でやたら喉が渇くが、でもアイルランドの朝には決して欠かせない美味なのである。

それから、すごいところだと、もひとつコールドプレートもあり、スモークサーモンやキッパー(ニシンの薫製)、各種のハム、なんかが載る。

これらは前夜または着席時に好みを注文するのだが、初老の紳士が「目玉焼きは黄身を潰して半熟で二個。ベーコンはカリカリ。ソーセージは一本。マッシュルームは嫌い。」と真剣に伝えている光景は何とも微笑ましい。

一緒に出てくるのがポット入りの紅茶と数枚のパン。紅茶はミルクたっぷりにし水のように何杯も飲む。薄っぺらなトーストは、焦げているのになぜか冷めていることが多い。英国だとスコーン、アイルランドだとソーダブレッド(重曹パン)も。ホームメードのジャムも添えられる。

仕上げのデザートには、チーズをつまむ。

これでようやくフルコースは終了。軽く小一時間を要する。昼はもうギネスとスープで充分。だって、こんなの一日三回も食べられないでしょ、ね、モームさん。  

倶樂部余話【一八八】素材イジメ(二〇〇四年八月二七日)


一体自分は年間にどれだけの商品を見ているのでしょう。何万点、いや何十万点かもしれません。大きな合同展示会などになると、一日かけて三百社以上見て回ることもありますが、 足を棒にした揚げ句、買付まで至るほどに魅力ある商品に出会えるのはせいぜい一社か二社ぐらいなもの。逆に言うと、99%は自分たちには必要のない商品だということになります。 ファッションというのは多様ですから、きっとどのバイヤーもそんな打率でしょうし、だからこそ、世の中に様々なカタチのお店が生まれるのでしょう。

当然当店とはジャンル違いのモノもたくさんあるわけですが、中でも近頃好感を持ち難くなっているのが、特にメンズカジュアルの分野に、極度に素材を痛め付けるような服が増えていることです。 決して製品染めや洗い加工がダメだと言ってるのではなく、素材の持ち味をより引き出すための加工ならばいいのですが、これでもかと素材をイジメつけることにサディズムな快感を覚えているだけに思える服も見受けられます。そして、多くが素材のデリケートな違いに鈍感な 「素材オンチ」に陥っています。激しいイジメに耐えられるかどうかが、素材選びの基準になってしまっているのです。

職人ならば誰でも、いい材料を前にしたら自然にいいモノを作りたいと思うでしょう。服もしかりで、いい素材に出会うとその素材に敬意を払ったいい服を作ろうと励んでしまうものなのです。 だから、いい素材を見抜けない「素材オンチ」には、いい服を作ろう、という意欲が徐々に欠落してくるのではないでしょうか。

しからば、いい素材を見抜く目はどのように養われるのか、と言うと、これはもう訓練しかありません。永年いい素材に触れ続け、時には失敗を繰り返しながら自然に身に付いていくものでしょう。 この私だって20年この仕事をしているからこそ、目をつぶっても服地の善し悪しが判断できるのです。

平気で地べたに座れるような綿やナイロンばかり着ていると、彼らはそのうち素材オンチになってしまいます。10年着倒した風に加工した素材ではなく、10年後でも着続けたいようないい素材の服がこの世にはあるということ。 素材をイジメるのではなく、素材を「めでる」服があるということ。それに気付けば、その人は将来ずっと大人になっても、服を愛し続けてくれることでしょう。

倶樂部余話【一八七】靴を再開します(二〇〇四年七月一四日)


紳士靴の展開休止という苦渋の決断をしたのは二年前(余話【164】」参照)。昨今は「紳士靴バブル」と揶揄されるほどの空前の高級靴ブームで、それに踊らされずに済んでいる幸いに、自らの判断の正しさを確信しつつも、やはり正直、多少の悔しい思いは感じていたのでした。

実は、休止した当時から、紳士靴を再開するなら「(スーツと同じように)自店ブランドによる国内工場でのパターンオーダー」以外にはあり得ないだろう、と考えていました。洋服屋として、格好良さもさることながら、まずサイズを合わせる、というのが絶対に譲れないことだったからです。それを目指して、つてを頼ってはいくつかの靴工場に「服でできることがなぜ靴でできないんだ」と掛け合いましたが、どこも「そんなこと、できっこない」と本気で取り合ってはくれませんでした。「俺の考えは空論なのか」と、半ば諦観を抱いてもいました。

しかし、天啓あり。この不可能を可能にしたファクトリーがあったのです。その情報を得るやいなや、私は山形県赤湯(南陽市)の宮城興業へ飛んでいきました。70年の歴史を持ち、某大手トラッドブランドから新進の個性派デザイナーものまで、英国ノーザンプトン・バーカー社仕込みのグッドイヤー製法の技術を駆使し、製造の名黒子役であったこの工場が、将来への生き残りを懸けて、二年間の試行錯誤と職人達の意識改革の末に、ついに完成させた注文靴のシステム。これはまさに私の求めていたそのもの、いや、その期待を遥かに越えるレベルのものでした。静かにしかし熱く語る高橋社長と会談していくうち、私はうれし涙がこみ上げてくるのを感じていました。(自分と同じ思いを抱いていた人間がここにいたじゃないか。ようやく出会えたよ。)

 溢るる自信と喜びを持って、紳士靴、二年ぶりに堂々の当店再開です。

倶樂部余話【一八六】書籍紹介(二〇〇四年六月三日)


近ごろ読んで、元気の出た本を3冊ご案内します。

①「横浜ゴールドラッシュ」(北原照久・著、一季出版・1,260円)…先日、湘南・佐島の北原邸でのパーティに参加した折、(当日の模様のレポートはこちらを見て下さい!) 北原さんのサイン欲しさに買い求めたものだが、無一文の彼がいかに運を味方につけてきたか、が小気味よく描かれている。 彼から直接聞いた、運をつける10ヶ条の10番目「運は、自分は運のいい奴だ、と思い続けている人のところにやって来るものだ。」には大いに感動。何しろ元気になった。だから私もみんなを元気にしてあげよう、と思った次第。 (この本、版元ではすでに絶版のようですが、横浜や清水(エスパルス・ドリームプラザ)などの北原さん関係の施設には常備在庫があるようです。)

②「紳士礼装の『かたち』と『こころ』」(川淵勉・著、繊研新聞社・1,800円)…フォーマルウェアのルールを我々業界人向けに書いた本。決して自分に自信がなかったわけではないが、今まで皆様に説明し続けている内容に間違いがないことの確証を得て、ホッと一安心。 フォーマルの着こなしは決して難しいものではない。原則は3つだけ。まず時ありき、礼装は2種類しかない、みんなが同じ装いを。 フォーマルを「かたち」良く着こなすコツは、これで間違いない、これでいいんだという自信の「こころ」を持つことだ。 (一般書ではないので、これも書店にはまず置いてません。ご購入はこちらへ。)

③「なぜ通販で買うのですか」(斎藤駿・著、集英社新書・735円)…筆者は、「通販生活」を出版する(株)カタログハウスの社長。そのルーツがかのルームランナーだったとは知らなかった。 その記事的広告の手法が経費節約の必要から生まれたものだったというくだりも面白いが、大変感銘を受けたのは、彼の主張する「小売りジャーナリズム」論。 「消費者に代って小売りが商品を選ぶ。消費者はその選ばれた最終商品(小売り側の結論)に対して賛成するか反対するかを選ぶだけである。」とか、 「それぞれの小売りがそれぞれの自己表現で競い合う。それぞれの自己表現が消費者における商品選択の標識になっていく。そうなるといいなあ、と思う。」という思いに、学生の頃の一時期に新聞記者を志したこともある私は、いたく感動してしまい、自らの目指す店づくりに一光が差したような気にさせてくれた。 巻末、拙著と同義のあとがきには、思わず失笑。 (これは新刊新書なので書店ですぐ手に入ります。)


※まだアマゾンがなかったころに書いた文だということがわかりますね。

倶樂部余話【一八五】年齢層(二〇〇四年五月六日)


お客様の平均年齢が上がっています。

一般的には専門店のこういう現象は好ましからざる傾向です。若い新規客が取り込めずに客が固定化し過ぎると、店は客と一緒に老化していき、これは衰退の兆しと捉えられているからです。

しかし、当店の場合はそうではありません。実は、30代後半から50代前半の新しいお客様が増えているからで、大変ありがたいことだと感じています。

いわゆる団塊世代が、子育てから開放され、自己の消費を回復させていることが知られるようになっていますが、当店で増えているのはその下の世代で、まだまだそんなに余裕の生まれてこない年代です。私自身も二人の娘に日々財布を吸い取られる有様。にもかかわらず、当店でのご用命が増えているということは、「質と価格のバランス」にもっともシビアな世代の選択眼に適うことができているものと自賛してます。

もうひとつ、昔と違うなと感じるのは、この年長者の増加に20代後半の若年層が拒絶反応を示さず、むしろ好感を寄せているように思えることです。

かくして、今後の当店の課題は「サイズ」。様々なサイズをどこまで拡げられるか、苦悩は絶えません。

倶樂部余話【一八四】旧暦予報(二〇〇四年四月一〇日)


毎年言っていることですが、「二月下旬並みの寒さ」と「五月上旬並みの暖かさ」が交互にやってくる時期が春なのであって、実は平均気温どおりの日なんて滅多にありません。 女性はこの毎日の変化を積極的に先取りしようと楽しみますが、男性は億劫がってモタモタしているうちに夏を迎えてしまうことが多いようです。

でも、今年はそうそう誤魔化しきれないほどに春が長いですよ、というのが私の予測、その根拠は、今年は旧暦の閏(うるう)二月が入るからです。少し説明しますと、旧暦は新月から新月(29.5)までが一ヶ月(だから十五夜は満月)で、一月から三ヶ月ごとに春夏秋冬とするのですが、 一年の長さは新暦同様に太陽が基準(春分から春分)なので、一年で約11日の差ができます。そのため約三年おきに一年を13ヶ月にして季節感を調整します。これが閏月で、どこに閏月が入るのかの細かいルールの説明は省略しますが、ともかく閏月が入った季節は長くなり、また、閏月のある年は概ね天候不順な年になる、ということが実証されているのです。

で、今年は春が長く夏の到来は遅れます。夏の始まりの旧暦四月一日は今年は五月十九日ですから、ゴールデンウィークの頃ではまだまだそれほど暖かくはならないでしょう。また、梅雨も寒く、冷夏&残暑も予想されます。

つまり、例年以上に春物の必要性が増しますので、今年は春物を購入する絶好のチャンスなのだと言えます。信じる方はご来店を。  

倶樂部余話【一八三】こだわりって好きじゃありません(二〇〇四年二月二六日)


ときどき、こだわりの店、などと評されます。しかし,実は私自身は「こだわり」という表現をあまり好んで使うことはありません。と言うのも、この言葉、元来が、些細なことに拘る、や、地位に拘る、など、悪い意味に使われてきたもので、決して誉め言葉になるとは限らないからです。

それに、商売ですから、商人は、品質なのか価格なのかサービスなのかブランドなのか、いずれにしても何かに拘らなければならないのは当然ですし、お客様にしても、何かに拘ったからこそモノを買うわけで、客もまた拘るのは当たり前のことだと思います。大体、今時、「こだわり」のないモノなんて売れるはずがないでしょう。

しからば、なんと言えばいいのでしょうか。「矜持(きょうじ)」というのもいい言葉ですが、あまり一般的とは言えません。横文字に変えてみたらどうでしょう、プライド、になるんでしょうが、でもそれだと何だか偉そうな感じで、逆に誤解を受けかねませんね。

私が好むのは「思い入れ」とか「気概」といった表現。自分の思いにぴったり合っているな、と感じるのですが、皆様はどのようにお感じでしょうか。

倶樂部余話【一八二の二】国内出張報告(二〇〇四年二月五日)


ロンドンから戻った翌週は、一泊の国内旅行でした。その旅日記です。

 

22()の夜に、兵庫県伊丹市で、7ヶ月ぶりに、アランセーターの講演をいたしました。

伊丹というところは、多くの酒蔵があったり(清酒発祥の地だそうだ)、小さなスナックや立ち飲み屋が続く昔ながらの路地があったりと、古い街である反面、空港や大工場、ショッピングセンターもあり、また震災被害が大であったために道路や神社仏閣、マンションはやたらに新しくて、古いモノと新しいモノが混然としている、魅力ある街です。

空港があるからでしょうか、財政的には比較的裕福な市のように見受けられます。公共ホールも目的別に複数あり、私が呼ばれた講座も、月替わりで各国の音楽と文化を紹介し続けるイベントの一環として開催され、今回のアイルランドでちょうど百ヶ国目、というロングラン企画だそうです。

約五十人の聴講客にはご年配の方も多く、私も三度目の講演ということで、やっと少しはリラックスして話ができたかな、と思っています。まあ、スライドやビデオなどのビジュアル効果にずいぶん助けられてはいますけど…。当店で販売したアランセーターをわざわざ着て、遠く姫路からおいでいただいた方もいらして、大変うれしく思いました。お聞きいただきました皆様、ありがとうございました。

講演後は、酒蔵跡のレストランで、地ビールと清酒、計八種の利き酒をし、ぐっすりと床に着きました。

話が前後しますが、その日の昼は、神戸の六甲アイランドにある「ファッション美術館」へ立ち寄ったのです。そこにはアイルランドから寄贈された素晴らしいアランセーターがあり、それを確認するためです。果たしてそれは、サドルショルダーの肩付けという、大変珍しいタイプの見事なアランセーターでした。

この美術館は、洋の東西から貴重なファッション資料を収集した、我が国唯一のファッション・コレクション・ミュージアムで、内外装も素晴らしいのですが、運営主体の神戸市の財政難で、昨年、その展示規模が半分以下に縮小となり、収蔵品の管理にも充分に手を掛けてやれない状態になってしまっているそうです。丁寧に説明をしてくれた学芸員の方が憤っていました。そもそも交通の便も悪く文化も無毛な人工島にこんなハコを作ってしまったことがどうかしていると私は感じますが、このままでは宝の持ち腐れです、何とかこの貴重な人類の財産を活用できる手段を考えてもらいたいものだと思います。

翌日は、福井県鯖江市に、眼鏡製造の現場見学。一面の雪景色にどんよりとした空。なんだか静岡に住んでいるのが申し訳ないような気になります。

鯖江(さばえ)は眼鏡の一大産地とはいえ、一貫した製造工場があるわけではなく、パーツや工程によって街の中に点在する小さな製作所を行ったり来たりしながら一本の眼鏡ができあがっていること、そこに掛かる手は約二百人にも及んでいる、ということを知りました。

本物のセルロイドを使いほとんどを手作業で仕上げていく工場やモダンと呼ばれる耳掛けの部分だけを小ロットで作るところなどを回り、現場の方からいろんな話を伺いました。聞けば、「少しぐらい値段が上がっても、鯖江ならではの技術を生かしたいいモノを作っていきたいと、考えているのに、注文主は、他ともっと違ったモノをしかももっと安く、と言ってくる。そうなると、不本意だけど、工程を手抜きする、ということでしか対応できないんですよ。」と嘆いていました。末端の消費者も、もう安いだけのモノはいらない、と同じように感じ始めているというのに、モノを作るでもなく直接消費者と接するでもない中間業者だけがあいも変わらない、というジレンマを感じました。職人にも正当な利益を配分していかないと、このままでは産地ごと飼い殺しになりかねない、という危機感を、業界はどこまで分かっているのかなぁ、と思ってしまいます。

名物「鯖のへしこ」を手にぶら下げ、帰りの車中は、越前ガニの炊き込みご飯を食べつつ、帰途に着きました。 

倶樂部余話【一八二】海外出張報告(二〇〇四年二月五日)


恒例の海外出張報告です。今回は、ダブリンとロンドン(&グローヴァオールの工場見学)というシンプルな旅でした。

私たちは見知らぬ土地へ行くと、ついその土地らしさを観察したがり、その発見に感動したりするものですが、今回は何度も訪れた二都市だからでしょうか、逆にその「らしさ」が消えて行くような印象を抱いて帰りました。

ダブリンは、いよいよ先進国の仲間入りを果たしたアイルランドの自信に満ちた勢いで溢れています。この十年で三倍に急増した観光客は、従来から皆が抱いている古いアイルランドを求めて訪れているのに、 ダブリン自身はそのイメージを打ち消したがっている、というのはやや皮肉めいています。若者がギネスを飲まなくなった、という話も聞きました。でも、きっとあと何年後かには、 ヨーロッパのどこにもない新旧の魅力に溢れた街になるんじゃないかな、という期待も大です。

 ロンドンは、随分東京みたいになったな、という印象でした。昨年はミラノでの英国趣味の強さを感じましたが、どうやら逆にロンドンは今イタリア趣味を甘受しているようです。二百年も続いていた老舗の店が目抜き通りから消え、その跡に巨大メゾンブランドがやたら明るく無機質な店を構えています。 かつては薄暗かったセヴィルロウも今はきれいな店がずらりと並びました。良くなったことといえば食事。コンラン系のレストランばかりハシゴしましたが、どこも美味でした。ある意味これも東京っぽいとは言えますけどね。 

倶樂部余話【一八一】値段は誰が決めるのか(二〇〇四年一月九日)


海外で買い物をすると、同じ品物でも専門店の方が百貨店よりも高い値段が付いている、ということは決して珍しくないことです。 その代わり、専門店は、品揃えが良く、接客も丁寧で、お直しも無料でしかもその日にホテルまで届けてくれたりと、その差額を補って余りあるほどのサービスが付加されてくるのです。

さて、今回の話は、値段は誰が決めるのか、ということです。経済学者ならそれは市場(消費者)が決定する、と言うかもしれませんね。実際、欧米では小売店が自由に設定しているのに対して、日本では(独占禁止法という法律があるにはありますが)代理店や卸し元が小売価格を「希望」するのが常になっています。

さて、この四月から、消費税法の改正で値段はすべて税込みで表示するように義務付けられます。将来の増税への布石でしょうが、内税方式の導入自体はかねてからそうあるべきだと考えていたので、 私は歓迎してます。 今、流通業界は980円1,029円になったんじゃ売れないょ、と大騒ぎしています。999円で売れるように951円に値下げせよと問屋に圧力をかけている大手量販店もあるようです。

私なら、980円はそのままにして、他のモノで50円上げるなりして利益を調整することでしょう。それでも人はこれを便乗値上げだと非難するでしょうか。

 私は思うのです。この内税方式への変更は、価格を決める裁量権限を小売店が取り戻す、千載一遇のチャンスなのだと。希望小売価格などに捕らわれず、自店の付加価値を考慮して、各自が独自に売れる値段を付ければいいだけのことだ、と考えるのですが、果たしてこれは暴論でしょうか。