久しぶりに真剣に相撲を見ました。日本にもすごい若者がいるもんだ。新横綱大の里、どうか師匠の分までふたり分の活躍をしてもらいたいものです。(師匠・稀勢の里の悲運については倶樂部余話【363】に書きました)
中学生の頃、だから今から50年ほど前ですが、50年経ったらなくなっているもの、として、私は4つのものを予想しました。デパート、演歌、歌舞伎、大相撲。
デパートは、合併とリストラを繰り返してかろうじて大都市の店舗だけが生き延びてますが、百貨店会社自身がすでにデパートメントストアという従来の店舗形態に固執していないので、私の予想は概ね当たっていたと言っていいでしょう。演歌も世代転換が進まずに今後も衰退していくでしょうね。余計なことですが、どうしてNHKは紅白で演歌になるとけん玉とか巨大な衣装装置とか集団舞踏とか余興ばっかりで肝心の歌を聞かせることに集中させないんでしょうか。さて、歌舞伎は元々が大衆演芸だったこともあり、時代を取り込む柔軟な姿勢を見せて思いの外健闘、歌舞伎座も蘇って、私の予測は外れたと言えます。そして相撲。裸でちょんまげ、なんて誰が好んでするものか、蒙古族の出稼ぎ場になっていくのが関の山、と思ってましたが、なかなかどうして、生き残っています。ただ競技として女性を取り込めないのが致命的なのと、プロスポーツとしてみると優秀な選手が他の競技に流れしまい、相撲界にはいい人材が残りにくいのではないかと思います。大の里も父親が相撲の指導者だったことが幸いしましたが、そうでなかったら、松井秀喜に憧れて今頃大谷翔平と肩を並べる大リーガーになっていたかもしれません。
こういう当たる当たらないという予想は、服飾のバイヤーという職業を長年しているとクセのようになってしまっていて、大きな展示会を回っても、常に売れるか売れないか、を頭においている自分に気が付きます。もちろん、最初から売れないと思って新製品を出す人などいないのですが、バイヤーとしては、ただよく売れるものを探せばいいのではなくて、まだそれほど知られてないけれど売り方次第では面白いアピールができるかな、という極めてニッチな商品を探し当てないといけません。百に一つ、千に一つ、ぐらいのつもりで探しますから、99%は捨てているわけです。
売れる売れないの判断では今でも痛恨の極みとも言うべき記憶があります。当時34歳、1991年(平成3年)に発売された缶入り飲料カルピスウォーター。私は呆れてこう言い放ちました。炭酸水ならともかく(その18年前にすでにカルピスソーダは誕生していた)、ただ水で希釈しただけのものにソーダと同じ金額を払う者なんかいるはずがない、自分で薄めりゃ濃さも自由に好きなだけ飲めるじゃないか、一体何を考えてるんだ、作り置きで飲みきりの缶入り(ペットポトルなどまだなかった)のカルピス水なんて売れるはずがない、と言下に斬り捨てたのです。しかし結果は空前の大ヒット、30年以上続いているロングセラー飲料になっています。思えば売れると信じて仕入れたものが全く売れなかったことは幾度か経験がありますが、あのときほど自分の予想能力に自信をなくしたことはありません。
高校の夏合宿、灼熱のテニスコートに女子が差し入れてくれたヤカン入りの冷えたカルピス、あれはまさに甘い初恋の味でしたが、今でもコンビニであの青い水玉の付いた白いボトルを見るたび、私には苦い記憶ばかりが蘇ってくるのです。(弥)
倶樂部余話【439】あきらけく、桃一ばんざい (2025年5月1日)
誰も自分の過去を知らない離れた土地に引っ越して人生をリセットする、そういう機会を私は二回得ています。二度目の方は25歳で東京から静岡に引っ越してきたときで、リセットというと聞こえはいいですが、血気盛んな頃の不埒な悪行三昧の恥ずかしい過去を静岡の人に知られたくなかったのでした。
自分にとってなにより大きかったのは最初のリセットでして、それは小学校卒業と中学入学との境目、東京杉並区から湘南藤沢への引っ越しでした。今から55年前、大阪万博の年のことです。生まれ変わった少年野沢は創立間もない藤沢の新しい中学で生徒会活動に没頭、楽しく過ごすことになります。
小学校当時の私は、職員室を騒がせる問題児、まあとにかく悪い子でして、母親は何度も学校に呼ばれました。今になって思うと担任だった若くてきれいな女センセイを困らせたかっただけの他愛ないワルガキの仕業なわけですが、10歳ぐらいの私にはなぜ悪さをするのか自分でも自分のことが理解できず、抜け出したくても抜け出せない、自己嫌悪のカタマリになってました。それでも学校は大好きで毎日楽しく通いましたし、仲のいい友達もたくさんいました。しかし引っ越して以来、今では連絡の取れる級友は一人もいなくなってしまったのです。
この小学校、親がわざわざ越境までさせて私たち兄妹を入れたほどのとても古い伝統校で、入学したときにはまだ長い廊下の木造の校舎がありそこで授業を受けました。わけも分からず丸暗記した文語調の校歌の出だしは、明治八年春開校という13文字を29文字に引き伸ばしたものだったと、その意味を知ったのはかなり大人になってからです。明(あき)らけく治まる御代(みよ)の八年(やとせ)春、開けし学びの我が舎(やど)は、、、。もちろん今でも歌えます。東京都杉並区立桃井第一小学校、通称、桃一。
明治8年(1875年)というのは寺子屋から小学校へ国の学制が大きく切り替わった年で、桃一は杉並区で二番目に古い小学校で4月28日に開校しました。一番目はその三日前に開校していて、たった3日の違いで二番目に甘んじたことがよほど悔しかったんでしょう、ことさらに明治八年を強調した校歌にはその悔しい思いが込められているように感じます。
つまり今年創立150周年を迎える小学校は日本中のあちこちにあるらしいのですが、私にとっては55年前にそこから離れてしまった思い出の場所です。150年を迎える今年の開校記念日は何年か前からずっと気になっている節目の日になっていて、もしかしたら同じように思っている卒業生もいるんじゃないか、いや学校はホームカミングディなどと称して校門を開けて待ってるんじゃないか、などと思い巡らせまして、私とうとう桃一に問い合わせをしてみました。
副校長に名前を告げるとすぐに調べてくれて95期に私の名前があり卒業後すぐに藤沢市に転居していることなどの記録があると話してくれました。「創立記念日は例年と同じく休校日なのでどなたも入れません。来ていただいても誰もいません」しかし55年前の卒業生、しかも静岡からわざわざ問い合わせが来たことに母校はいたく喜んでくれまして「秋に大きな式典をやりますのでぜひ出席してください」と招かれました。ああ、電話してよかった。
ですので私だけの節目の日だった一昨日は何事もなく過ぎ去り、ひとり静かにワインを傾けました。桃一150周年おめでとう。(弥)

倶樂部余話【438】思い出のパイナップル (2025年4月1日)
少し世代の離れた人と打ち解けるのに私がよく使う方法が「これ覚えてますか?何歳でした?何してた?」といういくつかの時代のお祭り騒ぎです。
*皇太子ご成婚(ミッチーブーム)。1959年(昭和34年)私まだ1歳半。さすがに記憶はありませんが、クラスに美智子さんという女子が少なくとも必ず一人はいました。
*東京オリンピック。1964年(昭和39年)私、小1。青梅街道で聖火ランナーに日の丸を振りました。
*大阪万博。1970年(昭和45年)中1。
*札幌オリンピック。1972年(昭和47年)中3。高校受験ともろかぶり。
中でも自分がまさに真っ只中にいたと思えるのが大阪万博♪1970年のこんにちは♪です。世界中の国名と首都を諳んじるような地理大好き少年12歳の私にとって、それは世界最高のお祭り、地球儀の上を歩いているような興奮でした。大阪・香里園に母の実家があるという好条件で、夏休みに長期滞在、分厚い公式ガイドブックと祖母のおむすびをリュックに詰めて、日がな通い詰め、77カ国、まさに世界の国からこんにちは、110を超えるパビリオンを完全踏破しました。一番の思い出は月の石?太陽の塔? いえ、パイナップルです。縦割りして割り箸を刺した生のパイナップル、最高のごちそうでした。
中学生という年頃も良かったんだと思います。乾いたスポンジみたいにどんなものも吸い取れる巨大な吸収力が自分にありました。「人類の進歩と調和」というそのテーマは当時の実行委員だった小松左京が作った言葉だそうですが、日本中の誰もが知ってる素晴らしいスローガンでした。この国に生まれ育って、私は良かった、と、心からそう思えたのでした。
はてさて、いよいよ二度目の大阪万博です。テーマをご存知ですか。「いのち輝く未来社会のデザイン」。申し訳ないけど、全然ピンとこないんです。そもそも万博ってデザイン展だったのかな。まあ、始まる前から悲観的になるのはやめましょう。年寄りの悪いところです。俺は一回目を知ってるから、って比較するのは良くないですね。二回目は二回目としてのいいところを見いだせるようにしましょう。
さあこの万博は将来私の中でどういうお祭りとして残るのでしょう。分かっていることが一つだけあります。ああ、あの万博の初日、私は福岡でアランセーターの講演をしたんだっけ。(弥)


倶樂部余話【437】あちこち壊れました (2025年3月1日)
このところ身近の小さいものが立て続けに壊れました。
まずニコラス・モスのスモールボウルが割れました。それもミカンと茶葉と波と富士山の当店別注ジャパンエディション。瞬間接着剤でつなぎましたが、もう食物には使えません。残念。余った接着剤でほころび始めてきたヨーツェン(ダウン)のダブルジッパーの蝶棒(入れ始めの端)を固めました。これは成功。
次にノートPCの電源コードがダメになりました。充電ができないんじゃPCが使えませんから一大事です。近隣の家電店やPC店を駆け足で回りましたが在庫はなく取り寄せもできません。仕方なくネットで買うことに。でも届くのは3日後。その間どうしようもないのか、仕事にならないよ、と落胆していると、ある店員さんが「タコ足じゃなくて壁のコンセントから直接つなぐと使えるかもしれませんよ」とのアドバイス。半信半疑で試したら、おっ、使える! これ、携帯の充電器などにも言えることらしいので、覚えておくと良いですね。
一安心して、入荷したばかりのマウンパを着て自撮りしようと三脚をセットしたら、カメラがふらついて固定できない。ネジの締め過ぎで雲台にヒビが入ってたのは知ってたけどこれが完全に割れてしまっています。これは瞬間接着剤でも無理、諦めて買い替えよ、ヨドバシで買って翌日到着。
郵便物の重さを測るのに秤に電池をセットしたらその電池がどうにも外せない。手元にあったボールペンの先を突いたら、アレレ壊れちゃった。お気に入りのジェットストリーム、これじゃないと嫌なので、急いで文具店へ。やっぱり横着しちゃ駄目だな。
日本語の品質表示ラベルを新たにセーターに付ける必要があり、糸のホチキスみたいなハンドミシンを久しぶりに出してみたら、アレこれもうダメじゃん、ということでこいつは潔く買い替え。手動式は使えないとわかって電池式にして、知らない店からネットで購入。不安だったけど無事到着。
家に帰ると、キッチンの蛍光灯、2列の一つが急に点かなくなった、と愚妻。グローと蛍光管を新品に付け直してもやっぱりダメです。しばらく1灯で我慢してもらうしかない。逆に漏電が怖いので、1灯状態から紐のスイッチを切り替えないように忠告します。
さてさて、こうも続くと、次は一体何が壊れるのか、とびくびくしてます。今のうちは少額の小さなものなので事なきを得てますが、家の中を見回すといつ壊れても不思議でないものがごろごろしてます。エアコン、換気扇、洗濯機、冷蔵庫、などなど。40年前のものもあるんです。
食物連鎖のように、小さいものから大きなものに続くよ、なんて脅かす人もいて、心配になってきました。全部買い替えた後に最後は地震で家が壊れるんじゃないか、なんて最悪のシナリオまで頭に浮かびます。その前に人間が壊れたりしちゃわないか、お祓いとかお清めとか、そんな馬鹿げたことまで考えている昨今であります。(弥)
倶樂部余話【436】色は色々 (2025年2月1日)
色がどういう色に見えているのかはひとりひとり違います、だから色を伝えることはとても難しくて、色名を付けるのも腕の見せ所というところがあります。色はイメージで伝える。これです。
あるトラウザーズ(スラックス)に利休鼠(りきゅうねずみ)という色名を付けました。そもそもこの色は光源や媒体や人の視覚によって様々な色に変化して映ることこそが魅力となる色だと思ったので、誰もが(日本語のわかる人に限られますが)同じようなイメージを浮かべられるような色名を探りました。多分皆さんネットで利休鼠を検索しますよね、いろんな画像が出てきて、ああこんな感じなのね、という共通のイメージが掴めるはずです。それでいいんです。
できたばかりのフェアアイルセーターの色柄サンプルを見て、私が思わず発した「素晴らしい、まるでモネの絵画のようだね」との感嘆の声に相手の社長がニコッと微笑んだので、まんざら自分の思い違いじゃないんだな、と解釈して、この色柄(パターンとカラーリング)に勝手にモネ・ホワイトと名付け、さらに2つの色柄を選んでそれぞれにターナーとルノワールの名を冠しました。これはかなり共感を呼んだようで、気を良くして次冬用に新たな追加色を探して、これにゴッホ・イエローと名付けました。だって、ゴッホといえばイエローでしょ。
モネ・ホワイトなんていうのは私の造語ですが、ゴッホ・イエローという言葉は美術界にはれっきとして存在する言葉らしくて、それくらいゴッホのイエローは特徴的な色なんでしょう。気になって調べてみると、実はゴッホはある種の色弱のひとつで、彼に見える黄色は我々の見る黄色とは少し違う色に見えていたらしい、というのです。ハンディキャプとパーソナリティは、後ろ向きか前向きかの違いでしかないんだ、と思います。
そんな矢先、色のことでとっても悩まれて何度もメールでやり取りした末にアランセーターをご購入いただいたお客様から商品到着のメールが入りました。曰く「私は色弱なので平易な言葉で色の感じを伝えていただいてとても良く理解できました」と感謝されました。色はイメージで伝える。画像だけでは伝わらない、できるだけ言葉にして、ということの大切さを痛感しました。
ちょうどBSテレビでは視覚障害と葛藤する写真家のドラマが進行中です。そのタイトルがTRUE COLORS。んー、どういう意味なのかな。正しい色なんてない、色は色々、人それぞれに見えてる色は違うのだから、あるのはただ真実の色(true color)だけ、ということなんじゃないか、と思うのだけど。
ということで、今回は色についての話をしてみました。ではまた。(弥)
倶樂部余話【435】姫路は城も白けりゃ革も白い (2025年1月1日)
コロナのどさくさの最中にgo to トラベルを利用した四国への格安の旅(余話【384】参照)で、47都道府県踏破を果たしたと同時に現存12天守(江戸時代以前に建造された天守が現在まで残っている12の城郭)の4つを一気に回り、残り2つとなっていた今年、春の18きっぷ越前の旅で丸岡城を攻落し、最後のひとつを夏の18きっぷで、と計画していたら、台風の影響で中止を余儀なくされ、新制度の冬の18きっぷでリベンジを果たすべく12月だというのに姫路2泊の鈍行旅行に出かけました。
朝5時の静岡始発から乗り継ぎ6回8時間の末に着いた駅は西脇市駅。播州織工芸館を訪問。詳しい人を紹介してもらい、織物の話に夢中になって、町歩きの時間をなくす。横尾忠則自慢の多くのY字路を見られなかったのは心残り。加古川のニッケ社宅群は夜歩くと怖いほどとっても昭和。姫路駅前で焼き立てのあなご弁当を買ってビジホで一人晩酌。バタンキュー。

2日目の足はレンタサイクル。午前中、国内で最大級のタンナー(皮革なめし業者)を訪問しファクトリー見学を4時間。詳細は後述。たこまるでたこ焼きの後、いよいよ姫路城登楼。聞きしに勝る白鷺の御姿や見事、これにて現存12天守制覇を果たす。日が暮れるまで、皮なめしの職人町花田や古い街道筋の野里をチャリで一回り。夜は旧友とアイリッシュパブでギネスの後、室津産のとれたて牡蠣三昧。大学時代のバカ話で盛り上がる。姫路を丸一日堪能し、バタンキュー。
3日目。早朝に高砂の港町をひと歩きしてから、一気に淡路島へ知人を訪ねる。一瞬アラン島にとても似た光景を拝む、やっぱり島はいいな。引き返して、明石へ。魚の棚(うおんたな)の商店街は面白い。たまご焼き(明石焼)はとろとろふわふわで美味。老舗のたこせんべいを抱えて帰路に、3回乗り換えて静岡着。ただいま。
さて、姫路は1000年超の革の町、革ヘンに柔らげるでなめしと読むが、その皮革鞣しで全国60%以上のシェアを持つ。但馬牛(神戸ビーフ)の産地も近く、瀬戸内の塩が豊富で、晴天日も多く、河原の広い川がある。市内を流れる市川の水で鞣すとなぜか革が白くなり、姫路の白鞣し(姫路靼)は特産品として殿様の装束にも白革が使われる。お城も白けりゃ革も白いのだ。
地図を広げるとその市川沿いに、水道管理センターなどの施設が集まっているエリアがあり、周辺に何十もの皮革業者が集中しています。美化センターに隣接するのが今回訪問した(株)山陽という会社。高い煙突が目印のひときわ広大な一万坪(東京ドーム三分の二)のファクトリーは姫路最大で、原皮から鞣し、整理、染色、検査や出荷、廃棄物や汚水の処理までをも一貫して自社工場内で完結させているところは姫路でもここぐらいだろうと言われています。こちらの革の用途の七割が革靴、しかも紳士靴が大半、ということで、その中には宮城興業も含まれているらしく、私たち、知らず知らずのうちにここの革のお世話になっていたというわけです。
工場長に案内をしていただき、まず原皮の倉庫へ。分厚い扉を開けるとそこには塩漬けにして畳まれた原皮の山。北米、欧州、日本から運ばれてきた牛の皮。霜降りの美味な和牛が必ずしも上質な皮になるとは限らないとのこと。肉と皮では品質ランクが逆転するのは面白い話でした。肉や毛を取り除き、いよいよ皮から革へ。鞣しは大別するとタンニン鞣しとクローム鞣しに分かれます。植物のミモザから抽出したタンニンの水溶液が入ったピット槽にひと月以上も漬け込んでから自然乾燥させるタンニン鞣しを静とすれば、木製の大きな太鼓を回して短時間で処理を進めるクローム鞣しはまさに動。対照的です。
説明ばかりが長くなるとつまらないので、細かいところは山陽さんのウェブサイトを見てもらうとして、いわゆる水場を終えて、革を仕上げていく次の工程に移ろうとするところで、私、水や廃棄物の処理はどうされるのですか、と質問。見たいですか、と工場長。だっていちばん大事なところだと思うんですよね、と私。この言葉は彼に大きな喜びを与えたようでした。建屋を出て屋外へ。人間でいえば、大腸から先の部分に当たります。泡立つ洗濯槽、クロームの化学反応によるサビはあるがしっかりと機能している沈殿槽(なぜクローム鞣しの太鼓が金属製でなくて木製なのかその理由がわかりました)、この会社がいかに環境への影響に細心の配慮を行っているかが、ひしひしと伝わります。姫路のタンナーを代表するカンパニーのひとつとして業界の地位向上を担う責任と矜持、素晴らしいと感じました。
染色、型押し、鏡面、仕上げ、など、後半部分を見学し、品質検査の研究室を見終えたところで、応接室へ。
糸へん業界と皮革業界の違い、を端的に言いますと、繊維製品の場合、一本の糸からそれを織ったり編んだりして一枚の布に仕立てます。小さくて軽いものから大きくて重たいものに移っていくので運ぶということをあまり考えなくて済みます。対して、タンナーの場合、びしょ濡れの原皮が一番重たい、そこから、機械へ入れる人、それを出す人、次の機械に運ぶ人、牛一頭を背中で半裁した大きな一枚の皮革を動かすのは全部人手です。もう一つ、革は生き物の皮が原料ですから、一枚一枚が違います。一枚一枚に検品が行われて番号が振られるくらいに全部違うのです。ところが靴メーカーは何百足と同じ靴を作りますから、同じ革をたくさん求めます。もともとは一つ一つが違うのに同じものにして出荷するのですから、それに至る過程は一つ一つ微妙に異なるわけですね。これは繊維製品では考えられないことです。
なのに、です。出荷価格に占める原料費の割合が繊維製品ではありえない高比率なのです。これだけの設備と人手を掛けて、ですよ。将来のためには出荷価格を上げたいところだと思うのですがBtoBではなかなかそう思うようにいかないのが現実です。
また、高付加価値を得るためには自社のブランドドロイヤリティを高めることも目指さねばなりません。ここの会社も自社ブランドの革製品の販売を行っています。TAANNERR(タァンネリル)というブランドで、シンボルアイテムの3層ダレスバッグが34万円です。誰もが簡単に買えるものではないですが、こんな私でもこのブランドの売り込みやものづくりには、多少のアドバイスができるだろうと思いますので、今回の工場訪問のお礼の代わりにこれからも勝手連的でも協力していきたいと考えています。
今回ご縁ができたこの会社、(株)山陽さん。是非この尊敬できる姿勢の素晴らしい会社のウェブサイトをご覧頂いて、この会社を知ってもらいたいな、と願います。取引先でもジャーナリストでもない一個人の私に予定を遥かに超えて4時間近くもご対応いただき感謝の限りです。
という、とっても有意義な2泊3日の18きっぷの旅でありました。(弥)




倶樂部余話【434】冷やかし余話 (2024年12月1日)
冷やかし大歓迎、なんて言っていたら、ちょうどお気に入りの深夜番組(道との遭遇) にて「冷やかし」という言葉の語源を聞きました。浅草の和紙職人が、使い古した和紙を水に漬ける作業を「冷やかし」と呼んでいたことに由来します。水にさらした和紙を長時間冷やしている最中、暇つぶしに吉原に行って花魁たちの見物をしていたそうです。もちろん花代など持ち合わちゃいません。「また冷やかしの連中がやってきた」などと花魁たちがつぶやいたんでしょう。浮世絵の一場面がネットに載っていたので、添付します。落語の枕にも使われそうな江戸の粋を感じる話ですね。
落語といえば、道具屋という噺の中に、何も買わずに帰った冷やかし客に「小便された」という表現が出てきます。こちらは物販や飲食の店の間で使われた隠語のようで、ちょっと怒りのニュアンスを感じます。あの客トイレだけ借りただけで帰っちまいやがった、みたいな感じでしょうか。現代のコンビニの店員さんもそう思っているのかな。ちなみに私はコンビニでそういうとき大体は小さな羊羹なんぞを買いまして、手ぶらで出てってしまうのは無粋だと思っていますが、皆さんいかがでしょうか。
我々洋服屋の間では同業店を冷やかすことを「シカチョー」と言ったものです。今でも使われてるのかは分かりませんが。恐らくもともとは市場価格調査の意味でそれを略して市価調と呼んだんだと思います。実際には価格調査の名を借りた暇つぶしで「ちょっとシカチョー行ってきます」はサボりの符牒みたいになってました。
現代ではお店の冷やかしより、ネットサーフィンがまさに冷やかしの代わりになっているとも言えるでしょう。当店なんかそれを先取りしたような形になってしまって(自慢じゃなくて、仕方なくそうなったんですけど)、ネットで冷やかしといて来店して買う、というのが定着しました。でもやっぱり直接会って接客したい、というのが楽しみなんです。だから、冷やかししづらい店になってしまいましたが、でも冷やかしは大歓迎、という姿勢は持ち続けたいです。ただwebShopで予習はしてきて欲しいな、というのもまた本音ではあります。
で、12月の余話は何の話、つて。倶樂部余話に冷やかしがあるとしたらこういう余話でしょう、というのが今回のオチ。メリークリスマス。(弥)

倶樂部余話【433】ペギーとキャサリンと (2024年11月1日)
初夏のある日、ダブリンのクレオからこんな問い合わせが入りました。「キャサリンというニッターを知ってますか。オモーリャに属して編んでいたんだけど、オモーリャが閉店してしまったので、クレオから仕事をもらえないか、って、かなり執拗に自薦してきてるの。どのくらいのスキルがあるのか皆目わからないので、野沢さんならご存知かと思って」
ここでちょっと補足。アイルランドの首都ダブリンの博物館の眼の前にあるクレオCleoは世界最高水準の珠玉のアランセーターを手掛けるアイルランドでもピカ一の店。技術力と想像力に長けた国内の秀逸なニッターだけを厳選して仕事を出しています。私との付き合いも40年近くに及び、今でも毎年数枚ずつのアランセーターを譲ってもらっています。片や、ゴールウェイの目抜き通りの黄色い店オモーリャO’Mailleとも25年以上前からの付き合いでした。アラン諸島にも近く、10人あまりのニッターを抱え、当社にも年間十数枚のアランセーターを供給してくれていましたが、今年4月、惜しむらく閉店しました。
さて、小さな世界の他愛のない話ですが、お聞きください。
問い合わせを受けて、急いでオモーリャの資料をひっくり返します。ありました、ニッターにキャサリンの名前のあるアランセーター、今までに5枚くらい売ってます。すべてオモーリャのテンプレート(指定パターン)で編まれてます。
「キャサリンのセーターはうちでも今までに何枚か入ってるよ。編みのスキルも仕上がりのバランスも問題ない、いいニッターだと思います。ただ、想像力やスピードはわかりません。自分からクレオに売り込んでくるぐらいだから、自信もあるだろうし、いい話じゃないかな」
キャサリンとは会ったことはないのですが、なんだか彼女の身元保証人になったような気分です。ん、なんか昔も同じようなことがあったなぁ。20年ほど前、オモーリャの店先でアランセーターを物色していたときのこと。
「ジャック(私のことです)、このセーター、見覚えない?」センターにダイヤモンド、サイドにツリー・オブ・ライフ、袖付けはセットインスリーブ、このパターンは、、、サインを見ると、、、
「イニシマン島のペギーじゃないか! 私の本にも登場している同い年のニッターだよ。確か身体を悪くして治療のために島を離れて本土に移ったって前にモーリンから聞いてたけど」
「また編みたいって、うちに来たのよ。話を聞いたら、イニシマン島でパドレイグ・オシォコンのところに編んでた、っていうじゃないの。ジャックの話もしてたわよ」
ペギーのインディビジュアル(個人独自の)なパターン(柄(ステッチ)の組み合わせ)はとても人気があったのですが、がんを患ってリタイアして以来、消息がわかりません。オモーリャが閉店してしまったので、問い合わせることもできません。キャサリンの移籍の話を聞いてすぐにペギーのことを思い出しました。
オモーリャからクレオへの移籍。正直、クレオとオモーリャでは店の格というものが違います。ドジャースとエンジェルスくらいと言ってもいいかな。それくらいクレオのニッターになるのには高いハードルがあります。クレオは慎重にこう言います。
「キャサリンに腕試しに一枚なにか編ませてみようと思うんだけど、、、」
と聞いて、私にひとつのアイデアが浮かびました。
「そしたら、身元保証人代わりに、一枚注文してもいい? キャサリンにペギーのパターンで編んてもらいたいんだ。それもオモーリャお得意のサドルショルダーで。もちろん出来が良ければ私が買うよ」
ほんとに他愛のない話でつまらないかもしれませんね。でも私にとっては宝物のような話なのです。私でなければ頼めないアランセーター、キャサリンがクレオに編んだペギー・パターンでオモーリャスタイルのアランセーター、それが昨日届いたんです。(弥)
倶樂部余話【432】 杵柄は使おう (2024年10月1日)
月の始まりはいつも区切りの感はあるのですが、今日10月はとりわけ区切り感を強く感じています。
区切り、その一。ドラマファンとして。朝ドラ「寅に翼」が終わりました。ほんのひと時でも法曹を目指したことのある私としては、女性法曹の強気な出世自慢だったら嫌だなと危惧していたらさにあらずの超秀逸作。多くの課題を私達の前に出してきました。ジェンダー問題、原爆裁判、朝鮮人差別、夫婦別姓、尊属殺、性的マイノリティ、障碍者、ブルーパージ、サイコパス、少年法改正、などなど、よく半年の間にこれだけのことを弱者の視線で盛り込み、そして最大の集団単位である国家と最小単位の家族、このふたつを全く対等なバランスで扱いました。これは見事な昭和史ドラマでまるで大河ドラマのような朝ドラではなかったか。逆に紫式部を描いた今季の大河、平安の架空なドロドロ恋愛ドラマに全く共感できず私にしては珍しく視聴を途中退場したので、私の頭の中では朝ドラと大河が逆転したような感覚があります。で、野沢の朝ドラランキング(倶樂部余話【415】参照)では何位に入るの、というと、これも今のところ、いまだかつてない別格扱いで、順位未定の特別賞、としておきましょう。
区切り、その二。静岡県民として。その朝ドラ最終回の放映日の朝刊は袴田事件再審無罪判決の記事で埋まっていました。私があえて語ることはあまりないのですが、袴田さんにお詫び、と、いう謝罪記事を載せた東京新聞の姿勢には拍手したいと思いました。毎日も謝罪、朝日は反省、他の大新聞や地元紙は特になし、らしいです。冤罪の世論形成に加担したことは謝ろうよ、昔のこととはいえ、そう思います。司法を舞台にした朝ドラの最終日という絶好のタイミングに初の女性検事総長が即座に控訴せずの会見をしていたら、検察の株は大いに上がっていただろうに。残念です。
区切り、その三。同窓生として。次の総理大臣が石破茂氏に決まりました。同い年だが彼は早生まれなので、大学は一期上、しかも同じ法学部法律学科。きっとどっかで何度かすれ違っているはずですが、それ以上でも以下でもない、同窓として恥ずかしくない言動をしてもらいたいものです。まずはその寸法の合ってないスーツをなんとかしよう、しわだらけの二の腕は実に見苦しい、シャツもネクタイもメガネもいただけない。今のその格好のままで欧米の首脳に会うのは恥ずかしいと感じてほしい。今からでもちゃんとしたスタイリストを付けよう。目立つようなことは要らない、もちろん控えめでちょっとダサくて、君のキャラならそれでいいんだけどね。服装に無頓着(なフリ)を売り物にして通用する政治家はトランプだけです。
区切り、その四 。洋服屋として。季節の区切りは10月になった。つまり、9月までは夏だ。そう考えざるを得ません。近ごろ四季が二季になったとよく言われます。とばっちりを受けているのが春と秋、どんどん短くなる。服装は春と秋の先取りが一番楽しいのですが、もはやこのときの考え方も変えないといけません。痩せ我慢な先取りは笑われるだけでなく健康にも悪い。まず色だけを先行させよう。夏から秋に例えて言うと、素材やアイテムは夏のままで、色合いだけを秋色に変える。冬から春も同じで、冬物のままで春色のコーディネートを楽しむ。つまり長くなる夏と冬は前半と後半で色合いを変えてみる。その変える目安は盆暮れ正月。素材を変えるのはお彼岸まで待ってていい。洋服屋には不利なようだがそうでもないだろう、何しろセールが不要になってくるはずだ。立ち上がりも遅くていい。四季の二季化。この新しい常識に対応できないと洋服屋は生きていけないだろう。
おまけ。やっばり洋服屋として。新しい常識と言えば、もう一つ。昔はいいモノがあった、とはよく言われますが、ひとつ進んで、今のモノより昔のモノの方が品質が良かった、というのが当たり前になった。古着屋が流行る所以ですが、今のモノを売る洋服屋としては痛し痒しのところもあります。ただ、私には当時得てきたコトやモノに関しては近頃の雑誌などには負けないだけの、昔取った杵柄があります。モノの知識だけでなくブランドの歴史や裏事情なども相当に覚えてます。これはこれから今まで以上に出していこうと思います。そう思うくらいに雑誌やネットには誤った記載が目につくようになってきました。それなりに歳を取ってひと回りふた回りしてきたということでしょうが、ただ口うるさいご意見番になるつもりもなく、また公にできない話もいろいろありまして、原則的には、聞かれたら答える、必要なことだけ答える、という姿勢は持ちたいなと考えています。ま、杵柄は使おう、ということであります。(弥)
倶樂部余話【431】 台風10号「サンサン」 (2024年9月1日)
春の18きっぷ越前の旅がうまくいったので、夏の18きっぷで城巡り&町歩き&工場見学という我ながらこれはいいぞと思える小旅行を計画したのですが、台風10号がやってくるというので、やむなく断念しました。中止を決めたその日、私とんでもない失態をしていたことに気が付いたのでした。
当店のwebShopで、お申し込みの際、メルマガ受信を希望するかどうか、をお客様にお伺いしているということにずっと今まで気付いていなかったのです。管理会社が初期設定していたフォームにその項目があることを知らなかった私の怠慢ですが、その上おかしなことに自動で入信する管理サイトからの受注メールにメルマガ希望の有無の情報が含まれてなかったのです。このたびご購入の自動メールがこちらに届かないというさらに重大なトラブルが発生し、その調査の中で、初めてメルマガのことにやっと気がついたというわけです。
幸い管理サイトの中に5年前のwebShop開店以来の購入者履歴が残っていることを知り、ひとりひとりメルマガの希望があるかどうか調べます。中にはその後リピーターになっていただいた方や個別にメールでやり取りして仲良くなった方、わざわざ静岡まで来てくれた方など、思い出すお名前も多く、懐かしく思います。そんな方々のメルマガ希望を長いこと気づかず無視していたなんて、ほんとに当店はひどい店です。きっと気分悪くされただろうなぁ、と思うとほんとにごめんなさい、です。個人情報の漏洩はなかったのでそれは幸いでしたが、こちらとしては情報漏洩よりもよっぽどショックが大きい大失態でした。
9月のメルマガ発行が迫っているので、急いで希望の方々を抜き出してリストを作ります。飛ぶように売れまくっているようなサイトではないのでそれほどの人数はいないだろう、と、高をくくっていましたが、それでもその数100名近くに及びまして、この方々のデータ入力にほぼ一日を要しました。旅行どころじゃなかったんですね、中止にしてよかったです。長いことほったらかしててごめんなさい、というメールを作り、これも本当ならひとりひとりにちゃんと謝らなければいけないのですが、時間が迫っていたので、BCCメールで勘弁していただいて、一斉送信したのがつい三日前のこと。そんないい加減な店からのメルマガならいらないよ、と不要のお返事を数名から頂戴しましたが、大半の方からはお許しをいただけたようで、安堵しています。今月号から80数名の新しいメンバーが加わることになり、秋のスタートを迎えることになります。
それにしても、サンサン君はほんとにのろまで気まぐれです。今日現在、発生から10日過ぎても西日本を迷走した挙げ句に再び太平洋沖で海水浴中で、また北陸に向けて列島を横断するらしい。これだけのろのろと長期間にわたり日本全土に被害をもたらした台風は初めてで記憶に残る台風となりそうです。この台風が過ぎれば、厳しい夏も終わっていよいよ楽しい秋がやって来ます。9月1日、今日は防災の日、秋の始まりを期待したい9月の始まりです。(弥)